また草野井邸の教習所は、かつてチャールストンに反抗したように、今またジタバグに反抗することを以て、お上品好きの連中に信用を高めていた。
三島由紀夫『純白の夜』(角川文庫版より)
山梨県南都留郡山中湖村にある三島由紀夫文学館のサイト(http://www.mishimayukio.jp/index.html)に書かれている年表によると、小説家・三島由紀夫(1925年~1970年)も1946年(昭和21)年12月17日に「ダンス教習所のシルク・ローズでダンスを習う。以後、定期的にダンスを習い、ダンスパーティーにも参加する」とあり、やはり踊れる作家だった。
三島由紀夫が1950(昭和25)年に書いた小説『純白の夜』は、大手銀行の創立者の娘・邦子が、夫の友人と不倫の恋に落ちる、不倫は文化な話なのだけれど、物語の中で、ダンス・パーティーの場面が、三度出てくる。
物語は、1948(昭和23)年から始まり、最初は草野井男爵なるダンス教授が主宰する舞踏会の場面だ。
この草野井男爵、設定では57歳で独身ということになっており、同じくこの頃50代で、独身で、日本にアルゼンチンタンゴを伝えた男爵・目賀田綱美(1896年~1969年)をモデルにしているように思えるが、どうなんだろ。
作中の草野井男爵は紳士らしく、流行の踊りよりも上品な踊りを好んだようで、冒頭に引用したように、「チャールストン」や「ジタバグ」といった流行のダンスに反抗したとし、ダンスは書かれてないが、やはりワルツやタンゴを好んだのだろう。
ここで「ジタバグ」というダンスの名前が出てきたが、これは後の日本の社交ダンスでは、「ジルバ」と称されるものだ。
1953(昭和28)年に出版された青木良郎著『社交ダンスの初歩から』でも「ジルバ」として紹介され、ジルバは終戦後進駐軍のGIたちによってもたらされたこと、本来の名前は「ジタバグ(jitter bug)」で、アメリカ流の発音だと「ジルバ」になると書かれている。
「ジタ」は「うろうろする」、「バグ」は「南京虫」のことで、偶然か故意なのか、虫のようにジタバタしたダンスなので、ジタバグな様だ。
二番目は、同じく1948(昭和23)年に、浜町河岸(日本橋あたり?)の、「東洋倶楽部」というダンス・ホールで、バイヤーたちのクリスマス・パーティが行われている場面だ。
ここで踊られたダンスもはっきりとは書かれてないが、ホールを予約した男の趣味に関して、「彼の関心は女とジャズ・レコードのアメリカの新譜」とあるので、ジャズで踊っていたのではないだろうか。
三番目に行く前に、ひとつ、興味深い場面が出てきた。
主人公の郁子は、戦争孤児を救済する慈善団体に入っていて、その用事で横浜に行く場面が出てくるのだが、この慈善団体が行うチャリティ活動、「東京、京都、軽井沢で春夏秋冬ひらかれるバザー、舞踏会の収益」から、孤児のために文具や玩具、菓子、それに奨学金を提供しているのだという。
戦争孤児たちの施設がある横浜に来た郁子は、横浜の山下公園付近が、進駐軍の住宅地になっているのを見る。
まだ終戦から3年後の話で、この頃の日本は米軍から占領された国だったに違いない。
三番目は、鎌倉で朝鮮人が経営している怪しげな倶楽部の場面だ。
ここの倶楽部の会員は、日本人・朝鮮人・露人・独逸人だが、米国人の下士官や兵隊が毎晩来ているとあり、ジャズの音楽で騒いで踊ているのも、やはり米兵たちだった。
この物語は終戦から3年後を舞台としていて、上流階級の話だから、戦後の悲惨さは影が薄いが、進駐軍の影は、このようにチラチラと書かれている。
これまで、ダンスの日本史をいろいろ追ってきた中で、私が感じたひとつが、戦争がダンスに与えた影響だ。
戦時中は当然のようにダンスは禁止・自粛されたが、このように戦後はすぐにダンスは解禁されている。
これはひとつは、進駐軍のためのダンスホールが全国に作られたことにもあり。
先に書いたように、「ジタバグ」すなわちジルバは、進駐軍が終戦後にもたらしたダンスであるとされ、平成の世に私たちが普通に踊っているジルバは、終戦後、米兵たちと日本人のコミュニケーションの中で広まっていったのではないかと思うと、面白い。
例えばダンス教授の草野井男爵は戦前から戦中、終戦後と、例え禁じられても、ずっとダンスを愛してきたという設定になっていて、これはモデルかもしれない目賀田男爵他、当時のダンス人たちに共通するものだろう。
作中の草野井男爵の屋敷は奇跡的に戦災を免れたが、目賀田男爵の屋敷は焼けてしまい、それでもバラック建ての教場を作ったと、目賀田匡夫著『目賀田ダンス』にある。
私たちが普通に踏んでいるステップは、そんな先人たちの、苦悩と解放のステップなのかもしれない。
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