――DDRをしていて考えたこと
この話を書こうとしている途中で、少し横道にそれました。
同じ内容でも、研究や専門的な言葉といった「権威」を使って書くと、文章はどのくらい説得力を持つのだろう。
それが気になって、まずこの話を短くまとめ、生成AIに3通りの文章を作ってもらいました。
1つ目は普通の文章。
2つ目は、研究や専門的な知見を前面に出して、いかにも説得力がありそうに書いた文章。
3つ目は、研究や専門的な知見を文章の中に自然に溶け込ませ、権威を借りていることをあまり意識させない文章。
その3本を比べる記事は、別のブログにしました。
やってみると、少し意外でした。
「2番はいかにも権威を借りているから、私は警戒するだろう」
と思っていたのですが、実際には2番も3番もかなり自然に読めてしまいました。
おそらく、そもそもの題材が私自身の経験や感覚に合っていたからでしょう。
「そうそう、私もそう思っていた」
と思ったところに、もっともらしい説明が加わる。
すると、権威を借りていることさえ、あまり気にならなくなる。
このこと自体が面白かったのですが、そもそも何を考えていて、こんな実験を始めたのか。
ここからが元々書こうとしていた話です。
歩道を「電車道」のように走ってくる人
歩道を歩いていると、ときどき気になるランナーがいます。
かなり手前からこちらが見えているはずなのに、進路をほとんど変えず、まっすぐ走ってくる。
こちらが避けなければ、直前までそのまま来そうです。
相撲でいう「電車道」のように見えます。
もちろん、ランナー全体の話ではありません。
遠くから大きく進路を変えてくれる人もいますし、歩行者との間隔を十分取って走る人もいます。
気になるのは、
なぜ一部の人は、あれほど身体を動かしているのに、周囲に合わせて少し横へ動こうとしないのか
ということです。
そこで、少し意地の悪いことを考えました。
ひょっとすると、長い距離をまっすぐ走ることばかりしているために、身体が機敏に動かなくなっているのではないか。
健康のために走っているつもりが、実は身体の使い方を偏らせているのではないか。
そんな仮説です。
DDRをしていると「なぜ避けない?」と思う
私がそう感じるのは、DDR、DanceDanceRevolutionをしていることも関係しているのかもしれません。
DDRでは、次々に出てくる矢印に合わせて足を動かします。
右が来たら右。
左が来たら左。
前、後ろ、左右の組み合わせも次々に変わります。
ただ足を速く動かせばよいわけではありません。
次の矢印を見る。
どちらの足を使うか判断する。
重心を移す。
踏んだ瞬間には、もう次の動きを考える。
テンポが速くなれば、少し先まで見ながら身体を準備します。
一定方向へ進み続けるランニングとは、かなり違います。
どちらかといえば、サッカーやテニスなどのように、状況に応じて自分の動きを変え続ける感覚に近い。
もちろん、サッカーでは相手が突然方向を変えますから、DDRよりはるかに予測不能です。
それでも、
環境が変わったら、自分の身体のほうを変える
という点では共通しています。
だから、歩道のずっと先に歩行者がいるのに、そのまま一直線に走ってくる人を見ると、
「なぜ少し早めに軌道を変えないのだろう」
と思ってしまうのです。
「走れる」と「機敏に動ける」は同じではない
調べてみると、最初の仮説には一部だけ当たっているところがありました。
直線的に走る能力と、急に減速して方向を変える能力は、同じものではありません。
方向を変えるには、
速度を落とす。
片足で身体を支える。
横方向へ力を出す。
再び加速する。
といった別の動きが必要になります。
サッカーやテニスでは、こうした方向転換や反応を独立した能力として鍛えます。
つまり、
長距離を走れる=あらゆる方向へ機敏に動ける
ではないようです。
ただし、だからといって、
「ランニングを続けると身体が悪くなり、避けられなくなる」
とまでは言えません。
むしろ、
ランニングだけでは使わない能力がある
と考えるほうが自然です。
平坦な道を一定のリズムで走ることに身体が慣れていれば、急に横へ動くことを好まなくなることはあるかもしれません。
しかし、身体そのものが壊れているわけではない。
ここは最初に考えたこととは少し違いました。
だったら、歩行者を避けることまで運動にすればいい
そこで、逆のことを考えました。
健康のために走っているのなら、歩行者を安全に避けることも運動にしてしまえばいい。
もちろん、直前でサッカーのようにフェイントをかけて人の間を縫って走れ、という話ではありません。
十分手前から歩行者を見る。
この人はこのまま進みそうだ、と予測する。
早いうちから少し進路をずらす。
通過したら滑らかに元へ戻る。
これだけです。
でもその間には、
見る。
予測する。
判断する。
重心を変える。
少し横へ移動する。
元の軌道へ戻る。
という動きがあります。
一直線に走り続けるより、身体も頭も使います。
DDRなら、次の矢印に合わせて自分の動きを変えることそのものがゲームです。
矢印が出てきたときに、
「邪魔な矢印だ。どけ」
とは思いません。
だったらランニングでも、
歩行者は邪魔者ではなく、周囲の状況に合わせて自分の動きを調整するための情報
くらいに考えてもよいのではないでしょうか。
しかも、速いほうが避けたほうが効率的では?
ここでもう一つ疑問が出てきます。
歩行者よりランナーのほうが速い。
後ろから追いつく場合なら、ランナーには歩行者が見えていますが、歩行者には後ろのランナーが見えていません。
ランナーのほうが、
速い。
前方の情報を早く得られる。
身体も動かしている。
ならば、能力にも情報にも余裕がある側が早めに進路を変えたほうが、全体として効率がいいのではないでしょうか。
歩行者がランナーに気づくたびに右へ左へ動くより、ランナーが空いているところを選んで走る。
そのほうが滑らかです。
まして、高齢者、小さな子ども、荷物を持った人などがいる歩道なら、身体能力の高い側が調整したほうが安全でしょう。
「速いから優先」ではなく、
速いからこそ、早く判断して調整できる
という考え方です。
雨の日には、お互いに傘を傾けていた
そう考えているうちに、昔の雨の日を思い出しました。
幅の広くない歩道で、傘を差した人同士がすれ違う。
そのとき、お互いに傘を少し外側へ傾ける。
こちらが少し動く。
相手も少し動く。
言葉を交わす必要もありません。
ほんのわずかな動作で、二人とも気持ちよく通れます。
私はこういうすれ違いを普通のこととして覚えています。
ところが最近、ときどき、
「私はこのまま行きます。そちらが避けてください」
と言わんばかりに進んでくる人に出会います。
もちろん、本人はそんなことを考えていないのかもしれません。
しかし行動だけを見れば、
私は0センチ、あなたが全部避けて
という形になります。
すると、本来はお互いが少しずつ調整するだけだったすれ違いが、妙なものに変わります。
これは「チキンレース」なのかもしれない
お互いに直進を続ける。
「相手が避けるだろう」
と考える。
どちらかが先に避ける。
これは少し、チキンレースに似ています。
ただし、本当のチキンレースとは重要な違いがあります。
配慮する人は、ぶつかる前に避けます。
すると配慮しなかった人は、そのまま通過できます。
結果として、
避けなかった側が毎回勝つ
ことになります。
しかも、本人は勝負をしていたことにさえ気づかないかもしれません。
「普通に歩いていたら、普通に通れた」
「普通に走っていたら、何も問題は起きなかった」
そういう記憶だけが残ります。
これが続けば、
「自分は避けなくても大丈夫」
という行動が自然に固定されていっても不思議ではありません。
昔なら「危ないだろ!」と言う人がいた
ここでもう一つ、昔と今で違うように感じることがあります。
昭和には、いわゆる「瞬間湯沸かし器」のような人が結構いました。
ちょっとしたことで、
「危ないだろ!」
「何やってるんだ!」
と怒る。
あれがよかったと言いたいわけではありません。
理不尽に怒られたこともあったでしょうし、威圧的な人もいました。
今なら、知らない相手に注意して逆上されたら怖い。
余計なトラブルを避けるために、黙って離れる。
そのほうが安全です。
これは合理的な変化だと思います。
ただ、その結果として、一つ失われたものがあるのではないでしょうか。
その場で返ってくるフィードバックです。
本人には「今日も問題なかった」としか見えない
ランナーがまっすぐ来る。
歩行者が避ける。
ランナーはそのまま走る。
ぶつからない。
誰も注意しない。
この一連の出来事を、ランナー側から見ると、
何も問題は起きていない
ことになります。
でも歩行者側では、
「危ないな」
「どうして私が避けるのだろう」
という小さな不快感が発生しています。
つまり、問題がなかったのではありません。
配慮した側が問題を吸収したため、表面化しなかった
だけです。
ここが重要だと思います。
配慮しない人ほど、配慮する必要を学ぶ機会がない。
配慮する人ほど、先に避ける。
すると、
配慮する側の負担によって、配慮しない行動が維持される。
なんとも皮肉な仕組みです。
「昔の日本人はよかった」という話にはしたくない
ここまで書くと、
「昔の日本には思いやりがあった。今の人はマナーが悪くなった」
という話に見えるかもしれません。
私は、そこまで単純には考えていません。
昔には昔の問題がありました。
人間関係が濃すぎる。
知らない大人から理不尽に叱られる。
周囲の目を気にしなければならない。
集団の暗黙のルールから外れにくい。
そういう窮屈さもありました。
今は、他人に過度に干渉しない。
余計な争いを避ける。
個人の自由を尊重する。
その良さがあります。
ただ、
昔あった「他人の行動に小さなフィードバックを返す仕組み」まで弱くなったのではないか
とは思います。
そして、それに代わる新しい仕組みを、私たちはまだ十分持っていないのかもしれません。
「すれ違う」は小さな共同作業だった
考えてみると、歩道ですれ違うという行為は、一人では成立しません。
向こうから人が来る。
こちらが少し動く。
相手も少し動く。
それぞれが相手の動きを見ながら微調整する。
結果として、何事もなく通り過ぎる。
たった数秒のことですが、
これは小さな共同作業
なのだと思います。
傘を少し傾けるのも同じ。
肩を少し引くのも同じ。
歩く速度を少し変えるのも同じ。
ランナーなら、少し早めに走路を変える。
大げさな思いやりではありません。
ほんの少し、自分の身体を相手に合わせる。
それだけです。
みんなが10センチずつ動く社会と、一人が20センチ動く社会
今回の話を考えていて、一番しっくりきたのはここでした。
二人がすれ違うとき、
こちらが10センチ。
相手も10センチ。
それで済む社会。
もう一つは、
こちらは0センチ。
相手が20センチ。
それで一応、衝突はしない社会。
結果だけ見れば、どちらも「無事にすれ違った」です。
でも、中身はかなり違います。
前者は協調です。
後者は、片方がもう片方に調整を押しつけています。
しかも、それが毎回続けば、押しつけている側には自覚が生まれません。
健康のために走るなら、もっと身体を使ってもよいのでは
そして最後に、最初のランニングの話へ戻ります。
ランニングが身体に悪い、とは考えなくなりました。
でも、
健康のために身体を動かしているのに、一直線に進むことだけにこだわるのは少しもったいない
とは今でも思います。
周囲を見る。
相手の動きを予測する。
早めに進路を変える。
必要なら少し減速する。
また加速する。
身体を左右にも使う。
頭も使う。
そうすれば、歩行者と気持ちよく共存できるだけでなく、運動としても少し豊かになります。
DDRなら、次々に現れる矢印へ対応することそのものを楽しみます。
ランニングでも、
周囲の変化に合わせて、自分の身体をうまく使うことまで楽しめばいい
のではないでしょうか。
歩道はランナー専用のトラックではありません。
同時に、ランナーは歩行者の敵でもありません。
お互いがほんの少しずつ動けば、何も問題は起こらない。
昔の傘のすれ違いのように、
こちらも少し。相手も少し。
公共の場所というのは、案外そんな小さな動きの積み重ねでできているのかもしれま
以上、生成AIとの会話をもとに生成AIとともに整理再構成しました。せん。
