今日も、カナダに3-1で負けました。
日本男子バレーはなぜリオ五輪出場権を逃したのか
THE PAGE 6月4日(土)
世界最終予選を2試合残した時点で、日本男子のリオ五輪の道は断たれた。
中国、ポーランド、イラン、豪州の4か国に敗戦。
特に悔やまれるのは、セットカウントをタイに持ち込める寸前だったアジア最強のライバルであるイランとの一戦である。
豪州戦ではエース、石川が右足首を痛めて、第2セット途中からコートに立てなくなった。
強化委員長は「高さとパワー不足」を敗因とし、今大会限りで退任の方向の南部監督は、「サーブ力の差」と「狙われたウイングスパイカー陣が受け身になっていた」と、石川をサーブで徹底して狙われていたことを力が出し切れなかった要因のひとつだと反省した。
昨年のワールドカップで躍進した日本男子は、なぜ五輪出場を果たせなかったのだろうか。
「イラン、豪州戦と2つとも勝てたのにもったいない。
チームは持てる力の50パーセントも出せなかった。
選手は悔やみきれないのではないか」と語るのは、元全日本のエースで北京五輪代表の山本隆弘氏だ。
「イラン戦では、サーブでターゲットを狙えていたし、日本はいいバレーをしていた。
しかし、最後までイランの攻撃を絞ることができなかった。
確かにデータを見てもイランは均等に散らしていたし、真ん中の攻撃をうまく見せていたが、そこは捨ててサイドをマークすべきだったのではなかったか。
高さで勝てないのだから、どこかでプレッシャーをかけなきゃいけなかった。
チーム全体の方向性として、『ここは捨ててOK』、『ここは止めよう』と、ブロックの駆け引きにおいて割り切りができていなかった」
戦略の不徹底。
サーブで崩せなかったため、イランの攻撃パターンに大きな偏りが出なかったのだが、山本氏は、チームとして狙いを決めてブロックを仕掛けるべきだったという意見を持つ。
高さとパワーで勝てない日本は、ブロックの的を絞るというトータルディフェンスでボールをつなぐしかなかったが、思い切りのある戦略に欠けた。
この試合も、石川がサーブで徹底して狙われ、バックアタックなどの攻撃の芽を潰されていた。
日本は、局面によって石川にレセプションをさせないシステムまで使ったが、山本氏は他に対策はあったという。
「ワールカップで活躍した石川がマークされ、狙われるのは予期されたこと。
石川はスパイクを打った後の着地で、体勢を崩すなど不安定さが目立ったが、サーブでプレッシャーをかけられ、スパイクに入る動作を遅らされていた。
石川は、きっちりとセッターへボールを返すことにこだわりすぎたため崩され、それが目に入るセッターは、石川にトスを上げ辛くなっていた。
ただ石川をレシーブから外すとフォーメーションが崩れる。
守備範囲が変わると米山にも負担がかかるので、あまり極端にはできない。
石川は、綺麗にセッターへ返すことは考えず、直接の失点をなくして、とりあえず上にボールを上げておくという意識で良かった。
スパイクまでもっていければ、そのリバウンドをレセプションの1本目と考え、そこからAパスを返して攻めればよかった」
イラン戦では16本のブロックを決められた。
第1セットではイランの5本に対して日本のブロックポイントは0本。
被ブロック率の高さが目についた。
豪州戦では、勝負所でエドガーに2連続サービスエースを決められるなど、不調が噂されていた相手のエースに自由自在にやられた。
「豪州戦でも、サーブはターゲットを狙えていたが、相手の攻撃枚数を減らすまでには至らず、エドガーには万全のジャンプでない状態でもスパイクを決められていた。
ブロックで吸い込んだ場面もあった。
あれをきっちりと抑えていれば、勝てたかもしれない。
日本のジャンプフローターサーブに対して、豪州は陣形を前にして、きっちりとオーバーで対応された。
もっとスピードを上げ長く打つとか、胸元をつく工夫をすれば、相手は下がるか、さらに前に出るしかなく、揺さぶることができたのだが。
質の高いサーブは上から下に落ちる、そういうボールは簡単にオーバーでは返せないのだが、日本のサーブは下から上に動いてから落ちていた。
威力がなく、ボールに重さがなかった」
最後の最後まで、日本のサーブは課題のままで終わった。
ジャンピングサーブも、ジャンピングフローターのいずれも、世界のトレンドに比べて日本のそれは球威も精度も物足りなかった。
また日本のもうひとつの武器だったはずであるスピード、多彩なコンビバレーも冴えなかった。
豪州戦の第1セットでは米山のバックアタックで19-18とリードを奪い、第2セットで起用されたセッターの関田も、少なかったミドル攻撃をうまくからめたが、状況を激変させることはできなかった。
山本氏も、その点を挙げた。
「例えば、米山のバックアタックにしても、打てるわけだから、もっと使ってよかった。
ミドルの使い方にしても組み立ての中でトスの低さが目立った。
もっと精度を上げて完璧なバレーをしなければ勝てない」
今大会では20点以降で逆転されるケースが目立った。
イランの第3セットは20-17から追いつかれ、ジュースにもつれこんだ末に25-27と粘り負けた。
豪州戦も第1セットに19-18から23-25と逆転され、右足首を痛めた石川をコートに送り出せなかった第3セットも20-18から23-24と逆転された。
紙一重ではあるが、終盤に弱いのは実力の差なのか、それともメンタルの問題なのか。
山本氏は、「中国戦に負けて、もうひとつも負けられない状況に追い込まれ、勝ち急いだ。
苦しい状況で勝負しなくてもいいところで勝負して、ことごとくブロックされたり、ミスしたりすることが多かった。
もっと粘りながらチャンスをうかがうべきだったと思う、イランはバテていた。
粘って長い試合をすれば、日本にチャンスが巡ってきたのに、逆に日本が勝ち急いでいた。
チームメンタルの問題だ」と指摘する。
確かにイランの選手は後半に息が上がり膝に手をつくシーンもあった。
スタミナでは日本が上回っていたはずだが、メンタルのスタミナに欠けていたのか。
日本は、相手のブロックを利用しながらリバウンドを取り粘り強く拾い、ラリーを重ねてチャンスを待つという我慢のバレーができなかった。
「例えば、豪州戦で米山は一発で強引に決めようとせずに相手の嫌な場所に冷静にボールを入れながらリズムを作った。
ラリーを重ね、相手がブロックに跳ばなくなってくるところを見定めてから勝負していた。
もっとこういうプレーを繰り返せば、相手もブロックが嫌になって手の出し方も甘くなったりするものなのだ。
そこまで持っていく、粘りと我慢、落ち着きがチームに足りなかった」
“ネクスト4”の柳田がイラン戦で膝を痛め、豪州戦ではエースの石川が右足首を痛めた。
石川はストレート負けを喫すれば、リオ五輪出場が消滅する、その大事な試合で、わずか6得点。
明らかに戦力ダウンしていたが、山本氏は、2人の故障が直接な敗因ではなく、しかも故障の予測ができたという。
「柳田、石川の故障は、そう関係ない。
OQTは、五輪よりも戦いにくい別ものの大会。
彼らは経験がない中でプレッシャーを感じて、しかも連戦で、いつも以上に疲労が生まれる。
その中でコンディションをキープすることは難しく故障発生の危険性があった。
予防、対策もできたはず」
また山本氏の目には「ワールドカップの成功で過信が生まれたように」映ったという。
「せっかくワールドカップで作りあげていたチームプレーの組織が、OQTに備えて再集合したときにはバラバラで、ゼロの状態に戻っていたとも聞く。
組織をもう一度再構築するのに時間がなかったことに加えて、ワールドカップである程度の結果が出たので、OQTを経験していないメンバーが、“これでいいんだな“と、自信が過信になり、隙が生まれていたのではないか」
今大会での敗因をもっと遡れば、ロンドン五輪の出場権を逃した後、公募で監督を募り、ゲーリー・サトウ氏に指揮を任せた“空白の2年”にも行き着く。
南部監督がチームを率いて“ネクスト4”と呼ばれた石川、柳田、山内らの若手を抜擢したが、リオ五輪に向けてのチーム作りの過程が遠回りしたことは間違いない。
山本氏も「途中で監督が交代した弊害はあったと思う」と言う。
そう考えると、リオ五輪出場権を逃した原因は、今大会のコート内だけにあったわけではない。
そのあたりの総括を協会が真摯に行わなければ、開催地特権で出場できる4年後の東京五輪でも悲劇が繰り返されることになるだろう。
《山本隆弘》
1978年、鳥取生まれの37歳。
鳥取商から日体大を経てVプレミアリーグのパナソニック・パンサーズでプレー。
全日本のサウスポーエースとして、2003年のワールドカップでは、ベストスコアラーとMVPを獲得するなど活躍。
2008年には北京五輪に出場した。
2012-13年をもって引退。
現在はバレーボールの解説や普及活動だけでなく、幅広くスポーツやメディアの現場で活躍、鳥取市の「シティセールススペシャルサポーター」としても活動している。
指摘はもっともで、なぜこうした関係者の意見がチームに反映されないのか、そのことを不思議に思います。
解説で、川合氏が試合の流れの中で指摘する日本チームの課題も、試合後に録画ビデオを見直すだけで参考に出来るのに・・・
男子バレーは、黄色い声援の女性ファンのためにあるのか、それとも本気で勝つチームを作ろうとするのか、どうも中途半端な気がします。
ある意味女子バレーにもいえるのかもしれませんが、人気を呼べるビジュアル重視でいくのか、実力重視でいくのか、メダルを本気で狙うのなら、やはり人気先行型の選手選抜は封印すべきです。
女子はそれでも結果を出しましたが、男子は猛省すべきです!
訃報が飛び込んできました。
日本では、アリvs猪木戦でも有名でしたね。
モハメド・アリさん死去
元ヘビー級王者 差別とも闘う
朝日新聞デジタル 6月4日(土)
プロボクシングの元ヘビー級王者、モハメド・アリさんが3日、74歳で死去した。
米NBCなど複数の米メディアが報じた。
リングの外でもベトナム戦争への反対や、人種差別、信仰の自由をめぐる言動で注目を集め、20世紀の米社会を代表する人物の1人だった。
1942年、カシアス・クレイとして米ケンタッキー州ルイビルで生まれ、12歳からボクシングを始めた。
60年のローマ五輪で、ライトヘビー級の金メダルを獲得したが、自伝によると、米国へ帰国後に黒人であることを理由にレストランで食事の提供を拒まれ、川に投げ捨てたという。
プロ転向後の64年にヘビー級王者に挑戦。
前評判では不利とされたが、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」という言葉通りにソニー・リストンを破り、世界王者となった。
同じころ、黒人指導者のマルコムXらの影響を受けてイスラム教に改宗し、名前をモハメド・アリに改めた。
プロとして無敗のままだった67年、信仰とベトナム戦争への反対を理由に米軍への入隊を拒否。
ボクシングライセンスを剝奪(はくだつ)され、王座も失ったが、「私とベトコンの間に争いはない」との言葉が有名となるなど、世論に影響を与えた。
70年にライセンスを再び取得してリングに復帰。
74年に、当時無敗の世界王者だったジョージ・フォアマンに勝利し、7年ぶりに王者に返り咲いた。
78年にレオン・スピンクスに敗れたが、同年の再対決で勝ち、3度目の王者となった。
81年の引退後は人道的活動に力を入れ、国連の「平和大使」にも指名されたが、パーキンソン病を発症し、次第に活動が難しくなった。
96年のアトランタ五輪では、病気の影響で手が震えながらも、聖火点灯の大役を果たした。
近年は体調が優れず、入院を繰り返していた。(ダラス=中井大助)
米国社会での彼の影響は、いち名ボクサーにとどまらないくらい大きかったようです。
モハメド・アリ(Muhammad Ali、1942年1月17日 - 2016年6月3日)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。
元世界ヘビー級チャンピオン。
アフリカ系アメリカ人だが、イングランドとアイルランドの血も引く。
ケンタッキー州ルイビル出身。
イスラム教改宗前の本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay, Jr.)。
1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、リングネームをカシアス・クレイからモハメド・アリに改めた。
1960年ローマオリンピックボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得。
その後プロに転向し、1964年にはソニー・リストンを倒して世界ヘビー級王座を獲得した。
マルコム・Xと出会いその思想に共鳴。
イスラム教にも改宗。
ベトナム戦争徴兵も拒否する。
その発言と行動は当時の米国政府や保守派との深刻な対立をもたらし、世界タイトル剥奪や試合禁止等様々な圧力が加えられた。
しかし最終的には、通算3度のチャンピオン奪取成功と19度の防衛に輝いた。
ジョージ・フォアマンとザイールで対戦。
8Rでの一発大逆転を演じたタイトルマッチや、ジョー・フレージャーとの死闘など、ボクシング史上に残る数々な名勝負を行っている。
ベトナム戦争徴兵拒否により米国政府と長期にわたって争ったが、最終的には無罪を勝ち取った(#リング外での闘い)ことでも知られる。
引退後、現役時代に受けた頭部へのダメージが原因とされるパーキンソン病を患い闘病生活を送っていたが、2016年6月3日死去。
享年74。
死因は呼吸器疾患とされているが、1984年に患ったパーキンソン病に関係があると思われる。
蝶のように舞い、蜂のように刺す (Float like a butterfly, sting like a bee)
鈍重な大男の力任せな殴り合いだったヘビー級ボクシングに、アリは蝶のように華麗なフットワークと、蜂のように鋭い左ジャブを活用するアウトボクシングを持ち込んだ。
この著名なフレーズは、アリのトレーナーのドゥルー・バンディーニ・ブラウンによるもので、試合前によく肩を組んで「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」と一緒に叫ぶパフォーマンスを見せていた。
ノートン戦の敗北後に、ノートンのファンから「蝶は羽を失い、蜂は針を失った」という投書が届き、これを気に入ったアリはジムの壁にこれをテープで貼りつけて毎日眺め、「羽」と「針」を取り戻す決意を新たにしていた。
ヘビー級史上最速の一人
リングを縦横無尽に動き回れる体のこなしだけでなく、ジャブに右ストレートでカウンターを合わせる離れ業をやってのけるパンチのスピードも持っていた。
マイク・タイソンが出現した現代においてもなお、ヘビー級史上最速と評価された。
シュガー・レイ・ロビンソンの影響
シュガー・レイ・ロビンソンを尊敬しており実際に影響をうけたと指摘する声も存在した。
レオン・スピンクスとの再戦を前に「俺は三度ヘビー級チャンピオンを獲得する最初の男になる。
ヘビー級のシュガー・レイ・ロビンソンになるんだ」と語っている。
後にはシュガー・レイ・レナードを育てた名トレーナー、アンジェロ・ダンディーと常にコンビを組んでいた。
プロボクサーの娘
娘のレイラ・アリはプロボクサーとして活躍した。
WBC女子スーパーミドル級の初代チャンピオン。
ジョー・フレージャーの娘であるジャッキー・フレージャー・ライドと2001年6月に対戦した。
トラッシュトーク
アリは、注目を集めるための自己宣伝が非常に派手で巧みだった。
「俺が最強だ」「俺が最も偉大だ」と公言し、わざと物議をかもす言動をし、試合の相手をからかった詩を発表し、KOラウンド数を予告してリングにあがった。
この態度はむろん顰蹙を買い、徴兵拒否やムスリムとの関係もあいまって、非常に多数のアンチを生み出した。
本人はこの言動の理由を「むろん、厚顔な大ぼら吹きが好きな者はいない。しかしこう言えば、みんなは俺の試合を見にくるし、プロモーター達には、俺の試合の企画が、金になることが判るんだ。野次や怒号の中をリングにあがるのは、いい気分だ。最後は、俺の予告どおりになるんだからね」としている。
幼年期:
1942年1月17日にアメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアスと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイとして生まれた。
父親と同じ名前であるため、ジュニアが名前の最後についていた。
彼は小学生の頃、父親から誕生日にプレゼントにもらった自転車を宝物にしており、それに乗ってよく近所にポップコーンとアイスクリームをもらいに行っていた。
ところが、ある日、誰かに自転車を盗まれ、警察にいった際、この時の警官がボクシングジムのトレーナーもしており、彼に犯人に鉄拳制裁を加えるという意味でボクシングを勧め、その警官のボクシングジムに入った。
これが、モハメド・アリがボクシングを始めたキッカケになった。
アマチュア時代:
ジムに入門後、アリは8週間でアマチュアボクサーとしてデビューした。
対戦相手は、アリ同様にデビューしたてのロニー・オキーフだった。
試合は3分3Rで行われ、スプリットデシジョンで判定勝ちした。
アリが通っていたジムには、後にWBA 世界ヘビー級王者になるジミー・エリスも通っており、アリはアマチュア時代にエリスと2度対戦し、1勝1敗の戦績を残した。
この間に、アリはヴァージニア大通り小学校とデゥヴァル中学校を卒業。
セントラル高校に進学している。
その後、ケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝した。
さらに、AAU ボクシング競技のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。
1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技(ライトヘビー級)に出場。
前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドのズビグニェフ・ピトロシュコスキーを判定で破って優勝。
プロ転向と改名:
1960年10月29日にプロデビュー。
タニー・ハンセイカーと対戦し、6R判定勝ちを収めて、プロデビュー戦を勝利で飾る。
また、プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であると公表し、リングネームを現在の本名である、ムスリム(イスラム教徒)名モハメド・アリ(ムハンマド・アリー)に改めた。
この名前は、預言者ムハンマドと指導者(イマーム)アリーに由来する。
なお、1975年にはイスラム教スンナ派に改宗した。
1962年11月15日に元世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアと対戦。
試合前に、控え室の黒板に「ムーアを4ラウンドにKOする」という予言を書いてリングに向かい、その予言の通り4ラウンド目に3度ダウンを奪ってKO勝ちした。
1963年3月13日に、元世界ライトヘビー級王座挑戦者のダグ・ジョーンズと対戦。
アリが10R判定で勝利。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出されたが、アリは試合前にジョーンズを6RでKOすると公言していたため、試合後に新聞からバッシングを浴びた。
1964年2月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンに挑戦。
当時史上最強のハードパンチャーと評価されたリストンに対しアリは絶対不利と言われ、賭け率は7対1でリストンが優位だった。
しかしアリは臆せず「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と公言。
試合は一方的なものとなり、6R終了時にTKO勝ちとなった。
アリは試合終了後のインタビューで「I must be 'The Greatest'!」と興奮冷めやらぬ様子で叫んだ。
試合後アリは正式に本名をカシアス・クレイからモハメド・アリへと改名した。
リング外での闘い:
1960年に勃発し、のちにアメリカが本格参戦したベトナム戦争への徴兵を拒否したことから無敗のままWBAWBC統一世界ヘビー級王座を剥奪され、3年7か月間ブランクを作ったが、復帰後、実力で王座奪還を果たした。
また露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。
その後公民権運動などの貢献が称えられ、ドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞。
キンシャサの奇跡:
王座剥奪後の1971年3月8日、ジョー・フレージャーに挑戦する。
初めての敗北を喫したが、3年後の1974年10月30日、フレージャーに代わり新王者となっていたジョージ・フォアマンにKO勝ちを収め、王座に返り咲いた。
この挑戦試合はアフリカのザイール(現・コンゴ民主共和国)で行われ、"Rumble in the jungle"というタイトルがつけられていた。
当時、一般には全盛を過ぎたと見られていたアリが史上最高のハードパンチャーと目されたフォアマンを破ったため、「キンシャサの奇跡」とも呼ばれる。
この試合でアリは、ロープにもたれながら相手のパンチを腕でブロックし、自分では打ち返さずに、防戦一方になっていたが、一見劣勢に見えながらも、フォアマンの体力を消耗させて、最後の一発で逆転するというクレバーな作戦をとり、見事な勝利を収めた。
アリはこの戦法を"rope a dope"と名づけた。
ただし、以降の防衛戦でこの戦法を多用する一方、対戦相手のパンチを被弾することも増加していったため、後年のパーキンソン病の遠因ではないかとする説が上がった。
日本での活動:
1972年に初来日。
この時は4月1日に東京・日本武道館でマック・フォスターと対戦し、15回判定勝ちを収めた。
1976年の来日では6月26日に日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を行う。
特別ルールで戦い結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け。
アリのテーマソングである「炎のファイター」(通称「アリ・ボマイエ(ボンバイエ)」、作曲: マイケル・マッサー)は、76年に格闘技世界一決定戦を戦った猪木に記念品として寄贈されたということになっており、「イノキ・ボンバイエ」として歌われている。
この歌は、翌年公開の映画「アリ/ザ・グレーテスト」(en)のエンディング・テーマ「I Always Knew I Had It In Me」(作詞:ジェリー・ゴフィン)としてジョージ・ベンソンが全く別アレンジのバラードとなって流れる。
ちなみにオープニング・タイトルの「The Greatest Love of All」は後にホイットニー・ヒューストンがカバーして大ヒットとなった。
1998年の来日の際には4月4日に東京ドームで挙行されたアントニオ猪木のプロレスラー現役引退試合のスペシャルゲストとしてリングに上がり、猪木を労った。
病との闘い:
引退後にパーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入った。
公の場に出る機会は大きく減ったが、難病の中でも社会に対してメッセージを発し続けるアリへの評価は、アメリカ社会そのものの変化もあってむしろ高まっていった。
1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火。
金メダルを再授与された。
この開会式では聖火台の点火者は当日まで秘密にされていたが、女子水泳選手のジャネット・エバンスが、点火台まで聖火のトーチを運び上げた時、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(火が点くと同時にそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで火が点くしかけだった)。
この時、1960年のローマオリンピックで金メダルを得て帰国直後に、レストランにて黒人である事を理由に入店拒否され、メダルを川に捨てたというエピソードが紹介され、改めてアトランタの金メダルが彼に贈られた。
また、練習時に踏まれた右足の小指が骨折し、おかしな位置でくっついてしまったために引退後は軽い歩行困難になっている。
引退後:
1990年に湾岸危機に際し、サッダーム・フセイン:イラク大統領との直接対話のため、病をおしてバグダードに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。
解放された人のうち6人が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国した。
2003年のMLBオールスターゲームで始球式を務め、久し振りに公の場に姿を見せた。
2005年11月9日、アメリカ合衆国ホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。
2009年にはアイルランド クレア州エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われた。
戦績:
アリ、フレージャー、フォアマンはいずれもオリンピックの金メダリスト(アリはライトヘビー級、フレージャーとフォアマンはヘビー級の金メダリスト)であり、オリンピックチャンピオンがプロでも活躍するという流れがこの当時続いていた。
アリと同様、ライトヘビー級で金メダルを獲得したスピンクスがアリに挑戦し、番狂わせで王座を獲得したが、アリは再戦で王座に返り咲き、史上初めて、3度王座を獲得したヘビー級ボクサーとなった。
1960年、ローマオリンピックで金メダルを獲得。
その後、黒人差別を受け金メダルを川に投げ捨てた。
同年10月29日にプロデビュー。
1962年12月15日、老雄アーチー・ムーアに4回TKO勝ち。
1964年2月25日、ソニー・リストンに7回TKO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(2度目)。
1965年5月25日、初防衛戦でリストンとのリターンマッチに臨み、初回の2分12秒で返り討ちにした。
1965年11月22日、2度目の防衛戦でかつての名王者フロイド・パターソンの挑戦を受け、12回TKO勝ち。
当時アリはネーション・オブ・イスラム入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」だった。
パターソンはそれを止めるベビーフェイスとして担ぎ出された。
彼もこの報道攻勢に乗せられる形で「タイトルをアメリカに戻す」と発言。
それを聞いたアリは失望し、憧れでもあった彼に対して「アンクルトム」と罵り、試合中もレフェリーが止めるまで決定的な強打を打たずパターソンを痛めつけ続けた。
1966年3月29日、3度目の防衛戦でカナダの強豪ジョージ・シュバロと対戦。
先の試合で見せた圧倒的な強さから前評判ではアリの圧倒的有利の予想であった。
しかしシュバロの徹底したインファイトと執拗なボディ攻撃に苦しんだが、要所で有効打をヒットさせて15回判定勝ち。
アリにとってみれば初の大苦戦ともいえる試合であった。
1966年5月21日、4度目の防衛戦でヘンリー・クーパーと対戦。
クーパーは王者になる前のアリからノックダウンを奪うほどの実力者であった。
試合はお互いの実力が拮抗したハイレベルな打撃戦となったが、クーパーが6回終了後に左瞼からの大出血のためドクターストップで辛くも勝利した。
1966年8月6日、5度目の防衛戦でブライアン・ロンドンに3回KO勝ち。
勝負を決めたラッシュはカメラが捕らえきれないほどの高速でありながら、全てがクリーンヒットするという驚異的なものだった。
1966年9月10日、6度目の防衛戦でドイツのカール・ミルデンバーガーの挑戦を受ける。
アリは終始パワフルな攻撃を見せるが、ミルデンバーガーは打たれても打たれても強靭な精神力で耐え続けアリが休むと怒涛の反撃を見せる。
しかしワンサイドで打たれまくったミルデンバーガーの危険を察したレフェリーが12回に遂にストップを宣告するという壮絶な試合となった。
1967年2月6日、WBA世界ヘビー級王者アーニー・テレルと対戦。
試合前アーニーはわざとアリの旧名であるカシアス・クレイと呼んで挑発し、これに怒ったアリは試合を完全にコントロールしたどころかわざと決定打を打たず「俺の名前を言ってみろ!」と叫び続けて完全に打ちのめし判定勝利した。
試合後アリは「やつは早く楽になりたかったろうな。奴隷の名前で俺を呼んだ罰だ(当時アリが入信していたネーション・オブ・イスラムではほとんどのアフリカ系アメリカ人が持つ名前を、奴隷主に付けられた名として否定的に見る面がある)」
1967年3月22日、9度目の防衛戦でゾラ・フォーリーを7回TKOで沈めた。
この年良心的兵役拒否のため、禁固5年と罰金1万ドルを科せられ(1971年7月に合衆国最高裁で無罪となった)、WBA世界ヘビー級王座も剥奪された。
ボクサーライセンスも剥奪され、3年7か月間のブランクを作った。
1969年3月11日、WBC世界ヘビー級王座を剥奪された。
1970年10月26日、世界ヘビー級1位、ジェリー・クォーリーと3年ぶりの試合を行い、3回TKO勝ちして再起を果たした。
1970年12月7日、ジョー・フレージャーの持つ世界ヘビー級タイトルへ挑戦する前の前哨戦で、フレージャーを相手に健闘したオスカー・ボナベナと対戦する。
試合前は楽観視されていたが、大苦戦の末に最終回にボナベナから3度のダウンを奪って勝利した。
1971年3月8日、ジョー・フレージャーの持つWBA・WBC統一世界ヘビー級王座に挑戦するが、15回に左フックでダウンを奪われるなどして判定負け。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(3度目)。
1971年7月26日、NABF北米ヘビー級王座決定戦でジミー・エリスを12回TKO勝ちで北米ヘビー級チャンピオンとなる。
1972年4月1日、東京・日本武道館でマック・フォスターとのノンタイトル15回戦を行う。15回判定勝ち。
1973年3月31日、ケン・ノートンに判定負け、生涯2度目の敗北。
さらに試合後、顎を骨折していたことが分かる。
1973年9月10日、ケン・ノートンに判定勝ちし、雪辱。
1974年1月28日、前王者ジョー・フレージャーと3年越しの再戦を行い、12回判定勝ち。
雪辱を果たすとともに王者ジョージ・フォアマンへの挑戦権を得る。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(4度目)。
1974年10月30日、ジョージ・フォアマンに8回KO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得(キンシャサの奇跡)。
その後、10度防衛。
1975年3月24日、無名のチャック・ウェプナーと初防衛戦を行い、15回KO勝ちするが、ダウン(実はウェプナーがアリの足を踏んだため)を喫するなど、ウェプナーが善戦する。
この試合を見たシルヴェスター・スタローンは、映画「ロッキー」のストーリーを思い付いた。
1975年10月1日、フィリピンのアラネタ・コロシアムで行われた4度目の防衛戦でジョー・フレージャーと対戦し、14回TKO勝利を収めた。
終生のライバルとなったフレージャーとは3度対戦して、2勝1敗であった。
興行名を "The Thrilla in Manila" としたこの対戦は両者死力を尽くして形勢が何度も逆転した名試合であり、この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(5度目)。
1976年6月26日、武道館で猪木戦を行う。
結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け。
1978年2月15日、レオン・スピンクスにニューヨークのヒルトンスポーツパビリオンでの試合で判定負けして王座を失った。
この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(6度目)。
この後、スピンクスはWBCから王座を剥奪され、WBA王座のみとなった。
WBC世界ヘビー級王座には、ケン・ノートンが認定された。
1978年9月15日、レオン・スピンクスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級王座を奪回(3度目の返り咲き・この後王座返上)。
1980年10月2日、カムバックし、かつてスパーリング・パートナーだったラリー・ホームズのWBC世界ヘビー級王座に挑戦するが、11ラウンドTKOで敗れ、奪取ならず。
1981年12月11日、トレバー・バービックに判定負けし、遂に引退。
通算成績は56勝5敗で、このうち37勝がノックアウト勝ちだった。(ウイッキペディア)
1966年はなんと1年に4回のタイトル戦を行うというすさまじいスケジュールが組まれていました。
おそらく彼が一番強かったであろう25歳から4年近くリングに上がれなかったわけですから、悔しかったでしょうね。
ボクシングのリングは、迫害され続けてきた黒人が、唯一白人を衆人環視の中で叩き潰していい場所だったと考えれば、米国で黒人チャンピオンが多いこともうなづけますよね。
彼らがリングで戦ったのは、単なるお金や名声のためだけでなく、人間として扱われなかった奴隷だった歴史への復讐もあったに違いありません。
ご冥福をお祈りします。合掌。
では、6-5生まれの有名人です。
1723年アダム・スミス (英:経済学者,哲学者『国富論』)、1882年イーゴリ・ストラヴィンスキー (露:作曲家『火の鳥』)、1883年ジョン・メイナード・ケインズ (英:経済学者『雇用・利子および貨幣の一般理論』)、1887年ルース・ベネディクト (米:文化人類学者『菊と刀』)、1917年中島河太郎(ミステリー文学評論家『探偵小説辞典』)、1956年アン・ルイス (歌手)。
彼女は芸能界から足を洗って、現在ハワイに住んでいるそうです。
アン・ルイス グッド・バイ・マイ・ラブ メモリアル Ⅱ
日本男子バレーはなぜリオ五輪出場権を逃したのか
THE PAGE 6月4日(土)
世界最終予選を2試合残した時点で、日本男子のリオ五輪の道は断たれた。
中国、ポーランド、イラン、豪州の4か国に敗戦。
特に悔やまれるのは、セットカウントをタイに持ち込める寸前だったアジア最強のライバルであるイランとの一戦である。
豪州戦ではエース、石川が右足首を痛めて、第2セット途中からコートに立てなくなった。
強化委員長は「高さとパワー不足」を敗因とし、今大会限りで退任の方向の南部監督は、「サーブ力の差」と「狙われたウイングスパイカー陣が受け身になっていた」と、石川をサーブで徹底して狙われていたことを力が出し切れなかった要因のひとつだと反省した。
昨年のワールドカップで躍進した日本男子は、なぜ五輪出場を果たせなかったのだろうか。
「イラン、豪州戦と2つとも勝てたのにもったいない。
チームは持てる力の50パーセントも出せなかった。
選手は悔やみきれないのではないか」と語るのは、元全日本のエースで北京五輪代表の山本隆弘氏だ。
「イラン戦では、サーブでターゲットを狙えていたし、日本はいいバレーをしていた。
しかし、最後までイランの攻撃を絞ることができなかった。
確かにデータを見てもイランは均等に散らしていたし、真ん中の攻撃をうまく見せていたが、そこは捨ててサイドをマークすべきだったのではなかったか。
高さで勝てないのだから、どこかでプレッシャーをかけなきゃいけなかった。
チーム全体の方向性として、『ここは捨ててOK』、『ここは止めよう』と、ブロックの駆け引きにおいて割り切りができていなかった」
戦略の不徹底。
サーブで崩せなかったため、イランの攻撃パターンに大きな偏りが出なかったのだが、山本氏は、チームとして狙いを決めてブロックを仕掛けるべきだったという意見を持つ。
高さとパワーで勝てない日本は、ブロックの的を絞るというトータルディフェンスでボールをつなぐしかなかったが、思い切りのある戦略に欠けた。
この試合も、石川がサーブで徹底して狙われ、バックアタックなどの攻撃の芽を潰されていた。
日本は、局面によって石川にレセプションをさせないシステムまで使ったが、山本氏は他に対策はあったという。
「ワールカップで活躍した石川がマークされ、狙われるのは予期されたこと。
石川はスパイクを打った後の着地で、体勢を崩すなど不安定さが目立ったが、サーブでプレッシャーをかけられ、スパイクに入る動作を遅らされていた。
石川は、きっちりとセッターへボールを返すことにこだわりすぎたため崩され、それが目に入るセッターは、石川にトスを上げ辛くなっていた。
ただ石川をレシーブから外すとフォーメーションが崩れる。
守備範囲が変わると米山にも負担がかかるので、あまり極端にはできない。
石川は、綺麗にセッターへ返すことは考えず、直接の失点をなくして、とりあえず上にボールを上げておくという意識で良かった。
スパイクまでもっていければ、そのリバウンドをレセプションの1本目と考え、そこからAパスを返して攻めればよかった」
イラン戦では16本のブロックを決められた。
第1セットではイランの5本に対して日本のブロックポイントは0本。
被ブロック率の高さが目についた。
豪州戦では、勝負所でエドガーに2連続サービスエースを決められるなど、不調が噂されていた相手のエースに自由自在にやられた。
「豪州戦でも、サーブはターゲットを狙えていたが、相手の攻撃枚数を減らすまでには至らず、エドガーには万全のジャンプでない状態でもスパイクを決められていた。
ブロックで吸い込んだ場面もあった。
あれをきっちりと抑えていれば、勝てたかもしれない。
日本のジャンプフローターサーブに対して、豪州は陣形を前にして、きっちりとオーバーで対応された。
もっとスピードを上げ長く打つとか、胸元をつく工夫をすれば、相手は下がるか、さらに前に出るしかなく、揺さぶることができたのだが。
質の高いサーブは上から下に落ちる、そういうボールは簡単にオーバーでは返せないのだが、日本のサーブは下から上に動いてから落ちていた。
威力がなく、ボールに重さがなかった」
最後の最後まで、日本のサーブは課題のままで終わった。
ジャンピングサーブも、ジャンピングフローターのいずれも、世界のトレンドに比べて日本のそれは球威も精度も物足りなかった。
また日本のもうひとつの武器だったはずであるスピード、多彩なコンビバレーも冴えなかった。
豪州戦の第1セットでは米山のバックアタックで19-18とリードを奪い、第2セットで起用されたセッターの関田も、少なかったミドル攻撃をうまくからめたが、状況を激変させることはできなかった。
山本氏も、その点を挙げた。
「例えば、米山のバックアタックにしても、打てるわけだから、もっと使ってよかった。
ミドルの使い方にしても組み立ての中でトスの低さが目立った。
もっと精度を上げて完璧なバレーをしなければ勝てない」
今大会では20点以降で逆転されるケースが目立った。
イランの第3セットは20-17から追いつかれ、ジュースにもつれこんだ末に25-27と粘り負けた。
豪州戦も第1セットに19-18から23-25と逆転され、右足首を痛めた石川をコートに送り出せなかった第3セットも20-18から23-24と逆転された。
紙一重ではあるが、終盤に弱いのは実力の差なのか、それともメンタルの問題なのか。
山本氏は、「中国戦に負けて、もうひとつも負けられない状況に追い込まれ、勝ち急いだ。
苦しい状況で勝負しなくてもいいところで勝負して、ことごとくブロックされたり、ミスしたりすることが多かった。
もっと粘りながらチャンスをうかがうべきだったと思う、イランはバテていた。
粘って長い試合をすれば、日本にチャンスが巡ってきたのに、逆に日本が勝ち急いでいた。
チームメンタルの問題だ」と指摘する。
確かにイランの選手は後半に息が上がり膝に手をつくシーンもあった。
スタミナでは日本が上回っていたはずだが、メンタルのスタミナに欠けていたのか。
日本は、相手のブロックを利用しながらリバウンドを取り粘り強く拾い、ラリーを重ねてチャンスを待つという我慢のバレーができなかった。
「例えば、豪州戦で米山は一発で強引に決めようとせずに相手の嫌な場所に冷静にボールを入れながらリズムを作った。
ラリーを重ね、相手がブロックに跳ばなくなってくるところを見定めてから勝負していた。
もっとこういうプレーを繰り返せば、相手もブロックが嫌になって手の出し方も甘くなったりするものなのだ。
そこまで持っていく、粘りと我慢、落ち着きがチームに足りなかった」
“ネクスト4”の柳田がイラン戦で膝を痛め、豪州戦ではエースの石川が右足首を痛めた。
石川はストレート負けを喫すれば、リオ五輪出場が消滅する、その大事な試合で、わずか6得点。
明らかに戦力ダウンしていたが、山本氏は、2人の故障が直接な敗因ではなく、しかも故障の予測ができたという。
「柳田、石川の故障は、そう関係ない。
OQTは、五輪よりも戦いにくい別ものの大会。
彼らは経験がない中でプレッシャーを感じて、しかも連戦で、いつも以上に疲労が生まれる。
その中でコンディションをキープすることは難しく故障発生の危険性があった。
予防、対策もできたはず」
また山本氏の目には「ワールドカップの成功で過信が生まれたように」映ったという。
「せっかくワールドカップで作りあげていたチームプレーの組織が、OQTに備えて再集合したときにはバラバラで、ゼロの状態に戻っていたとも聞く。
組織をもう一度再構築するのに時間がなかったことに加えて、ワールドカップである程度の結果が出たので、OQTを経験していないメンバーが、“これでいいんだな“と、自信が過信になり、隙が生まれていたのではないか」
今大会での敗因をもっと遡れば、ロンドン五輪の出場権を逃した後、公募で監督を募り、ゲーリー・サトウ氏に指揮を任せた“空白の2年”にも行き着く。
南部監督がチームを率いて“ネクスト4”と呼ばれた石川、柳田、山内らの若手を抜擢したが、リオ五輪に向けてのチーム作りの過程が遠回りしたことは間違いない。
山本氏も「途中で監督が交代した弊害はあったと思う」と言う。
そう考えると、リオ五輪出場権を逃した原因は、今大会のコート内だけにあったわけではない。
そのあたりの総括を協会が真摯に行わなければ、開催地特権で出場できる4年後の東京五輪でも悲劇が繰り返されることになるだろう。
《山本隆弘》
1978年、鳥取生まれの37歳。
鳥取商から日体大を経てVプレミアリーグのパナソニック・パンサーズでプレー。
全日本のサウスポーエースとして、2003年のワールドカップでは、ベストスコアラーとMVPを獲得するなど活躍。
2008年には北京五輪に出場した。
2012-13年をもって引退。
現在はバレーボールの解説や普及活動だけでなく、幅広くスポーツやメディアの現場で活躍、鳥取市の「シティセールススペシャルサポーター」としても活動している。
指摘はもっともで、なぜこうした関係者の意見がチームに反映されないのか、そのことを不思議に思います。
解説で、川合氏が試合の流れの中で指摘する日本チームの課題も、試合後に録画ビデオを見直すだけで参考に出来るのに・・・
男子バレーは、黄色い声援の女性ファンのためにあるのか、それとも本気で勝つチームを作ろうとするのか、どうも中途半端な気がします。
ある意味女子バレーにもいえるのかもしれませんが、人気を呼べるビジュアル重視でいくのか、実力重視でいくのか、メダルを本気で狙うのなら、やはり人気先行型の選手選抜は封印すべきです。
女子はそれでも結果を出しましたが、男子は猛省すべきです!

訃報が飛び込んできました。
日本では、アリvs猪木戦でも有名でしたね。
モハメド・アリさん死去
元ヘビー級王者 差別とも闘う
朝日新聞デジタル 6月4日(土)
プロボクシングの元ヘビー級王者、モハメド・アリさんが3日、74歳で死去した。
米NBCなど複数の米メディアが報じた。
リングの外でもベトナム戦争への反対や、人種差別、信仰の自由をめぐる言動で注目を集め、20世紀の米社会を代表する人物の1人だった。
1942年、カシアス・クレイとして米ケンタッキー州ルイビルで生まれ、12歳からボクシングを始めた。
60年のローマ五輪で、ライトヘビー級の金メダルを獲得したが、自伝によると、米国へ帰国後に黒人であることを理由にレストランで食事の提供を拒まれ、川に投げ捨てたという。
プロ転向後の64年にヘビー級王者に挑戦。
前評判では不利とされたが、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」という言葉通りにソニー・リストンを破り、世界王者となった。
同じころ、黒人指導者のマルコムXらの影響を受けてイスラム教に改宗し、名前をモハメド・アリに改めた。
プロとして無敗のままだった67年、信仰とベトナム戦争への反対を理由に米軍への入隊を拒否。
ボクシングライセンスを剝奪(はくだつ)され、王座も失ったが、「私とベトコンの間に争いはない」との言葉が有名となるなど、世論に影響を与えた。
70年にライセンスを再び取得してリングに復帰。
74年に、当時無敗の世界王者だったジョージ・フォアマンに勝利し、7年ぶりに王者に返り咲いた。
78年にレオン・スピンクスに敗れたが、同年の再対決で勝ち、3度目の王者となった。
81年の引退後は人道的活動に力を入れ、国連の「平和大使」にも指名されたが、パーキンソン病を発症し、次第に活動が難しくなった。
96年のアトランタ五輪では、病気の影響で手が震えながらも、聖火点灯の大役を果たした。
近年は体調が優れず、入院を繰り返していた。(ダラス=中井大助)
米国社会での彼の影響は、いち名ボクサーにとどまらないくらい大きかったようです。
モハメド・アリ(Muhammad Ali、1942年1月17日 - 2016年6月3日)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。
元世界ヘビー級チャンピオン。
アフリカ系アメリカ人だが、イングランドとアイルランドの血も引く。
ケンタッキー州ルイビル出身。
イスラム教改宗前の本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay, Jr.)。
1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、リングネームをカシアス・クレイからモハメド・アリに改めた。
1960年ローマオリンピックボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得。
その後プロに転向し、1964年にはソニー・リストンを倒して世界ヘビー級王座を獲得した。
マルコム・Xと出会いその思想に共鳴。
イスラム教にも改宗。
ベトナム戦争徴兵も拒否する。
その発言と行動は当時の米国政府や保守派との深刻な対立をもたらし、世界タイトル剥奪や試合禁止等様々な圧力が加えられた。
しかし最終的には、通算3度のチャンピオン奪取成功と19度の防衛に輝いた。
ジョージ・フォアマンとザイールで対戦。
8Rでの一発大逆転を演じたタイトルマッチや、ジョー・フレージャーとの死闘など、ボクシング史上に残る数々な名勝負を行っている。
ベトナム戦争徴兵拒否により米国政府と長期にわたって争ったが、最終的には無罪を勝ち取った(#リング外での闘い)ことでも知られる。
引退後、現役時代に受けた頭部へのダメージが原因とされるパーキンソン病を患い闘病生活を送っていたが、2016年6月3日死去。
享年74。
死因は呼吸器疾患とされているが、1984年に患ったパーキンソン病に関係があると思われる。
蝶のように舞い、蜂のように刺す (Float like a butterfly, sting like a bee)
鈍重な大男の力任せな殴り合いだったヘビー級ボクシングに、アリは蝶のように華麗なフットワークと、蜂のように鋭い左ジャブを活用するアウトボクシングを持ち込んだ。
この著名なフレーズは、アリのトレーナーのドゥルー・バンディーニ・ブラウンによるもので、試合前によく肩を組んで「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」と一緒に叫ぶパフォーマンスを見せていた。
ノートン戦の敗北後に、ノートンのファンから「蝶は羽を失い、蜂は針を失った」という投書が届き、これを気に入ったアリはジムの壁にこれをテープで貼りつけて毎日眺め、「羽」と「針」を取り戻す決意を新たにしていた。
ヘビー級史上最速の一人
リングを縦横無尽に動き回れる体のこなしだけでなく、ジャブに右ストレートでカウンターを合わせる離れ業をやってのけるパンチのスピードも持っていた。
マイク・タイソンが出現した現代においてもなお、ヘビー級史上最速と評価された。
シュガー・レイ・ロビンソンの影響
シュガー・レイ・ロビンソンを尊敬しており実際に影響をうけたと指摘する声も存在した。
レオン・スピンクスとの再戦を前に「俺は三度ヘビー級チャンピオンを獲得する最初の男になる。
ヘビー級のシュガー・レイ・ロビンソンになるんだ」と語っている。
後にはシュガー・レイ・レナードを育てた名トレーナー、アンジェロ・ダンディーと常にコンビを組んでいた。
プロボクサーの娘
娘のレイラ・アリはプロボクサーとして活躍した。
WBC女子スーパーミドル級の初代チャンピオン。
ジョー・フレージャーの娘であるジャッキー・フレージャー・ライドと2001年6月に対戦した。
トラッシュトーク
アリは、注目を集めるための自己宣伝が非常に派手で巧みだった。
「俺が最強だ」「俺が最も偉大だ」と公言し、わざと物議をかもす言動をし、試合の相手をからかった詩を発表し、KOラウンド数を予告してリングにあがった。
この態度はむろん顰蹙を買い、徴兵拒否やムスリムとの関係もあいまって、非常に多数のアンチを生み出した。
本人はこの言動の理由を「むろん、厚顔な大ぼら吹きが好きな者はいない。しかしこう言えば、みんなは俺の試合を見にくるし、プロモーター達には、俺の試合の企画が、金になることが判るんだ。野次や怒号の中をリングにあがるのは、いい気分だ。最後は、俺の予告どおりになるんだからね」としている。
幼年期:
1942年1月17日にアメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアスと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイとして生まれた。
父親と同じ名前であるため、ジュニアが名前の最後についていた。
彼は小学生の頃、父親から誕生日にプレゼントにもらった自転車を宝物にしており、それに乗ってよく近所にポップコーンとアイスクリームをもらいに行っていた。
ところが、ある日、誰かに自転車を盗まれ、警察にいった際、この時の警官がボクシングジムのトレーナーもしており、彼に犯人に鉄拳制裁を加えるという意味でボクシングを勧め、その警官のボクシングジムに入った。
これが、モハメド・アリがボクシングを始めたキッカケになった。
アマチュア時代:
ジムに入門後、アリは8週間でアマチュアボクサーとしてデビューした。
対戦相手は、アリ同様にデビューしたてのロニー・オキーフだった。
試合は3分3Rで行われ、スプリットデシジョンで判定勝ちした。
アリが通っていたジムには、後にWBA 世界ヘビー級王者になるジミー・エリスも通っており、アリはアマチュア時代にエリスと2度対戦し、1勝1敗の戦績を残した。
この間に、アリはヴァージニア大通り小学校とデゥヴァル中学校を卒業。
セントラル高校に進学している。
その後、ケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝した。
さらに、AAU ボクシング競技のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。
1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技(ライトヘビー級)に出場。
前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドのズビグニェフ・ピトロシュコスキーを判定で破って優勝。
プロ転向と改名:
1960年10月29日にプロデビュー。
タニー・ハンセイカーと対戦し、6R判定勝ちを収めて、プロデビュー戦を勝利で飾る。
また、プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であると公表し、リングネームを現在の本名である、ムスリム(イスラム教徒)名モハメド・アリ(ムハンマド・アリー)に改めた。
この名前は、預言者ムハンマドと指導者(イマーム)アリーに由来する。
なお、1975年にはイスラム教スンナ派に改宗した。
1962年11月15日に元世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアと対戦。
試合前に、控え室の黒板に「ムーアを4ラウンドにKOする」という予言を書いてリングに向かい、その予言の通り4ラウンド目に3度ダウンを奪ってKO勝ちした。
1963年3月13日に、元世界ライトヘビー級王座挑戦者のダグ・ジョーンズと対戦。
アリが10R判定で勝利。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出されたが、アリは試合前にジョーンズを6RでKOすると公言していたため、試合後に新聞からバッシングを浴びた。
1964年2月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンに挑戦。
当時史上最強のハードパンチャーと評価されたリストンに対しアリは絶対不利と言われ、賭け率は7対1でリストンが優位だった。
しかしアリは臆せず「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と公言。
試合は一方的なものとなり、6R終了時にTKO勝ちとなった。
アリは試合終了後のインタビューで「I must be 'The Greatest'!」と興奮冷めやらぬ様子で叫んだ。
試合後アリは正式に本名をカシアス・クレイからモハメド・アリへと改名した。
リング外での闘い:
1960年に勃発し、のちにアメリカが本格参戦したベトナム戦争への徴兵を拒否したことから無敗のままWBAWBC統一世界ヘビー級王座を剥奪され、3年7か月間ブランクを作ったが、復帰後、実力で王座奪還を果たした。
また露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。
その後公民権運動などの貢献が称えられ、ドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞。
キンシャサの奇跡:
王座剥奪後の1971年3月8日、ジョー・フレージャーに挑戦する。
初めての敗北を喫したが、3年後の1974年10月30日、フレージャーに代わり新王者となっていたジョージ・フォアマンにKO勝ちを収め、王座に返り咲いた。
この挑戦試合はアフリカのザイール(現・コンゴ民主共和国)で行われ、"Rumble in the jungle"というタイトルがつけられていた。
当時、一般には全盛を過ぎたと見られていたアリが史上最高のハードパンチャーと目されたフォアマンを破ったため、「キンシャサの奇跡」とも呼ばれる。
この試合でアリは、ロープにもたれながら相手のパンチを腕でブロックし、自分では打ち返さずに、防戦一方になっていたが、一見劣勢に見えながらも、フォアマンの体力を消耗させて、最後の一発で逆転するというクレバーな作戦をとり、見事な勝利を収めた。
アリはこの戦法を"rope a dope"と名づけた。
ただし、以降の防衛戦でこの戦法を多用する一方、対戦相手のパンチを被弾することも増加していったため、後年のパーキンソン病の遠因ではないかとする説が上がった。
日本での活動:
1972年に初来日。
この時は4月1日に東京・日本武道館でマック・フォスターと対戦し、15回判定勝ちを収めた。
1976年の来日では6月26日に日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を行う。
特別ルールで戦い結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け。
アリのテーマソングである「炎のファイター」(通称「アリ・ボマイエ(ボンバイエ)」、作曲: マイケル・マッサー)は、76年に格闘技世界一決定戦を戦った猪木に記念品として寄贈されたということになっており、「イノキ・ボンバイエ」として歌われている。
この歌は、翌年公開の映画「アリ/ザ・グレーテスト」(en)のエンディング・テーマ「I Always Knew I Had It In Me」(作詞:ジェリー・ゴフィン)としてジョージ・ベンソンが全く別アレンジのバラードとなって流れる。
ちなみにオープニング・タイトルの「The Greatest Love of All」は後にホイットニー・ヒューストンがカバーして大ヒットとなった。
1998年の来日の際には4月4日に東京ドームで挙行されたアントニオ猪木のプロレスラー現役引退試合のスペシャルゲストとしてリングに上がり、猪木を労った。
病との闘い:
引退後にパーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入った。
公の場に出る機会は大きく減ったが、難病の中でも社会に対してメッセージを発し続けるアリへの評価は、アメリカ社会そのものの変化もあってむしろ高まっていった。
1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火。
金メダルを再授与された。
この開会式では聖火台の点火者は当日まで秘密にされていたが、女子水泳選手のジャネット・エバンスが、点火台まで聖火のトーチを運び上げた時、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(火が点くと同時にそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで火が点くしかけだった)。
この時、1960年のローマオリンピックで金メダルを得て帰国直後に、レストランにて黒人である事を理由に入店拒否され、メダルを川に捨てたというエピソードが紹介され、改めてアトランタの金メダルが彼に贈られた。
また、練習時に踏まれた右足の小指が骨折し、おかしな位置でくっついてしまったために引退後は軽い歩行困難になっている。
引退後:
1990年に湾岸危機に際し、サッダーム・フセイン:イラク大統領との直接対話のため、病をおしてバグダードに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。
解放された人のうち6人が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国した。
2003年のMLBオールスターゲームで始球式を務め、久し振りに公の場に姿を見せた。
2005年11月9日、アメリカ合衆国ホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。
2009年にはアイルランド クレア州エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われた。
戦績:
アリ、フレージャー、フォアマンはいずれもオリンピックの金メダリスト(アリはライトヘビー級、フレージャーとフォアマンはヘビー級の金メダリスト)であり、オリンピックチャンピオンがプロでも活躍するという流れがこの当時続いていた。
アリと同様、ライトヘビー級で金メダルを獲得したスピンクスがアリに挑戦し、番狂わせで王座を獲得したが、アリは再戦で王座に返り咲き、史上初めて、3度王座を獲得したヘビー級ボクサーとなった。
1960年、ローマオリンピックで金メダルを獲得。
その後、黒人差別を受け金メダルを川に投げ捨てた。
同年10月29日にプロデビュー。
1962年12月15日、老雄アーチー・ムーアに4回TKO勝ち。
1964年2月25日、ソニー・リストンに7回TKO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(2度目)。
1965年5月25日、初防衛戦でリストンとのリターンマッチに臨み、初回の2分12秒で返り討ちにした。
1965年11月22日、2度目の防衛戦でかつての名王者フロイド・パターソンの挑戦を受け、12回TKO勝ち。
当時アリはネーション・オブ・イスラム入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」だった。
パターソンはそれを止めるベビーフェイスとして担ぎ出された。
彼もこの報道攻勢に乗せられる形で「タイトルをアメリカに戻す」と発言。
それを聞いたアリは失望し、憧れでもあった彼に対して「アンクルトム」と罵り、試合中もレフェリーが止めるまで決定的な強打を打たずパターソンを痛めつけ続けた。
1966年3月29日、3度目の防衛戦でカナダの強豪ジョージ・シュバロと対戦。
先の試合で見せた圧倒的な強さから前評判ではアリの圧倒的有利の予想であった。
しかしシュバロの徹底したインファイトと執拗なボディ攻撃に苦しんだが、要所で有効打をヒットさせて15回判定勝ち。
アリにとってみれば初の大苦戦ともいえる試合であった。
1966年5月21日、4度目の防衛戦でヘンリー・クーパーと対戦。
クーパーは王者になる前のアリからノックダウンを奪うほどの実力者であった。
試合はお互いの実力が拮抗したハイレベルな打撃戦となったが、クーパーが6回終了後に左瞼からの大出血のためドクターストップで辛くも勝利した。
1966年8月6日、5度目の防衛戦でブライアン・ロンドンに3回KO勝ち。
勝負を決めたラッシュはカメラが捕らえきれないほどの高速でありながら、全てがクリーンヒットするという驚異的なものだった。
1966年9月10日、6度目の防衛戦でドイツのカール・ミルデンバーガーの挑戦を受ける。
アリは終始パワフルな攻撃を見せるが、ミルデンバーガーは打たれても打たれても強靭な精神力で耐え続けアリが休むと怒涛の反撃を見せる。
しかしワンサイドで打たれまくったミルデンバーガーの危険を察したレフェリーが12回に遂にストップを宣告するという壮絶な試合となった。
1967年2月6日、WBA世界ヘビー級王者アーニー・テレルと対戦。
試合前アーニーはわざとアリの旧名であるカシアス・クレイと呼んで挑発し、これに怒ったアリは試合を完全にコントロールしたどころかわざと決定打を打たず「俺の名前を言ってみろ!」と叫び続けて完全に打ちのめし判定勝利した。
試合後アリは「やつは早く楽になりたかったろうな。奴隷の名前で俺を呼んだ罰だ(当時アリが入信していたネーション・オブ・イスラムではほとんどのアフリカ系アメリカ人が持つ名前を、奴隷主に付けられた名として否定的に見る面がある)」
1967年3月22日、9度目の防衛戦でゾラ・フォーリーを7回TKOで沈めた。
この年良心的兵役拒否のため、禁固5年と罰金1万ドルを科せられ(1971年7月に合衆国最高裁で無罪となった)、WBA世界ヘビー級王座も剥奪された。
ボクサーライセンスも剥奪され、3年7か月間のブランクを作った。
1969年3月11日、WBC世界ヘビー級王座を剥奪された。
1970年10月26日、世界ヘビー級1位、ジェリー・クォーリーと3年ぶりの試合を行い、3回TKO勝ちして再起を果たした。
1970年12月7日、ジョー・フレージャーの持つ世界ヘビー級タイトルへ挑戦する前の前哨戦で、フレージャーを相手に健闘したオスカー・ボナベナと対戦する。
試合前は楽観視されていたが、大苦戦の末に最終回にボナベナから3度のダウンを奪って勝利した。
1971年3月8日、ジョー・フレージャーの持つWBA・WBC統一世界ヘビー級王座に挑戦するが、15回に左フックでダウンを奪われるなどして判定負け。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(3度目)。
1971年7月26日、NABF北米ヘビー級王座決定戦でジミー・エリスを12回TKO勝ちで北米ヘビー級チャンピオンとなる。
1972年4月1日、東京・日本武道館でマック・フォスターとのノンタイトル15回戦を行う。15回判定勝ち。
1973年3月31日、ケン・ノートンに判定負け、生涯2度目の敗北。
さらに試合後、顎を骨折していたことが分かる。
1973年9月10日、ケン・ノートンに判定勝ちし、雪辱。
1974年1月28日、前王者ジョー・フレージャーと3年越しの再戦を行い、12回判定勝ち。
雪辱を果たすとともに王者ジョージ・フォアマンへの挑戦権を得る。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(4度目)。
1974年10月30日、ジョージ・フォアマンに8回KO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得(キンシャサの奇跡)。
その後、10度防衛。
1975年3月24日、無名のチャック・ウェプナーと初防衛戦を行い、15回KO勝ちするが、ダウン(実はウェプナーがアリの足を踏んだため)を喫するなど、ウェプナーが善戦する。
この試合を見たシルヴェスター・スタローンは、映画「ロッキー」のストーリーを思い付いた。
1975年10月1日、フィリピンのアラネタ・コロシアムで行われた4度目の防衛戦でジョー・フレージャーと対戦し、14回TKO勝利を収めた。
終生のライバルとなったフレージャーとは3度対戦して、2勝1敗であった。
興行名を "The Thrilla in Manila" としたこの対戦は両者死力を尽くして形勢が何度も逆転した名試合であり、この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(5度目)。
1976年6月26日、武道館で猪木戦を行う。
結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け。
1978年2月15日、レオン・スピンクスにニューヨークのヒルトンスポーツパビリオンでの試合で判定負けして王座を失った。
この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(6度目)。
この後、スピンクスはWBCから王座を剥奪され、WBA王座のみとなった。
WBC世界ヘビー級王座には、ケン・ノートンが認定された。
1978年9月15日、レオン・スピンクスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級王座を奪回(3度目の返り咲き・この後王座返上)。
1980年10月2日、カムバックし、かつてスパーリング・パートナーだったラリー・ホームズのWBC世界ヘビー級王座に挑戦するが、11ラウンドTKOで敗れ、奪取ならず。
1981年12月11日、トレバー・バービックに判定負けし、遂に引退。
通算成績は56勝5敗で、このうち37勝がノックアウト勝ちだった。(ウイッキペディア)
1966年はなんと1年に4回のタイトル戦を行うというすさまじいスケジュールが組まれていました。
おそらく彼が一番強かったであろう25歳から4年近くリングに上がれなかったわけですから、悔しかったでしょうね。
ボクシングのリングは、迫害され続けてきた黒人が、唯一白人を衆人環視の中で叩き潰していい場所だったと考えれば、米国で黒人チャンピオンが多いこともうなづけますよね。
彼らがリングで戦ったのは、単なるお金や名声のためだけでなく、人間として扱われなかった奴隷だった歴史への復讐もあったに違いありません。
ご冥福をお祈りします。合掌。
では、6-5生まれの有名人です。
1723年アダム・スミス (英:経済学者,哲学者『国富論』)、1882年イーゴリ・ストラヴィンスキー (露:作曲家『火の鳥』)、1883年ジョン・メイナード・ケインズ (英:経済学者『雇用・利子および貨幣の一般理論』)、1887年ルース・ベネディクト (米:文化人類学者『菊と刀』)、1917年中島河太郎(ミステリー文学評論家『探偵小説辞典』)、1956年アン・ルイス (歌手)。
彼女は芸能界から足を洗って、現在ハワイに住んでいるそうです。
アン・ルイス グッド・バイ・マイ・ラブ メモリアル Ⅱ



