それゆけだんごむし!ーカトリック

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マリア様が大好きなカトリック信者です。

外国のサイトより
神のはしためルイザ・ピッカレータ 
被造界における神の王国
「天国の書」
「主イエス・キリストの受難の24時間」
「神の意志の王国における聖母マリア」
「ラウンドの祈り」などを紹介しています。

主イエズス・キリスト、聖母マリア、お二人を愛します。
お二人の聖心を通して、
その子供である私と、すべての霊魂をお救い下さい。



 

    

天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第8巻(3

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 3 】

 

1908年1月23日

 イエスは決して魂に無益なことはしない。一時的に敵に戦いを挑む時間と空間を与える。

 

1908年2月6日

 魂が恩寵の中にあるかどうかを知るためのサイン。

 

1908年2月7日

 人生の重荷は宝石に変わる。

 

1908年2月9日

 魂がイエスと共にあるべき道。イエスへの愛の必要性。

 

◆1802年2月12日

  勇気ある魂は、臆病な魂が一年かけてすることを一日で成し遂げる。

 

◆1908年2月16日

 十字架は私たちが主を愛しているかを知る最も確かな印である。

 

◆1908年3月9日

 すべての人の命がイエスの御心の中で鼓動する。

 

◆1908年3月13日

 イエスとの結びつきの温かさは、人間の心の冷たさを魂から追い出す。

 

◆1908年3月15日

 魂が神ですべてが満たされているとき、嵐は彼らを少しも動揺させる力がない。

 

◆1908年3月22日

 ルイーザの状態とは絶え間ない祈り、犠牲、そして神との一致の状態である。

 

 

 

J.M.J.

 

 

1908年1月23日

イエスは決して魂に無益なことはしない。一時的に敵に戦いを挑む時間と空間を与える。

 

Ⅿがお出でになったとき、彼は私にこれらの主の来臨おいて、私には何の価値もない、そして美徳を実践したときのみ、私は何かに値すると言いました。そして、彼はまた、彼の特定の必要のために祈るようにとも言われました。そして、その日の内に、自分が聞いたことが気になり、気を取り直すために自分にこう言いました。

 

「私の愛すべき善よ、私が利益を気にしたことは一度もなく、ただあなたを愛することを考えていたことをあなたはご存じです。彼らはまるで私が利益を気にするかのように、私をあなたの家の使用人にしたいようです。いいえ、私は使用人になりたいのではなく、娘になりたいのです。それ以上にあなたは私の最愛の人、私はあなたのものです。」

 

しかし、それにもかかわらず、その思いは何度も甦りました。

 

さて、私がいつもの状態に戻っていると、祝福されたイエスがお出でになり私に言われました。

 

「娘よ、はあなたに真実を話しませんでした。なぜなら、私が魂のもとに行くとき、決して無益なことはせず、必ず何か利益をもたらすからです。だから、私は魂に美徳について語り、魂を正し、私の美しさを伝え、他のすべてのものが魂にとっては醜く見えるようにします。たとえ私が魂に何も言わなかったとしても、魂の中に愛がより多く芽生え、魂が私を愛すれば愛するほど、私も魂を愛するようになることは確かです。愛の功徳は非常に偉大で、気高く、神聖であるため、他の功徳に比べれば、それらは鉛、これらは純金と呼ぶことができます。そのうえ、彼自身が来ました。そして実際、彼は彫像のように来たのではありません。彼は何か言葉をかけようとしました。そして被造物としてではありますが、あなたに何か良いことをしようと試みました。それでは創造主である私が無益なことをするのでしょうか?」

 

その瞬間、私はⅯから告げられた望みを思いだし、主が彼に応えてくださるように祈りました。そうしているうちに、銀色の服を着た彼の姿が見えました。彼の頭から黒いベールが降りて来て、目の一部を覆いました。そしてこのベールは彼の後ろにいるもう一人の人物にも通じているようでした。私はこれについて理解できませんでしたが、祝福されたイエスは私にこう言われました。

 

「あなたが見た彼は来ている銀色の衣服は、彼の純粋さであり、黒いベールは彼がそれに混ぜ合わせる『人間』です。彼が混ぜ合わせるこの人間は、彼の心に輝く真実の光を覆い隠すベールのようなもので、時に彼を恐れながら行動させ、あるいは誰かを満足させるために行動させ、私の恩寵が彼の心に輝かせる真実に従って行動することを妨げています。」

 

そして私は、「主よ、彼が私に告げたことを彼に与えてください。それはあなたの栄光のために非常に尊重するものだからです。」と言いました。

 

主は答えられ

「優柔不断な魂にとって、一時的な行動は、敵に戦いを挑む時間と空間を与えます。一方、敵に時間を与えず、毅然として揺るぎない態度を示すころで、敵への扉は閉ざされ、人は争いに身をさらすこともありません。ですから、もし彼が早く目標を達成したいのであれば、これがその手段であり、私は彼と共にあり、彼は勝利するでしょう。 そして、彼に最も反対している者たちが、彼が自分太氏の人間的な見方を覆したのを見て、彼を最も支持し、賞賛するようになるでしょう。」

 

 

 

1908年2月6日

魂が恩寵の中にあるかどうかを知るためのサイン。

 

私がいつもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しだけお出でになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、魂が私の恩寵の中にあるかどうかを知るための印は、私の恩寵が魂の中に自らを伝えるとき、すでに魂の内部のあった恩寵と、その後に自らを伝える恩寵とが手を取り合い、魂の意志と結びついて、活動する姿勢に身を置くことができるように、魂が恩寵を望むことを行なう準備が出来ているかどうかということです。もし魂の準備が出来ていないなら、疑問に思うことが沢山あります。恩寵は電流によって象徴され、電流を受け取るための準備が整ったものだけにスイッチをいれます。しかし、これらの準備がない場合、あるいはワイヤーが断線していたり、腐食している場合は、電流が流れていても光はそれ自体を伝えることはできません。」

 

そして主は姿を消しました。

 

 

 

1908年2月7日

人生の重荷は宝石に変わる。

 

いつもの状態で、祝福されたイエスが十字架を背負っているときに感じた大きな重さについて考えていました。そして私は自分にこう言い聞かせました。

「主よ、人生も重荷です。しかし、なんという重荷でしょう。特に私の最高の善であるあなたが遠く離れているのですから。」

 

その時、主がお出でになり私にこう言われました。

 

「娘よ、人生が重荷であることは事実です。しかし、この重荷を私と一緒に背負い、人生の終わりにこの重荷を私の中に降ろすことが出来ることを知るとき、この重荷が宝物に変えられることに気づくでしょう。そこには宝石、ルビー、ダイヤモンドなど、そして魂に永遠に幸福をもたらすようなあらゆる富があります。」

 

 

 

1908年2月9日

魂がイエスと共にあるべき道。イエスへの愛の必要性。

 

聖体拝領の後、私はこう言いました。

「主よ、私をいつもあなたに抱きしめてください。私は小さすぎます。もしあなたが私を抱きしめて下さらないなら、私は小さいので迷子になってしまいます。」

 

そして主は

「あなたが私と共にあるべき道を教えてあげましょう。

まず、私の中に入り、私の中で自分を変容させ、私の中にあるものを手に入れなければなりません。

第二に、ひとたびあなた自身を完全に私でみたしたら、外に出て、あたかも私とあなたが一つのものであるかのように、私が動けばあなたも動くように、私と一緒に行動しなさい。もし私が考えるなら、あなたも私が考えていることと同じことを考える—要するに、私が何をするにしても、あなたも同じようにするのです。

第三に、私たちが共に行ったこれらの行為によって、一瞬でも私から離れ、生きとし生けるものの中に入り、私たちが共に行ったすべてのことをすべての人に、そして一人一人に与えなさい。つまり、私の神聖な生命を一人一人に与え、その後すぐに私の中に戻って、すべての人の名において、彼らが私に与えるべきすべての栄光を私に与え、祈り、彼らを許し、償い、愛し……。ああ、そうです!すべてのために私を愛し、愛で私を満たしてください!私には情熱はありませんが、もし情熱があるとすれば、それはたこれだけ、つまり愛です。しかし私の中の愛は情熱以上のものです。それは私のいのちです。情熱は打ち砕かれることはあっても、いのちが打ち砕かれることはありません。愛されることの必要性を私はそこに見出します。だから、私を愛しなさい。私を愛しなさい。」

 

 

 

1802年2月12日

勇気ある魂は、臆病な魂が一年かけてすることを一日で成し遂げる。

 

いつもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しお出でになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、臆病は恩寵を弱め、魂を弱体化させます。臆病な魂は神のためにも、隣人のためにも、あるいは自分自身のためにも、偉大なことをすることが出来ません。魂が臆病なとき、それはまるで足を縛られているかのようです。自由に歩くことが出来ず、いつも自分自身のことと歩くための努力に目を向けています。臆病な魂は目線を低くし、決して目線を上げ、高いところを見ません。魂は活動において、神からではなく、自分自身から力を得ています。そのため魂は強くなるどころか弱くなります。恩寵が種を蒔いたとしても、貧しい農夫が自分の小さな畑に種を蒔き、耕作したにもかかわらず、ほとんど何も収穫できないのと同じことが起こります。一方、勇気のある魂は、臆病な魂が一年かけて行なう以上のことを一日で行うのです。」

 

 

1908年2月16日

十字架は私たちが主を愛しているかを知る最も確かな印である。

 

いつもの状態のとき、徳を積むこと、祈り、秘跡など、主を愛しているかどうかを知ることができるものは他にも沢山あるのに、なぜ十字架だけが本当に主を愛しているかどうかを知ることができるのか考えていました。そんなことを考えていると、祝福されたイエスがお出でになり、こう言われました。

 

「娘よ、本当にそうです。忍耐と諦めをもって背負った十字架だけが本当に主を愛しているかどうかを知るものなのです。なぜなら、十字架に忍耐と諦めがあるところには、神聖な命が宿るからです。本性は苦しみを非常に嫌うので、忍耐があるとすれば、それは本性ではなく、神聖なものであり、魂はもはや自分の愛だけで主を愛するのではなく、神聖な命の愛と結びついています。だからもし魂が主の愛によって主を愛するところに辿り着いたら、魂は自分が愛しているかどうかを疑うことができるでしょうか?

 

一方、他のもの、そしてまさに秘跡の中にも、愛する者、この神聖な命を自分の内に秘めたものがいるかもしれませんが、これらのものは十字架の確かさを与えることは出来ません。そこにあるかもしれないし、ないかもしれない、なぜなら気質が欠けているからです。告解に行くことは大いに結構ですが、もしその人にそのような気質が欠けているならば、確かにその人は愛しているとは言えないし、この神聖な命を自分の内に受けたとは言えません。別の人は聖体拝領を受けるかもしれません。確かに彼は神聖な命を受けますが、この神聖な命が彼の中に留まっていると言えるのは、彼が真の気質を持っていた場合だけです。実際、聖体拝領を受けたり、告解に行ったりする人がいても、その場面になると、神のいのちの忍耐を見ることは出来ません。もし忍耐が欠けているなら、愛は欠けています。なぜなら愛は犠牲を通してのみ認められるからです。そして疑いもあります。一方、十字架、忍耐、諦めは、恩寵と愛によってのみ生み出される果実なのです。」

 

 

 

 

1908年3月9日

すべての人の命がイエスの御心の中で鼓動する。

 

いつもの状態が続いていると、祝福されたイエスがほんの少しお出でになり、私に近づき、ご自分の心臓の鼓動を聞かせてくださいました。そして、他の多くの小さな鼓動が主の鼓動の中で動きました。主は私に言いました。

 

「娘よ、これは私の心が受難の中で自らを見つけた状態です。すべての人間の命が私の心臓の中で鼓動し、その罪とともに、すべてのいのちが私に死を与えようとしていました。そして私の心は、彼らの恩知らずにもかかわらず、愛の暴力によって奪われた命をすべての人に取り戻したのです。そのため、私はあんなにも強く動悸し、私の鼓動の中にすべての人間の鼓動を封じ込め、それらを再び恵の鼓動、愛の鼓動、神聖な喜びの鼓動へと蘇らせたのです。」

 

そして主は姿を消しました。

 

これに加えて、多くの訪問で一日を過ごした私は疲れを感じ、心の中で主に向かって嘆き悲しんでいました。

 

「被造物から私を遠ざけてください。私はとても重圧を感じています。彼らが私に何を見つけ、何を望んでいるのかわからないのです。私の内面においてはあなたと共にあり、外面では被造物と共にいるために、私が自分自身に絶えず行っている過ちを憐れんでください。その時、母なる女王がお出でになり、右手を上げ、愛すべきイエスがおられると思われる私の内部を指さして私に言いました。

 

「愛する娘よ、自分を責めてはなりません。被造物は宝物のあるところに走ります。あなたの中には苦しみの宝があり、その中に私の愛する息子が宿っているので、彼らはあなたのところにやってくるのです。しかし、あなたは彼らと接しながら、自分の宝物から目を逸らさずに、一人一人に自分の中にある宝物、すなわち十字架と私の息子を愛させるようにしてください。そうすれば、あなたは彼ら全員を豊かにして送り返すことができるでしょう。」

 

 

 

 

1908年3月13日

イエスとの結びつきの温かさは、人間の心の冷たさを魂から追い出す。

 

いつもの状態でいると、奇妙なことをする悪魔がやってきました。しかしその悪魔が消えるとすぐに私はそれについて考えなくなり、その奇妙な行動を忘れて私の最高で唯一の善のことで頭がいっぱいになりました。しかしその後、ある考えが浮かびました。

「私はなんてダメで無感覚なのでしょう。何も心に残らないのです。」

 

そして祝福されたイエスは私に言われました。

 

「娘よ、植物が寒さや霜や雪にさらされない地域があります。そのため、葉も花も果実も落とされることはありません。そして、もし休みを取るとしても、それは短期間であり、その果実を収穫したときに、他の果実が成長するのに必要な時間を確保するためです。実際、暖かさはそれらを見事な方法で繁殖させ、寒冷地のように生育が遅れることがありません。これらの貧しい植物は、霜や雪のために、何ヵ月もの間ほとんど実をつけなくなります。しかも非常に短い時間でそれらを収穫しなければならない農家の忍耐力を疲弊させます。

 

これが私と結ばれた魂たちです。私の結びつきの温もりが、人間的な心の冷たさを彼らから追い出し、それは寒さのように、彼らを不毛にし、葉も神聖な果実ももぎ取ってしまいます。情熱の霜、混乱の雪が魂の恵みの実りを妨げます。しかし、彼らが私との結びつきの影に留まっているので、もはや彼らに影響を与えることはなく、私たちの結びつきと安息を乱すようなものが彼らの内部に入り込むこともありません。彼らの人生のすべてが私の中心で回っています。だから、彼らの傾倒、情熱は神に向けられています。時折少し休憩することがあるとすれば、それはより大きな慰めの驚きを彼らに与えるため、単に自分自身を隠すことに他なりません。そうすれば私が隠れている間に、彼らが行った忍耐と英雄的行為のよりおいしい果実を彼らの中でもっと楽しむことができます。

 

不完全な魂にはまったく逆なことが起こります。彼らは本当に寒い地域で生まれた植物のようです。それらはあらゆる影響に左右されます。そのため、彼らは理性や美徳よりも影響によって生きているのです。傾向、情熱、誘惑、混乱、そして人生におけるあらゆる出来事は、寒さ、雪、霜、雹のようであり、それらが私と彼らとの結びつきを妨げます。そして彼らが美しい花を咲かせたと見えるとき、新たな失敗、彼らを動揺させる何かが、この美しい花を枯らし、地面に落とさせます。ですから彼らはいつも最初からいます。実がほとんど実らないので、それらを育てるのに私の忍耐を疲弊させるのです。」

 

 

 

1908年3月15日

魂が神ですべてが満たされているとき、嵐は彼らを少しも動揺させる力がない。

 

今朝私は自分の最高の、そして唯一の残の欠乏のために、これまで以上に苦しんでいましたが、同時に私は平静で、以前の天と地を駆け回っていてときのような不安もなく、主を見つけたときだけ立ち止まることが出来ました。なので私は自分にこう言いました。

「なんという変化でしょう。あなたの不在の痛みにさいなまれていながら、涙は出ず、私を完全に支配する深い平安を感じます。逆らうものが私の中に入ってこないのです。」

 

その時、祝福されたイエスがお出でになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、悩むことはありません。海に激しい嵐が来ても、水深の深いところでは嵐は表面的なものにすぎないことを知らなければなりません。海の底はこの上ない静けさにあり、魚は嵐を察知すると、より安全な水深の深い場所に集まります。つまり、海の水がほとんどないところで、嵐全体が降ろされます。なぜなら、水が少ないからこそ、嵐は水を上から下までかき回す力があり、さらには他の場所、つまり海の他の場所に動かす力があるからです。

 

ですから、魂が完全に神で満たされているとき、縁を越え外に溢れるばかりに満たされているときそれは起こります。嵐には彼らを少しも動揺させる力はありません。なぜなら神に逆らう力などはないからです。たいていは表面的に感じる程度でしょう。さらに魂は嵐を察知すると、美徳を整え、神の最も深いところに潜り込みます。だから外見上は嵐が吹き荒れているかのように見えますが、それは全くの誤りです。そのときこそ、魂はより多くの平和を楽しみ、海の懐にいる魚のように、神の懐の中で静かに休むのです。

 

神がいない、あるいはほんの少ししかいない魂にとっては、全く逆です。嵐は彼らを動揺させ、わずかな神の存在があったとしてもそれを無駄にします。また彼らを動揺させるには強い嵐も必要ありません。わずかな風が吹くだけで美徳は彼らから逃げて行きます。さらに、聖なるもの自体が、かつての魂にとってはおいしい牧草地であっても、これらの魂にとっては嵐に変わります。彼らはあらゆる風に吹き飛ばされるので、どこから見ても彼らにとってそれは決して平穏な状態ではありません。なぜなら理性は、神のすべてがないところでは、平和の継承が彼らから遠く離れていることを要求するからです。」

 

 

 

 

1908年3月22日

ルイーザの状態とは絶え間ない祈り、犠牲、そして神との一致の状態である。

 

いつもの状態を続けていると、気が付くと自分の外にいて、Ⅿや他の司祭たちが見えました。すると、神々しいほど美しい青年がやって来て、私に近づき食べ物をくれたので、Mと他の人にも分けてくれるように頼みました。そこで彼はⅯに近づき、彼はそれを分け与えて言いました。

 

「私はあなたと私の食べ物を分け合います。あなたは私に魂を与えることによって私の飢えを満たしてください。」

 

Ⅿがやりたい仕事を指し示し、また彼に刺激やインスピレーションを与えることで、彼の内面を強く刺激し、そしてそれを他の人と共有しました。

 

そうこうしているうちに、由緒ある婦人が現れ、青年から食べ物をもらった人たちが婦人の周りに集まり、私の状態はどうかと尋ねました。すると婦人は答えました。

 

「この魂は、絶え間ない祈り、犠牲、そして神と一致しています。彼女は教会、世界、そして神の正義のすべての出来事に接し、正義が被造物に下そうとする懲罰を出来る限り解放し、阻止するために、祈り償っています。ですから、なにもかもがすべて中断しているのです。」

 

それを聞きながら、私は自分にこう言いました。

「私はこんなに悪いのに、これが私の状態だと言われます。」

 

しかし、それにもかかわらず、私は高いところにある小さな窓の近くにいることに気づき、そこから教会と世界で行われているすべてのこと、そして今まさに降りかかろうとしている災いを見ることが出来ました。しかし、誰がそのすべてを話すことができるでしょうか? あまり長くならないように先に進みます。そして私は…ああ、どんなに嘆き、祈ったことでしょう! 私はこのような事態を避けるためなら自分をバラバラに引き裂きたいと思いました。しかし突然すべてが消え去り、私は自分の中にいることに気が付きました。

(4)に続く…



ヨハナ通信

 

また訳のわからない翻訳になってしまいました(涙)

こんな程度でよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ

 

Nos com prole pia, benedicat Virgo Maria.

 

 

 

 

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