我々は食事をすませた後、賑やかな四馬路を散歩した。それからカッフェ・パリジァンへ、ちょいと舞踏を覗きに行った。
芥川龍之介『上海游記』(講談社文芸文庫版より)
芥川龍之介が鹿鳴館を舞台とした『舞踏会』という短篇小説を書いた事は以前に紹介したが、もひとつ、芥川龍之介とダンスについて少しだけ書かれた本を見かけた。
芥川龍之介は、1921(大正10)年、29歳の時に大阪毎日新聞海外視察員として中国に渡った事があり、その時の上海の様子を『上海游記』としてまとめている。
『舞踏会』の翌年の話だ。
上海に着いてすぐの夜に、友人で国際通信社所属のイギリス人ジョオンズ君と一緒に食事に出かけ、食事の後に「カッフェ・パリジァン」という舞踏場を覗きに行った事が書かれていた。
このダンスホールは西洋人向けの場所らしく、中は広くて、生オーケストラの演奏で、ライトの光が曲に合わせて青くなったり赤くなったりしていたという。
芥川龍之介もジョオンズも、踊らずにただ飲んで見物しただけのようだ。
踊っていた客としては、フィリピンの少女やアメリカの青年、イギリスの老夫婦がいたことが書かれている。
夜11時頃に「カッフェ・パリジァン」を出た二人は、もう一軒、カッフェに立ち寄っている。
名前は書かれて無いが、「パリジァンなぞより、余程下等な所らしい」と書かれていて、あまり上品なホールでは無かったようだ。
中国人の青年がピアノを弾いて、イギリスの水兵たちが、化粧の濃い女たちと、だらしなくダンスしている様子が書かれている。
ここはイギリス水兵のたまり場だったのか、その後も水兵たちが入ってきて、ちょっと横暴な態度をしていたことが書かれている。
ダンスが云々というよりは、当時の上海の国際性がわかるような記事だ。
またWikipediaを見てみると、「1920年代から1930年代にかけて、上海は中国最大の都市として発展し、イギリス系金融機関の香港上海銀行を中心に中国金融の中心となった。上海は「魔都」あるいは「東洋のパリ」とも呼ばれ、ナイトクラブ・ショービジネスが繁栄した」とあり、やはり上海が国際的に発展していた時代のようだ。
ダンスホールの名前が「カッフェ・パリジァン」だったのは、「東洋のパリ」を象徴しているようだな。
以前に『青い猿』を紹介した時も、今回も、芥川龍之介は、ダンスを見ることはあっても、自身が踊る作家であったという証言を得ることができず、ちょっと残念かも。
カステラをちぎっては食べていたという芥川龍之介が、踊っていた姿を見てみたかったものだ。
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