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2020年アラフィフ再婚しました。
なんでもない日常の生活の話です。
毎日笑顔で過ごせますように。

登場人物
私(トーコ)・・40代、シングルマザー歴20年、勤続25年以上、持ち家あり
うちの人(しのぶさん)・・40代、✕2、別居子供あり、持ち家あり
息子・・私の子、大学生、実家
母・・私の母、70代、実家、持病あり
子供たち・・うちの人の子、上(高学年)女の子、下(新一年生)女の子、元奥さんの実家
お母さん・・元奥さんのお母さん、子供たちを養育している
元奥さん・・育児放棄して外国人と再婚
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東日本大震災から10年。

あの日は職場の7階フロアにいました。
免震構造の建物は実際の震度よりはるかに大きくて、もし震度8というレベルがあったならそれに値するだろうなって揺れでした。

地上では13分くらいの揺れでしたが、免震構造の建物は20分は揺れていたように思います。

割れるはずのない窓ガラスにヒビが入る音を聞いて、アメリカの貿易センタービルの倒壊を思い出し、(あー人間ってこんな風に死ぬんだ。私は死ぬんだ。)って思いました。

目の前で壁付けの大きな棚が波のように倒れて、私は向かいの席の同僚に「倒れる!机に上って!」叫びました。

間一髪、同僚2人は難を逃れ、そのあとは隣の後輩と目を見合わせて、このあとどうなるんだろう。と目で会話してました。

この時の後輩とはその後ずっと職場で一番の友達になりました。

デスクトップのパソコンが宙を飛び、大きな200キロある金庫は倒れて、大きなコピー機もコードが延びる範囲で自由に動き、机やパーテーションは倒れて、恐怖の悲鳴が聞こえる。

揺れが収まって逃げるにも、人間ってとっさの判断って鈍るんですね。

ボーッと立ってる同僚が何人もいました。

こういう時はリーダーシップが出ちゃうのが私なんだってその時に知りました。

私より年上の先輩がたくさんいるのにね。

倒れた棚や散乱したファイルを上ってハンガーラックから全員のコートや上着を投げて、サンダルだった同僚には靴に履き替えるように伝えて、荷物を持って非常階段に向かいました。

大きな部署で大きなフロアなのですが、気付くと私の室内の人以外は逃げて誰もいませんでした。
私のところは全員が女性という部屋なので頼りになる男性がいなかったのです。

途中階段で降りている時に大きな地震があって、見えないはずの壁の奥の鉄骨が見えました。
壁もヒビが入って白い粉が通路中を覆っていました。
(この建物はもうダメかもしれない)そう思いました。

外に出て避難場所に向かう人、駐車場に向かう人など動きはバラバラでした。

私たちも指揮者(室長)が見当たらないので帰ることにしました。
室長は様子を見に地震後真っ先に降りたことを後で知りました。
また上がって指揮しようにも降りてくる人の波で上がれなかったそうです。
車に向かってる途中に室長に会い、全員の無事を伝えました。

何度も大きな余震が来ている。
息子が心配。
たまたまその日は6年生の謝恩会で下級生は早帰りだったのです。

信号機が消えて渋滞している。
20分で帰れるところを1時間かかって家に帰ると、隣の家の瓦が家の駐車場に落ちていて止められなくて道路に止めた。
あちこちの家の塀も倒壊。

玄関を開けると息子がワンちゃん2匹を抱っこして座ってた。

無事で良かった。
抱き合って泣いた。

聞くと下校で学校を出てすぐに地震があったから、先生が校庭に呼び戻してくれたのだそう。

揺れがおさまってきてから、先生が引率して自宅まで送り届けてくれたそうです。
留守番の子は書き置きして学校で待っててくれてもいいんじゃないかなって後で思いました。
学校もパニックだったでしょうけどね。

電気も水道も止まった家で、夜ご飯はお菓子を食べました。
気が張っているから食欲はなかったです。

夜中に電気は復旧してたのでエアコンが使えるようになってよかった。

次の日は土曜日だったので、水を探しに朝早くからコンビニを回ったけれどどこも売ってなくて、自販機の水を10本買いました。

さらに次の日はホームセンターに朝早くから並んで水、お茶、米、紙類、カップラーメン、卓上コンロなど買いました。

その頃には携帯も繋がるようになって、身内とも連絡できました。

職場は電気が復旧しないから休んでいいと連絡があって、月曜日、火曜日はガソリン探しに行きました。
1000円分だけ買うことができました。

水曜日は隣の後輩と職場に行くことにしました。
電気が来ていないから階段だしトイレも使えないことを理解した上です。

散乱した書類やパソコンを少しずつ片付けて、でも余震が多いのですぐに帰宅命令がでました。

この帰宅命令はその後も2、3ヶ月はあったと思います。

しばらく余震の恐怖と物が不足していることの不安がありました。

でも私は子供をひとりで守らなきゃいけないからがんばってました。

世の中の親はみんなそうだとは思いますが、ひとりはやっぱり大変だった気がします。

夫婦って大切だと思います。
災害時に本当にそう思います。

でももし今災害が起きたら、私はうちの人といるのか、実家の息子のところに行くのか悩みます。

職場で起きたら実家に行くでしょう。
休日に起きたら?

世界があと一日で終わる時、あなたは最後に誰といたいですか?


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