俺は常々明鏡止水の心境でいようと心掛けて生きている。滅多な事では怒らない。長州力の「俺を切れさせたら、たいしたもんだ!!」が正に当てはまる男。
ジョージさんって温厚・穏やか・優しいですねと言われてきた。でもそんな俺が怒った時は滅茶苦茶恐い。仏の顔も三度。修羅になる。
名誉会長が些細な事ですぐに怒る。それを目の前で何度も見てきたから、反面教師にして、俺は下らない事、受け流せる事では怒らないで生きてきた。明鏡止水の心境で過ごしていると、笑顔も増えてくる。心も平和になる。良い事尽くしだ。
でも人間には誇りがある。怒らねばならない時もある。その時は怒る様にしている。本当に滅多にないが、そういう時もある。
今回はそんな俺の一つのエピソードを話そう。
あれは中学二年生の時だった。同じクラスに番長がいた。舎弟を数人連れていて、空手を習っており滅茶苦茶見た目も恐く、喧嘩も強いと恐れられていた。周囲の人はビクビクしていた。誰も逆らえない状態だった。
そんなある日、休憩時間の廊下で事件は起こった。その番長が俺に「上履きを舐めろ」と言ってきた。俺は睨み返し「舐めんなよ、やってやるよ。」とタイマンの殴り合いの喧嘩を吹っ掛けた。廊下にギャラリーが集まり、その中で殴り合いが始まった。
興奮状態だったから、殴られても痛くなかった。チャイムが鳴り、喧嘩は中断になり、席に付いて授業を聞いていたら、みるみる目の下が腫れあがってきた。お岩様みたいな酷い顔になり、周りの同級生も「熊さん、大丈夫?」と心配の言葉を・・・。
止めてくれ・・・そういった温かい言葉を言われると涙腺が緩んでしまう。
担任の先生に番長と俺は職員室に呼ばれて、握手をして仲直りしろと言われた。嫌々握手をした。
それから数日、俺の顔はお岩様状態だった。でも信じられない事が起こった。いつの間にか、あの番長にタイマンを挑んだ勇気ある勇敢な英雄のような扱いを受けた。
「凄いよ、熊さん恰好良いよ、惚れたよ」と言われ、いやいやいや負けてお岩様状態の俺がどこが格好良いねん。でも誉めらせて、女子からも熱い視線を貰い、満更でも無かった。
あの時、恐がって上履きを舐めていたら俺の人生は180度変わっていただろう。
誇りがある。ここは怒るべきだ。自分の尊厳を守るために死んでも良いから戦うべきだ。そう思って俺はタイマンした。そこで初めてダンディーに生きる事を決めたのだった。ダンディズムに目覚め、ジョージ・アツーシが誕生した瞬間だった。
それ以後、俺は滅多に怒らないが、どうしても許せない事があった時は、家族にも恋人にも友達にも音楽仲間にも、怒る事にしている。それで縁が切れても良い。でも今のところは、言葉を交わし合い、お互いの不満を言い合い、真剣に深く言葉を浴びせ合うと、自然と喧嘩後に仲直りした後に、絆が深まるのだ。不思議だな。喧嘩するほど仲が良いとは真実なのかもしれない。
もう1つ話したい事は、真面目にやってる人、真剣にやってる人、言葉を真摯に送っている人、そういった人に対して馬鹿にする風潮が、今の時代は当たり前のようにある。
中島みゆきが「ファイト」という歌で歌っている。「戦う君の歌を 戦わない奴が笑うだろう」と。
そういった輩は真面目に戦ったり、語り合ってる人に対して平然と「馬鹿」「ダサい」「キモイ」「ウザイ」「ヤバイ」と言った言葉を吐く。
はぁ~。本物の馬鹿はどっちですか?本物のヤバイ奴はどっちですか?
俺はこういった輩を心の底から軽蔑し嫌ってきた。こういった輩は許せなかった。
正に真性の人間のクズだと思ってきた。
でも大人になると見方が変わる。この真性の人間のクズも社会に貢献しているのだと。
所謂「必要悪」である。世の中には必要悪が絶対に必要なのである。
世の中全員が心の綺麗な純粋な素敵な人間になってしまったら、どうなるだろうか?それが当たり前になり、善人の価値が薄れてしまう。だからこそ必要悪が不可欠なのだ。真性の人間のクズがいるから、尚更それと比較して善人の輝きは増していく。
つまり必要悪も一周回って、愛しく思えてくるものだ。可愛く見えてくる。
でもこの社会は愚かな政治家、愚かな民衆が大多数だから、何でもかんでも悪を無くして健全な世の中へと導こうとしている。
いやいやいや、あんたら何も分かって無い。悪が無くなったら正義も無くなる。
必要悪に感謝したい。「ありがとう」と。世の中の為に悪でいてくれて。
今回の文章は昨夜ベットの中で、頭の中に渦巻いてきたものを、そのまま無修正のモザイク無しで書きました。いかがだったでしょうか?
「この文章に共感した人、心が動いた人は車庫証明くれ!!」
