ジャズの流れと、ステップの騒音とを巧みに利用して、いともコケットな流し目と、甘ったるい言葉とを浴びせかけながら、そのままでは別れられないような踊り方をしてくれるのだ。
酒井潔『日本歓楽郷案内』(中公文庫版より)
1931(昭和6)年に酒井潔が書いた、『日本歓楽郷案内』という歓楽街ガイドエッセイの中に、「ダンサーの中のエロ」という、身も蓋も無いタイトルで、当時の歓楽街のダンス事情が書かれている。
まじめにダンスをされている方や、女性視点で見ると、セクハラのような内容だが、当時のダンスホールを知る上での貴重な資料でもある。
なぜならば、何故ダンスが風俗営業扱いになったのか?を、この当時の状況を知ることによって、把握することが、できるからだ。
1948(昭和23)年に戦後最初の風営法が施行された時のダンスの扱いはというと、「キャバレー、ダンスホールその他設備を設けて客にダンスをさせる営業」と、キャバレーとダンスホールは同じ括りになっていた。
平成の世からすると、ホステスさんのいるキャバレーと、ダンスファンが集まるダンスホールって、違うんじゃね?と思えるのだが、この頃はそうでは無かった事が、この「ダンサーの中のエロ」を読むと、わかるのだった。
当時、東京市内外には20前後のダンスホールがあり、大阪式の営業形態だったらしい。
この本では説明されてないが、東京のダンスホールは関東大震災で一時期厳しい状況となり、代わりに大阪のダンスホールが盛り上がったという話がある。
その大阪式のダンスホールが東京に進出し、それらの店は「ダンサー」として雇われた女性スタッフに、チケットを渡して踊るタクシー・ダンサー制をとっていた。
男性客はお店に雇われた女性と踊るわけだから、キャバレーと同じと見なされても、仕方ない時代だったのかもしれない。
この本によると、当時のダンスホールは、踊る時間は午後2時から6時までが昼の部、6時以降は11時までだったらしい
昼は蓄音機で踊り、チケットは十銭。
夜はバンドが入り、その倍の金額が取られるとのこと。
酒井潔が通っていたのは、日本橋ビルヂングにあったダンスホールだそうで、そこは風紀上の問題で、この時すでに、廃業になっていたのだという。
「ダンサー」として雇われたのは年頃の娘達(昭和11年に出た『東京女子就職案内』には、16歳から25歳と書かれてる)で、そこに年頃のモダンボーイな男子達が訪れたら、風紀上の問題になるようなこともあることだろう。
この中には、酒井潔が実際に見た、当時の「ダンサー」と客の男の恋愛沙汰についても、リポートされていた。
このような恋愛沙汰のせいで、警察から目を付けられたダンスホールは、潰れることもあったという。
そのため、ダンスホールでは男女が変に絡みついて踊らないように、「フォックストロット」と「ワンステップ・ワルツ」かメインとなり、煽情的な「ブルース」や「タンゴ」、「ブラック・ボトム」などは、横浜・本牧のチャブ屋で踊られたのだともいう。
横浜・本牧については、渡辺温の『シルクハット』の時に詳しく書いたので、ここでは繰り返さないが、この本の中でも「雨の夜も、雪の夜も、本牧のホテルからはジャズの音が流れ、乱舞する靴の音が響いてくる」とある。
他にも横浜・山手の外人居留地にある、とある大邸宅で行われた、秘密倶楽部のダンス・パーティの話、大阪・道頓堀では芸子さんたちがソシアルダンスを始めたという話、神戸・三宮のインチキなダンス教室の話など、ちょこちょこと、ダンスにまつわる話が出てくる。
当時のダンスをとりまく状況を知る上で、面白い。
平成の世では、タクシー・ダンサーというシステムは、ダンスホールから無くなったと思うけれど。
でも、若い人が多くて活気があった時代は、それはそれで羨ましいとも思うのだった。
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