こうも暑い日が続くと頭に血が上りやすくなってしまっているのでしょうか。
 日ごろは「お人好しが服を着て歩いているようだ」と、穏やかさにかけては定評のある僕でさえも、ついカッとなってしまいそうな局面に出くわすことがあります。しかしながら、怒りをすぐさま表層に出してしまうのは現代人らしくありません。怒りはコントロールを求められる感情なのです。
 アンガーマネジメントは怒りと向きあうための心理トレーニングです。さまざまな手法があるそうですが、有名なのは「6秒ルール」でしょう。腹立たしいことがあったとき、6秒間だけ耐えるのです。ゆっくり呼吸をしながら6秒をカウントすることで怒りが引いていくといいます。たしかに効果的ではありそうですが、僕が向きあわなければならない怒りのもとは、たいてい6秒以上の長時間にわたって攻撃を続けてくるので困ったものです。

 自分ならではの対処法として、怒りを静めるフィルターのようなものを2枚持ち合わせています。湧き出る怒りをこれらのフィルターに通すことで怒りを減少させるのです。
 まず1つ目は、「主張が『自分を特別扱いしろ』に帰結していないか」ということです。
「自分はこんなにも困っているのに配慮してくれない」
「いまの状況について迷惑に感じているのに対処してくれない」
 困惑から生じる怒りはもっともらしく聞こえますが、その実が「自分を特別扱いしろ」の主張ならば、ワガママでしかありません。僕の美学に反する論理であり、もし自分がこのような理屈を展開していたとすれば、理不尽に感じていた怒りが引いていきます。
 続いて2つ目のフィルターは、「主張が「〇〇すべき」になっていないか」です。
 いわゆる正論です。さきほどのフィルターとは逆の視点で、今度は「怒りを覚える相手にも事情があるのかもしれない」と考えます。
 いくら正論を唱えようとも、状況を引き起こしたすべての発生条件を把握しているわけではありません。それなのに正論を押し通す行為はこれも美学に反しますし、分別のない物言いは「よく知りもしないのに、あんなこと言わなければよかった」と後悔のもとになります。
 これらのフィルター2枚看板でたいていの怒りは収まっていくのです。

 観たいと思った映画があり反射的に劇場へ足を運んだものの、日を改めるべきだったと感じました。その日はファーストデイだったのです。毎月1日は映画が安く鑑賞できるためいつもより混雑するのが常です。ましてや夏休み中ですから場内は賑わっていました。
 僕は映画が好きですが、試写会を好みません。試写会は劇場公開より前に観ることができますし、無料なのでお得であることは間違いありませんが、どうにも鑑賞態度のよろしくない人たちが好んでやってくる印象が強いからです。タダで観られることと、態度の粗悪さに因果関係があるのかは明かされていません。ただ、サービスへの対価と利用者の質の残念な相関についてはあらゆる業種で常識です。このことはファーストデイにも当てはまる気がしています。登録会員向けで劇場独自の特別価格が設定されている日に対して思いはありません。これは定期的に利用している人が対象だからです。ところがファーストデイに至っては制限がなく、だれでも特別価格なので「今日は安く観られるから行ってみよう」マインドのかたが集結しやすいのです。
 ここにいる客の目的が。別の映画であってくれと祈っていましたが、願いもむなしく座席はファミリー層を中心に埋まっていました。

 映画が始まったにも関わらず、数人の子どもがずっとしゃべり続けていました。僕とは離れた席に座っているはずなのに、気になるレベルのボリュームです。はっきり言って耳障りでした。場内には大勢の子どもがいたはずですが、大半は行儀よく鑑賞しています。声が同じなので、同じ子どもがしゃべり続けているのでしょう。
 映画館では絶対にしゃべるなというつもりはありません。特に今回観ていたようなエンタメ作品については寛容です。リアクションで声を上げることもあれば、グループで来ていて言葉を交わすこともあるでしょう。
 しかしながら、その子どもたちは映画とは関係ないであろうことを開始から数十分もしゃべり続けていたのです。どうやら映画の内容についていけない幼さであるらしく、わからなくて退屈なためにしゃべっているようでした。ですから派手なアクションシーンになると黙って観ています。そして、こちらが集中したい会話シーンに移るとおしゃべりが始まるのです。
 上映時間が1時間を超えたあたりで数人の子どもがバタバタと階段を駆け下りて出ていきました。それからしばらくは静かでしたから、その子どもたちが声の主だったのでしょう。退屈が限界で退場したのであれば、それはそれで結構なことです。

 幸せな時間は長く続きませんでした。今度はその子どもたちが出たり入ったりを繰り返し始めたのです。
 視界の隅を彼らが何度か通り過ぎたとき、あることに気づきました。
 彼らはスクリーンの前を通るとき、小さくかがんで移動していたのです。かがまなくても邪魔にならない身長であるのにです。おそらく精神的な規範からかがんでいたのではないでしょうか。彼らのなかで「スクリーンをさえぎる行為は迷惑」であり、「他の人に迷惑をかけてはいけない」というルールは存在していたのです。その姿を見るうちに少し怒りが収まりました。いや、矛先が変わったのかもしれません。
 問題にされるべきは行為だけではなく、教育やしつけに広がります。子どもたちに、「迷惑をかけてはいけないという分別」があるのならば、映画の上映中にしゃべったり出入りを繰り返したりすることが良くないことだと教えるのは同行している大人の責任です。教えることさえすれば守れる余地はあるはずなのにどうして教えないのでしょうか。子どもたちの年齢からすると親御さんもお若いのでしょう。夏休みになって自分が観たい映画に「子どもでも観られるだろう」と引っ張っていったら、子どもたちには内容が難しく飽きてしまった。自分たちは観たいのでしばらく子どもたちは放置することに・・・考えられそうな状況です。

 けっきょく現象が収まることのないまま映画は終わりました。劇場が明るくなり観客が退場していきます。「あの子どもたちの親の顔が見てみたい」品が良い行為とは言えませんが、それくらいの権利はあるでしょう。
 そして、怒りは瞬時に収まりました。
 件の子どもグループに続いて出てきたのが申し訳なさそうに顔を伏せた老夫婦だったのです。お二人とも声を荒らげることのなさそうな静かな雰囲気をまとっていらっしゃいました。
 「帰省してきた孫の面倒を頼まれ、ヒットしたと話題になっている映画なら子どもも楽しめるだろうと連れてきたものの、思っていた以上に子どもの理解力や集中力が足りず散々たる結果に・・・」
「自分たちの常識では周囲に迷惑をかけていたことは認識しつつも、ふだん同居していない孫を叱ることもできず、注意して嫌われることも恐れ・・・」
 もしそのような状況下で老夫婦が二時間を過ごしていたのだとしたら、僕には怒ることはできません。こうして3つ目のフィルター、「しゃあないな」を手に入れたのです。


 いつだって映画は人生への向き合いかたを豊かにしてくれます。

 

 

カバー画像タイトル 【映画館でトサカにきた紳士】