今日も、カナダに3-1で負けました。

日本男子バレーはなぜリオ五輪出場権を逃したのか
THE PAGE 6月4日(土)

 世界最終予選を2試合残した時点で、日本男子のリオ五輪の道は断たれた。
中国、ポーランド、イラン、豪州の4か国に敗戦。
特に悔やまれるのは、セットカウントをタイに持ち込める寸前だったアジア最強のライバルであるイランとの一戦である。

 豪州戦ではエース、石川が右足首を痛めて、第2セット途中からコートに立てなくなった。
強化委員長は「高さとパワー不足」を敗因とし、今大会限りで退任の方向の南部監督は、「サーブ力の差」と「狙われたウイングスパイカー陣が受け身になっていた」と、石川をサーブで徹底して狙われていたことを力が出し切れなかった要因のひとつだと反省した。

 昨年のワールドカップで躍進した日本男子は、なぜ五輪出場を果たせなかったのだろうか。

「イラン、豪州戦と2つとも勝てたのにもったいない。
チームは持てる力の50パーセントも出せなかった。
選手は悔やみきれないのではないか」と語るのは、元全日本のエースで北京五輪代表の山本隆弘氏だ。

「イラン戦では、サーブでターゲットを狙えていたし、日本はいいバレーをしていた。
しかし、最後までイランの攻撃を絞ることができなかった。
確かにデータを見てもイランは均等に散らしていたし、真ん中の攻撃をうまく見せていたが、そこは捨ててサイドをマークすべきだったのではなかったか。
 高さで勝てないのだから、どこかでプレッシャーをかけなきゃいけなかった。
チーム全体の方向性として、『ここは捨ててOK』、『ここは止めよう』と、ブロックの駆け引きにおいて割り切りができていなかった」

 戦略の不徹底。

 サーブで崩せなかったため、イランの攻撃パターンに大きな偏りが出なかったのだが、山本氏は、チームとして狙いを決めてブロックを仕掛けるべきだったという意見を持つ。
高さとパワーで勝てない日本は、ブロックの的を絞るというトータルディフェンスでボールをつなぐしかなかったが、思い切りのある戦略に欠けた。

 この試合も、石川がサーブで徹底して狙われ、バックアタックなどの攻撃の芽を潰されていた。
日本は、局面によって石川にレセプションをさせないシステムまで使ったが、山本氏は他に対策はあったという。

「ワールカップで活躍した石川がマークされ、狙われるのは予期されたこと。
石川はスパイクを打った後の着地で、体勢を崩すなど不安定さが目立ったが、サーブでプレッシャーをかけられ、スパイクに入る動作を遅らされていた。
石川は、きっちりとセッターへボールを返すことにこだわりすぎたため崩され、それが目に入るセッターは、石川にトスを上げ辛くなっていた。
ただ石川をレシーブから外すとフォーメーションが崩れる。
守備範囲が変わると米山にも負担がかかるので、あまり極端にはできない。
石川は、綺麗にセッターへ返すことは考えず、直接の失点をなくして、とりあえず上にボールを上げておくという意識で良かった。
スパイクまでもっていければ、そのリバウンドをレセプションの1本目と考え、そこからAパスを返して攻めればよかった」

イラン戦では16本のブロックを決められた。
第1セットではイランの5本に対して日本のブロックポイントは0本。
被ブロック率の高さが目についた。
豪州戦では、勝負所でエドガーに2連続サービスエースを決められるなど、不調が噂されていた相手のエースに自由自在にやられた。

「豪州戦でも、サーブはターゲットを狙えていたが、相手の攻撃枚数を減らすまでには至らず、エドガーには万全のジャンプでない状態でもスパイクを決められていた。
ブロックで吸い込んだ場面もあった。
あれをきっちりと抑えていれば、勝てたかもしれない。
 日本のジャンプフローターサーブに対して、豪州は陣形を前にして、きっちりとオーバーで対応された。
もっとスピードを上げ長く打つとか、胸元をつく工夫をすれば、相手は下がるか、さらに前に出るしかなく、揺さぶることができたのだが。
質の高いサーブは上から下に落ちる、そういうボールは簡単にオーバーでは返せないのだが、日本のサーブは下から上に動いてから落ちていた。
威力がなく、ボールに重さがなかった」
 
 最後の最後まで、日本のサーブは課題のままで終わった。
ジャンピングサーブも、ジャンピングフローターのいずれも、世界のトレンドに比べて日本のそれは球威も精度も物足りなかった。
 
 また日本のもうひとつの武器だったはずであるスピード、多彩なコンビバレーも冴えなかった。

 豪州戦の第1セットでは米山のバックアタックで19-18とリードを奪い、第2セットで起用されたセッターの関田も、少なかったミドル攻撃をうまくからめたが、状況を激変させることはできなかった。

 山本氏も、その点を挙げた。
「例えば、米山のバックアタックにしても、打てるわけだから、もっと使ってよかった。
ミドルの使い方にしても組み立ての中でトスの低さが目立った。
もっと精度を上げて完璧なバレーをしなければ勝てない」
   
 今大会では20点以降で逆転されるケースが目立った。
イランの第3セットは20-17から追いつかれ、ジュースにもつれこんだ末に25-27と粘り負けた。
豪州戦も第1セットに19-18から23-25と逆転され、右足首を痛めた石川をコートに送り出せなかった第3セットも20-18から23-24と逆転された。
紙一重ではあるが、終盤に弱いのは実力の差なのか、それともメンタルの問題なのか。
   
 山本氏は、「中国戦に負けて、もうひとつも負けられない状況に追い込まれ、勝ち急いだ。
苦しい状況で勝負しなくてもいいところで勝負して、ことごとくブロックされたり、ミスしたりすることが多かった。
もっと粘りながらチャンスをうかがうべきだったと思う、イランはバテていた。
粘って長い試合をすれば、日本にチャンスが巡ってきたのに、逆に日本が勝ち急いでいた。
チームメンタルの問題だ」と指摘する。

確かにイランの選手は後半に息が上がり膝に手をつくシーンもあった。
スタミナでは日本が上回っていたはずだが、メンタルのスタミナに欠けていたのか。
日本は、相手のブロックを利用しながらリバウンドを取り粘り強く拾い、ラリーを重ねてチャンスを待つという我慢のバレーができなかった。

「例えば、豪州戦で米山は一発で強引に決めようとせずに相手の嫌な場所に冷静にボールを入れながらリズムを作った。
ラリーを重ね、相手がブロックに跳ばなくなってくるところを見定めてから勝負していた。
もっとこういうプレーを繰り返せば、相手もブロックが嫌になって手の出し方も甘くなったりするものなのだ。
そこまで持っていく、粘りと我慢、落ち着きがチームに足りなかった」

 “ネクスト4”の柳田がイラン戦で膝を痛め、豪州戦ではエースの石川が右足首を痛めた。
石川はストレート負けを喫すれば、リオ五輪出場が消滅する、その大事な試合で、わずか6得点。
明らかに戦力ダウンしていたが、山本氏は、2人の故障が直接な敗因ではなく、しかも故障の予測ができたという。

「柳田、石川の故障は、そう関係ない。
OQTは、五輪よりも戦いにくい別ものの大会。
彼らは経験がない中でプレッシャーを感じて、しかも連戦で、いつも以上に疲労が生まれる。
その中でコンディションをキープすることは難しく故障発生の危険性があった。
予防、対策もできたはず」

 また山本氏の目には「ワールドカップの成功で過信が生まれたように」映ったという。
「せっかくワールドカップで作りあげていたチームプレーの組織が、OQTに備えて再集合したときにはバラバラで、ゼロの状態に戻っていたとも聞く。
組織をもう一度再構築するのに時間がなかったことに加えて、ワールドカップである程度の結果が出たので、OQTを経験していないメンバーが、“これでいいんだな“と、自信が過信になり、隙が生まれていたのではないか」
 
 今大会での敗因をもっと遡れば、ロンドン五輪の出場権を逃した後、公募で監督を募り、ゲーリー・サトウ氏に指揮を任せた“空白の2年”にも行き着く。
南部監督がチームを率いて“ネクスト4”と呼ばれた石川、柳田、山内らの若手を抜擢したが、リオ五輪に向けてのチーム作りの過程が遠回りしたことは間違いない。

 山本氏も「途中で監督が交代した弊害はあったと思う」と言う。
そう考えると、リオ五輪出場権を逃した原因は、今大会のコート内だけにあったわけではない。
そのあたりの総括を協会が真摯に行わなければ、開催地特権で出場できる4年後の東京五輪でも悲劇が繰り返されることになるだろう。

《山本隆弘》
1978年、鳥取生まれの37歳。
鳥取商から日体大を経てVプレミアリーグのパナソニック・パンサーズでプレー。
全日本のサウスポーエースとして、2003年のワールドカップでは、ベストスコアラーとMVPを獲得するなど活躍。
2008年には北京五輪に出場した。
2012-13年をもって引退。
現在はバレーボールの解説や普及活動だけでなく、幅広くスポーツやメディアの現場で活躍、鳥取市の「シティセールススペシャルサポーター」としても活動している。

指摘はもっともで、なぜこうした関係者の意見がチームに反映されないのか、そのことを不思議に思います。

解説で、川合氏が試合の流れの中で指摘する日本チームの課題も、試合後に録画ビデオを見直すだけで参考に出来るのに・・・

男子バレーは、黄色い声援の女性ファンのためにあるのか、それとも本気で勝つチームを作ろうとするのか、どうも中途半端な気がします。

ある意味女子バレーにもいえるのかもしれませんが、人気を呼べるビジュアル重視でいくのか、実力重視でいくのか、メダルを本気で狙うのなら、やはり人気先行型の選手選抜は封印すべきです。

女子はそれでも結果を出しましたが、男子は猛省すべきです!


訃報が飛び込んできました。

日本では、アリvs猪木戦でも有名でしたね。

モハメド・アリさん死去 
元ヘビー級王者 差別とも闘う
朝日新聞デジタル 6月4日(土)

 プロボクシングの元ヘビー級王者、モハメド・アリさんが3日、74歳で死去した。
米NBCなど複数の米メディアが報じた。
リングの外でもベトナム戦争への反対や、人種差別、信仰の自由をめぐる言動で注目を集め、20世紀の米社会を代表する人物の1人だった。

 1942年、カシアス・クレイとして米ケンタッキー州ルイビルで生まれ、12歳からボクシングを始めた。
60年のローマ五輪で、ライトヘビー級の金メダルを獲得したが、自伝によると、米国へ帰国後に黒人であることを理由にレストランで食事の提供を拒まれ、川に投げ捨てたという。

 プロ転向後の64年にヘビー級王者に挑戦。
前評判では不利とされたが、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」という言葉通りにソニー・リストンを破り、世界王者となった。
同じころ、黒人指導者のマルコムXらの影響を受けてイスラム教に改宗し、名前をモハメド・アリに改めた。

 プロとして無敗のままだった67年、信仰とベトナム戦争への反対を理由に米軍への入隊を拒否。
ボクシングライセンスを剝奪(はくだつ)され、王座も失ったが、「私とベトコンの間に争いはない」との言葉が有名となるなど、世論に影響を与えた。

 70年にライセンスを再び取得してリングに復帰。
74年に、当時無敗の世界王者だったジョージ・フォアマンに勝利し、7年ぶりに王者に返り咲いた。
78年にレオン・スピンクスに敗れたが、同年の再対決で勝ち、3度目の王者となった。

 81年の引退後は人道的活動に力を入れ、国連の「平和大使」にも指名されたが、パーキンソン病を発症し、次第に活動が難しくなった。
96年のアトランタ五輪では、病気の影響で手が震えながらも、聖火点灯の大役を果たした。
近年は体調が優れず、入院を繰り返していた。(ダラス=中井大助)

米国社会での彼の影響は、いち名ボクサーにとどまらないくらい大きかったようです。

モハメド・アリ(Muhammad Ali、1942年1月17日 - 2016年6月3日)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。
元世界ヘビー級チャンピオン。
アフリカ系アメリカ人だが、イングランドとアイルランドの血も引く。
ケンタッキー州ルイビル出身。

イスラム教改宗前の本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay, Jr.)。
1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、リングネームをカシアス・クレイからモハメド・アリに改めた。

1960年ローマオリンピックボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得。
その後プロに転向し、1964年にはソニー・リストンを倒して世界ヘビー級王座を獲得した。
マルコム・Xと出会いその思想に共鳴。
イスラム教にも改宗。
ベトナム戦争徴兵も拒否する。
その発言と行動は当時の米国政府や保守派との深刻な対立をもたらし、世界タイトル剥奪や試合禁止等様々な圧力が加えられた。
しかし最終的には、通算3度のチャンピオン奪取成功と19度の防衛に輝いた。

ジョージ・フォアマンとザイールで対戦。
8Rでの一発大逆転を演じたタイトルマッチや、ジョー・フレージャーとの死闘など、ボクシング史上に残る数々な名勝負を行っている。
ベトナム戦争徴兵拒否により米国政府と長期にわたって争ったが、最終的には無罪を勝ち取った(#リング外での闘い)ことでも知られる。

引退後、現役時代に受けた頭部へのダメージが原因とされるパーキンソン病を患い闘病生活を送っていたが、2016年6月3日死去。
享年74。
死因は呼吸器疾患とされているが、1984年に患ったパーキンソン病に関係があると思われる。

蝶のように舞い、蜂のように刺す (Float like a butterfly, sting like a bee)
鈍重な大男の力任せな殴り合いだったヘビー級ボクシングに、アリは蝶のように華麗なフットワークと、蜂のように鋭い左ジャブを活用するアウトボクシングを持ち込んだ。
この著名なフレーズは、アリのトレーナーのドゥルー・バンディーニ・ブラウンによるもので、試合前によく肩を組んで「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」と一緒に叫ぶパフォーマンスを見せていた。
ノートン戦の敗北後に、ノートンのファンから「蝶は羽を失い、蜂は針を失った」という投書が届き、これを気に入ったアリはジムの壁にこれをテープで貼りつけて毎日眺め、「羽」と「針」を取り戻す決意を新たにしていた。

ヘビー級史上最速の一人
リングを縦横無尽に動き回れる体のこなしだけでなく、ジャブに右ストレートでカウンターを合わせる離れ業をやってのけるパンチのスピードも持っていた。
マイク・タイソンが出現した現代においてもなお、ヘビー級史上最速と評価された。

シュガー・レイ・ロビンソンの影響
シュガー・レイ・ロビンソンを尊敬しており実際に影響をうけたと指摘する声も存在した。
レオン・スピンクスとの再戦を前に「俺は三度ヘビー級チャンピオンを獲得する最初の男になる。
ヘビー級のシュガー・レイ・ロビンソンになるんだ」と語っている。
後にはシュガー・レイ・レナードを育てた名トレーナー、アンジェロ・ダンディーと常にコンビを組んでいた。

プロボクサーの娘
娘のレイラ・アリはプロボクサーとして活躍した。
WBC女子スーパーミドル級の初代チャンピオン。
ジョー・フレージャーの娘であるジャッキー・フレージャー・ライドと2001年6月に対戦した。

トラッシュトーク
アリは、注目を集めるための自己宣伝が非常に派手で巧みだった。
「俺が最強だ」「俺が最も偉大だ」と公言し、わざと物議をかもす言動をし、試合の相手をからかった詩を発表し、KOラウンド数を予告してリングにあがった。
この態度はむろん顰蹙を買い、徴兵拒否やムスリムとの関係もあいまって、非常に多数のアンチを生み出した。
本人はこの言動の理由を「むろん、厚顔な大ぼら吹きが好きな者はいない。しかしこう言えば、みんなは俺の試合を見にくるし、プロモーター達には、俺の試合の企画が、金になることが判るんだ。野次や怒号の中をリングにあがるのは、いい気分だ。最後は、俺の予告どおりになるんだからね」としている。

幼年期:
1942年1月17日にアメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアスと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイとして生まれた。
父親と同じ名前であるため、ジュニアが名前の最後についていた。
彼は小学生の頃、父親から誕生日にプレゼントにもらった自転車を宝物にしており、それに乗ってよく近所にポップコーンとアイスクリームをもらいに行っていた。
ところが、ある日、誰かに自転車を盗まれ、警察にいった際、この時の警官がボクシングジムのトレーナーもしており、彼に犯人に鉄拳制裁を加えるという意味でボクシングを勧め、その警官のボクシングジムに入った。
これが、モハメド・アリがボクシングを始めたキッカケになった。

アマチュア時代:
ジムに入門後、アリは8週間でアマチュアボクサーとしてデビューした。
対戦相手は、アリ同様にデビューしたてのロニー・オキーフだった。
試合は3分3Rで行われ、スプリットデシジョンで判定勝ちした。
アリが通っていたジムには、後にWBA 世界ヘビー級王者になるジミー・エリスも通っており、アリはアマチュア時代にエリスと2度対戦し、1勝1敗の戦績を残した。
この間に、アリはヴァージニア大通り小学校とデゥヴァル中学校を卒業。
セントラル高校に進学している。
その後、ケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝した。
さらに、AAU ボクシング競技のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。
1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技(ライトヘビー級)に出場。
前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドのズビグニェフ・ピトロシュコスキーを判定で破って優勝。

プロ転向と改名:
1960年10月29日にプロデビュー。
タニー・ハンセイカーと対戦し、6R判定勝ちを収めて、プロデビュー戦を勝利で飾る。
また、プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であると公表し、リングネームを現在の本名である、ムスリム(イスラム教徒)名モハメド・アリ(ムハンマド・アリー)に改めた。
この名前は、預言者ムハンマドと指導者(イマーム)アリーに由来する。
なお、1975年にはイスラム教スンナ派に改宗した。

1962年11月15日に元世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアと対戦。
試合前に、控え室の黒板に「ムーアを4ラウンドにKOする」という予言を書いてリングに向かい、その予言の通り4ラウンド目に3度ダウンを奪ってKO勝ちした。

1963年3月13日に、元世界ライトヘビー級王座挑戦者のダグ・ジョーンズと対戦。
アリが10R判定で勝利。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出されたが、アリは試合前にジョーンズを6RでKOすると公言していたため、試合後に新聞からバッシングを浴びた。

1964年2月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンに挑戦。
当時史上最強のハードパンチャーと評価されたリストンに対しアリは絶対不利と言われ、賭け率は7対1でリストンが優位だった。
しかしアリは臆せず「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と公言。
試合は一方的なものとなり、6R終了時にTKO勝ちとなった。
アリは試合終了後のインタビューで「I must be 'The Greatest'!」と興奮冷めやらぬ様子で叫んだ。
試合後アリは正式に本名をカシアス・クレイからモハメド・アリへと改名した。

リング外での闘い:
1960年に勃発し、のちにアメリカが本格参戦したベトナム戦争への徴兵を拒否したことから無敗のままWBAWBC統一世界ヘビー級王座を剥奪され、3年7か月間ブランクを作ったが、復帰後、実力で王座奪還を果たした。
また露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。
その後公民権運動などの貢献が称えられ、ドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞。

キンシャサの奇跡:
王座剥奪後の1971年3月8日、ジョー・フレージャーに挑戦する。
初めての敗北を喫したが、3年後の1974年10月30日、フレージャーに代わり新王者となっていたジョージ・フォアマンにKO勝ちを収め、王座に返り咲いた。

この挑戦試合はアフリカのザイール(現・コンゴ民主共和国)で行われ、"Rumble in the jungle"というタイトルがつけられていた。
当時、一般には全盛を過ぎたと見られていたアリが史上最高のハードパンチャーと目されたフォアマンを破ったため、「キンシャサの奇跡」とも呼ばれる。

この試合でアリは、ロープにもたれながら相手のパンチを腕でブロックし、自分では打ち返さずに、防戦一方になっていたが、一見劣勢に見えながらも、フォアマンの体力を消耗させて、最後の一発で逆転するというクレバーな作戦をとり、見事な勝利を収めた。
アリはこの戦法を"rope a dope"と名づけた。

ただし、以降の防衛戦でこの戦法を多用する一方、対戦相手のパンチを被弾することも増加していったため、後年のパーキンソン病の遠因ではないかとする説が上がった。

日本での活動:
1972年に初来日。
この時は4月1日に東京・日本武道館でマック・フォスターと対戦し、15回判定勝ちを収めた。

1976年の来日では6月26日に日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を行う。
特別ルールで戦い結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け。
アリのテーマソングである「炎のファイター」(通称「アリ・ボマイエ(ボンバイエ)」、作曲: マイケル・マッサー)は、76年に格闘技世界一決定戦を戦った猪木に記念品として寄贈されたということになっており、「イノキ・ボンバイエ」として歌われている。
この歌は、翌年公開の映画「アリ/ザ・グレーテスト」(en)のエンディング・テーマ「I Always Knew I Had It In Me」(作詞:ジェリー・ゴフィン)としてジョージ・ベンソンが全く別アレンジのバラードとなって流れる。
ちなみにオープニング・タイトルの「The Greatest Love of All」は後にホイットニー・ヒューストンがカバーして大ヒットとなった。

1998年の来日の際には4月4日に東京ドームで挙行されたアントニオ猪木のプロレスラー現役引退試合のスペシャルゲストとしてリングに上がり、猪木を労った。

病との闘い:
引退後にパーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入った。
公の場に出る機会は大きく減ったが、難病の中でも社会に対してメッセージを発し続けるアリへの評価は、アメリカ社会そのものの変化もあってむしろ高まっていった。

1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火。
金メダルを再授与された。
この開会式では聖火台の点火者は当日まで秘密にされていたが、女子水泳選手のジャネット・エバンスが、点火台まで聖火のトーチを運び上げた時、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(火が点くと同時にそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで火が点くしかけだった)。
この時、1960年のローマオリンピックで金メダルを得て帰国直後に、レストランにて黒人である事を理由に入店拒否され、メダルを川に捨てたというエピソードが紹介され、改めてアトランタの金メダルが彼に贈られた。

また、練習時に踏まれた右足の小指が骨折し、おかしな位置でくっついてしまったために引退後は軽い歩行困難になっている。

引退後:
1990年に湾岸危機に際し、サッダーム・フセイン:イラク大統領との直接対話のため、病をおしてバグダードに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。
解放された人のうち6人が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国した。

2003年のMLBオールスターゲームで始球式を務め、久し振りに公の場に姿を見せた。

2005年11月9日、アメリカ合衆国ホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。

2009年にはアイルランド クレア州エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われた。

戦績:
アリ、フレージャー、フォアマンはいずれもオリンピックの金メダリスト(アリはライトヘビー級、フレージャーとフォアマンはヘビー級の金メダリスト)であり、オリンピックチャンピオンがプロでも活躍するという流れがこの当時続いていた。
アリと同様、ライトヘビー級で金メダルを獲得したスピンクスがアリに挑戦し、番狂わせで王座を獲得したが、アリは再戦で王座に返り咲き、史上初めて、3度王座を獲得したヘビー級ボクサーとなった。

1960年、ローマオリンピックで金メダルを獲得。
その後、黒人差別を受け金メダルを川に投げ捨てた。
同年10月29日にプロデビュー。

1962年12月15日、老雄アーチー・ムーアに4回TKO勝ち。

1964年2月25日、ソニー・リストンに7回TKO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(2度目)。

1965年5月25日、初防衛戦でリストンとのリターンマッチに臨み、初回の2分12秒で返り討ちにした。

1965年11月22日、2度目の防衛戦でかつての名王者フロイド・パターソンの挑戦を受け、12回TKO勝ち。
当時アリはネーション・オブ・イスラム入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」だった。
パターソンはそれを止めるベビーフェイスとして担ぎ出された。
彼もこの報道攻勢に乗せられる形で「タイトルをアメリカに戻す」と発言。
それを聞いたアリは失望し、憧れでもあった彼に対して「アンクルトム」と罵り、試合中もレフェリーが止めるまで決定的な強打を打たずパターソンを痛めつけ続けた。

1966年3月29日、3度目の防衛戦でカナダの強豪ジョージ・シュバロと対戦。
先の試合で見せた圧倒的な強さから前評判ではアリの圧倒的有利の予想であった。
しかしシュバロの徹底したインファイトと執拗なボディ攻撃に苦しんだが、要所で有効打をヒットさせて15回判定勝ち。
アリにとってみれば初の大苦戦ともいえる試合であった。

1966年5月21日、4度目の防衛戦でヘンリー・クーパーと対戦。
クーパーは王者になる前のアリからノックダウンを奪うほどの実力者であった。
試合はお互いの実力が拮抗したハイレベルな打撃戦となったが、クーパーが6回終了後に左瞼からの大出血のためドクターストップで辛くも勝利した。

1966年8月6日、5度目の防衛戦でブライアン・ロンドンに3回KO勝ち。
勝負を決めたラッシュはカメラが捕らえきれないほどの高速でありながら、全てがクリーンヒットするという驚異的なものだった。

1966年9月10日、6度目の防衛戦でドイツのカール・ミルデンバーガーの挑戦を受ける。
アリは終始パワフルな攻撃を見せるが、ミルデンバーガーは打たれても打たれても強靭な精神力で耐え続けアリが休むと怒涛の反撃を見せる。
しかしワンサイドで打たれまくったミルデンバーガーの危険を察したレフェリーが12回に遂にストップを宣告するという壮絶な試合となった。

1967年2月6日、WBA世界ヘビー級王者アーニー・テレルと対戦。
試合前アーニーはわざとアリの旧名であるカシアス・クレイと呼んで挑発し、これに怒ったアリは試合を完全にコントロールしたどころかわざと決定打を打たず「俺の名前を言ってみろ!」と叫び続けて完全に打ちのめし判定勝利した。
試合後アリは「やつは早く楽になりたかったろうな。奴隷の名前で俺を呼んだ罰だ(当時アリが入信していたネーション・オブ・イスラムではほとんどのアフリカ系アメリカ人が持つ名前を、奴隷主に付けられた名として否定的に見る面がある)」

1967年3月22日、9度目の防衛戦でゾラ・フォーリーを7回TKOで沈めた。
この年良心的兵役拒否のため、禁固5年と罰金1万ドルを科せられ(1971年7月に合衆国最高裁で無罪となった)、WBA世界ヘビー級王座も剥奪された。
ボクサーライセンスも剥奪され、3年7か月間のブランクを作った。

1969年3月11日、WBC世界ヘビー級王座を剥奪された。

1970年10月26日、世界ヘビー級1位、ジェリー・クォーリーと3年ぶりの試合を行い、3回TKO勝ちして再起を果たした。

1970年12月7日、ジョー・フレージャーの持つ世界ヘビー級タイトルへ挑戦する前の前哨戦で、フレージャーを相手に健闘したオスカー・ボナベナと対戦する。
試合前は楽観視されていたが、大苦戦の末に最終回にボナベナから3度のダウンを奪って勝利した。

1971年3月8日、ジョー・フレージャーの持つWBA・WBC統一世界ヘビー級王座に挑戦するが、15回に左フックでダウンを奪われるなどして判定負け。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(3度目)。

1971年7月26日、NABF北米ヘビー級王座決定戦でジミー・エリスを12回TKO勝ちで北米ヘビー級チャンピオンとなる。

1972年4月1日、東京・日本武道館でマック・フォスターとのノンタイトル15回戦を行う。15回判定勝ち。

1973年3月31日、ケン・ノートンに判定負け、生涯2度目の敗北。
さらに試合後、顎を骨折していたことが分かる。

1973年9月10日、ケン・ノートンに判定勝ちし、雪辱。

1974年1月28日、前王者ジョー・フレージャーと3年越しの再戦を行い、12回判定勝ち。
雪辱を果たすとともに王者ジョージ・フォアマンへの挑戦権を得る。
この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(4度目)。

1974年10月30日、ジョージ・フォアマンに8回KO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得(キンシャサの奇跡)。
その後、10度防衛。

1975年3月24日、無名のチャック・ウェプナーと初防衛戦を行い、15回KO勝ちするが、ダウン(実はウェプナーがアリの足を踏んだため)を喫するなど、ウェプナーが善戦する。
この試合を見たシルヴェスター・スタローンは、映画「ロッキー」のストーリーを思い付いた。

1975年10月1日、フィリピンのアラネタ・コロシアムで行われた4度目の防衛戦でジョー・フレージャーと対戦し、14回TKO勝利を収めた。
終生のライバルとなったフレージャーとは3度対戦して、2勝1敗であった。
興行名を "The Thrilla in Manila" としたこの対戦は両者死力を尽くして形勢が何度も逆転した名試合であり、この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(5度目)。

1976年6月26日、武道館で猪木戦を行う。
結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け。

1978年2月15日、レオン・スピンクスにニューヨークのヒルトンスポーツパビリオンでの試合で判定負けして王座を失った。
この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(6度目)。
この後、スピンクスはWBCから王座を剥奪され、WBA王座のみとなった。
WBC世界ヘビー級王座には、ケン・ノートンが認定された。

1978年9月15日、レオン・スピンクスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級王座を奪回(3度目の返り咲き・この後王座返上)。

1980年10月2日、カムバックし、かつてスパーリング・パートナーだったラリー・ホームズのWBC世界ヘビー級王座に挑戦するが、11ラウンドTKOで敗れ、奪取ならず。

1981年12月11日、トレバー・バービックに判定負けし、遂に引退。

通算成績は56勝5敗で、このうち37勝がノックアウト勝ちだった。(ウイッキペディア)

1966年はなんと1年に4回のタイトル戦を行うというすさまじいスケジュールが組まれていました。

おそらく彼が一番強かったであろう25歳から4年近くリングに上がれなかったわけですから、悔しかったでしょうね。

ボクシングのリングは、迫害され続けてきた黒人が、唯一白人を衆人環視の中で叩き潰していい場所だったと考えれば、米国で黒人チャンピオンが多いこともうなづけますよね。

彼らがリングで戦ったのは、単なるお金や名声のためだけでなく、人間として扱われなかった奴隷だった歴史への復讐もあったに違いありません。

ご冥福をお祈りします。合掌。

では、6-5生まれの有名人です。

1723年アダム・スミス (英:経済学者,哲学者『国富論』)、1882年イーゴリ・ストラヴィンスキー (露:作曲家『火の鳥』)、1883年ジョン・メイナード・ケインズ (英:経済学者『雇用・利子および貨幣の一般理論』)、1887年ルース・ベネディクト (米:文化人類学者『菊と刀』)、1917年中島河太郎(ミステリー文学評論家『探偵小説辞典』)、1956年アン・ルイス (歌手)。

彼女は芸能界から足を洗って、現在ハワイに住んでいるそうです。
アン・ルイス グッド・バイ・マイ・ラブ メモリアル Ⅱ

助かってよかったね。

北海道男児不明、山中でどう生き延びるか 
専門家が語る2つのポイント
BuzzFeed Japan 6月3日(金)

北海道で5月28日から行方不明になっていた小学2年生、田野岡大和くん(7)が6月3日、見つかった。
山中で1週間、どうやって生き延びたのか。
そして、いざというときどうすれば良いのか。
専門家は「助かるための2つのポイント」があると話す。【石戸諭 / BuzzFeed Japan】

田野岡くんは、陸上自衛隊駒ケ岳演習場にある小屋で発見された。
朝日新聞によると、行方不明になったとされる場所から6~7キロの地点だという。

発見までの1週間、田野岡くんが一人でどうやって山中で過ごしたかはわかっていない。
BuzzFeed Newsは、ボーイスカウト日本連盟社会連携広報部の木本史郎さんに、子供が一人、山中ではぐれた際、助かるためのポイントはどこにあるのかを聞いた。

「今回の行方不明で気になるのは、大自然のなかで子供を1人にしたこと。
こういう状況は作らないことが第一ですが、山登りなどで子供が1人、はぐれるケースは想定できます。
はぐれた場合、注意すべきは2つ。
万が一に備えて、家族で共有してください」

第1のポイント「動き回らない」ことだ。

「大人とはぐれた場合、そこから動かないことです。
親を探さないことです。
親は、もしはぐれた場合は『大人が絶対に探すからそこから動かないで』と伝える」
「子供が親を探さない利点は2つあります。
むやみに動くと、親子でお互いを探す状況になり、距離が離れてしまうこと。
もう一つは体力を消耗しないですむことです。
動き回ると喉はかわき、おなかもすく。
水分も食料も必要になります。探してもらうのを待ちましょう」

第2のポイントは「音を出す」。 

「大きな声で『助けて』と叫ぶというのもいいのですが、声を出すと意外と体力を消耗します。
もっといい方法は笛を持っていくことですが、なければ石や木で音をだすこと」
「3回ずつ、音を出す。
これは救難信号の基本であり、人の注意を引き寄せます。
1回なら偶然かな、と思われますが3回なら意図を持っている。
動物や、自然の音ではなく、人が出していると思ってもらえます。
救難信号も3回ずつ音を出します。
それと同じように、石や木で3回出すことです」

木本さんはこう話す。

「子供だから、遠くまでいけないだろうというのは大人の思い込みです。
山中など高低差のあるところでは、子供は身軽で、意外と遠くまで動ける。
自分たちが思っていたより、遠くまで離れていたということはある。
約束事を作るのが大事です」

田野岡君は是非とも自衛隊のレンジャー部隊に就職して欲しい。

続いては、スポーツの話題です。

イチロー超美技連発&8度目マルチ&日米通算700盗塁! 
3000安打まで「35」
Full-Count 6月3日(金)

最多ローズまでは「13」、イチローが走攻守で輝く

 マーリンズのイチロー外野手が2日(日本時間3日)の本拠地パイレーツ戦で2試合ぶりにスタメン出場し、今季8度目のマルチ安打を放った。
これでメジャー通算2965安打となり歴代単独31位に浮上。
3000安打に残り35本とした。
また、日米通算で4243安打でメジャー最多安打のピート・ローズまで「13」となった。
さらに7回には今季3個目の盗塁を成功させ、日米通算700盗塁に到達した。

 この日は「1番・センター」で先発。第1打席は相手先発右腕ニカシオに対しセカンドゴロに倒れたが、直後の2回の守備で右中間へのライナーをスライディングキャッチする好守を披露。
2死満塁のピンチを救い、会場を沸かせた。

 さらに1点リードで迎えた3回先頭の第2打席ではショート後方に落ちる安打を記録。
このヒットでメジャー通算2964安打に。
MLB公式サイト等のランキングではすでに1899年からレッズなどで活躍したサム・クロフォードを抜いて単独31位となっていたが、球団発表では、スポーツデータ等を扱う米シンクタンク「エリアス・スポーツ・ビュロー」社のデータとしてクロフォードは2963安打とされており、この日の安打で単独31位に浮上したことになる。

 イチローはその後、イエリッチの右前打で二塁に進むと、スタントンの右翼線への二塁打で2点目のホームを踏んだ。
マーリンズはこの回2点を奪うと、イチローは4回の守備でも魅せる。
無死走者なしから4番・姜正浩の大飛球をフェンスギリギリで跳び上がってキャッチ。
これにも大歓声が沸き起こった。

 さらに4回1死の第3打席では左中間への二塁打をマーク。
これで自身、今季8度目のマルチ安打となった。
1点差に迫られた7回先頭の第4打席では鋭い打球を放つと、一塁手がトンネル。
相手のエラーでヒットは記録されなかったが、1死後に二盗を成功させた。
イチローは4月29日以来、今季3盗塁目で日米通算700盗塁(MLB501盗塁、NPB199盗塁)に到達した。
日本人の700盗塁は福本豊氏の1065盗塁に次いで史上2人目の偉業となった。

 その後、9回1死走者なしの第5打席では中飛、延長12回1死走者なしの第6打席では四球を選んで出塁し、5打数2安打1四球1得点1盗塁で打率.323に。
マーリンズは延長12回裏にイチローの四球を足がかりに最後はイエリッチがサヨナラ打を放ち、4-3と3連勝を飾っている。

これだけ活躍して、レギュラーでないのが不思議ですよね。

最後は、他人事ではないこんな話題です。

高齢者に群がる業者「合法的詐欺」の手口
6月3日(金)

高齢者を「食い物」にしている人たちがいる──。
それは「オレオレ詐欺」のような明らかな犯罪の話だけではない。
いまや有名企業の中にも増えている。

問題は合法と違法の間、違法すれすれの合法的手法が幅をきかせつつあることだ。
では、どんな人たちが、どのように被害に遭い、また逆に、どんな「やつら」がそれを仕掛けているのか。
高齢者が「餌食」となる被害の現場を見つつ、仕掛ける「やつら」の側にも分け入ってみた。(ジャーナリスト・岩崎大輔/Yahoo!ニュース編集部)

埼玉県川口市にある木造モルタルのアパート。
4畳半二間、風呂もない間取り。
とても「お金持ち」には見えなかった。

だが、奥の4畳半に積み上がった段ボール箱の中身は、新品の高級羽毛布団15セット。
一組80万円以上、総額で1000万円を超える。
その部屋で一人暮らしをする76歳の婦人のもとに訪問販売業者が押しかけ、個別式クレジット(カード式とは異なり、自動車ローンやリフォームローンのように商品購入の都度申込書を書くクレジット決済方式)を利用して購入させていたのだ。

近隣の福祉関係者の相談で駆けつけた日本弁護士連合会・消費者問題対策委員会委員の池本誠司弁護士が尋ねてみたが、老婦人は販売業者のことを悪くは言わなかった。

「“あの人”が来ると断れなくてねぇ」

老婦人は長年使い古したペラペラの布団から半身を起こし、そう応じた。
購入した羽毛布団は、自分自身では使っていなかった。

こんなに布団は必要ないですよね──。
池本弁護士は業者への怒りを抑えつつ質問したが、老婦人は「断れなくてねぇ」と同じ言葉を繰り返した。

クーリングオフ(違約金のない契約の解除)ができる8日間はとうに過ぎていた。
訪問販売業者が次々と押しかけ、高価な商品を販売する手口を「次々販売」と呼ぶ。
老婦人はこの次々販売の「餌食」となっていた。
池本弁護士が振り返る。

「この事案当時の特定商取引法では一度契約を交わすと、悪質な手口を被害者が詳しく説明・再現できないと取り消すことができなかった。
でも、おばあさんに尋ねても、『どうだったかねぇ』と首を傾げるばかり。
次々に契約を交わすと、被害者は再現が困難になり、悪質業者に有利な仕組みでした」

池本弁護士はこの案件を「解約」「返品交渉」にした。
その結果、利息を含む800万円のクレジット残金は支払い免除となったが、販売業者とは連絡が取れなくなり、すでに引き落とされた400万円近くのお金は戻ってこなかった。
老婦人は老後の生活にあてるはずだった預貯金をすべて失っていた。

「歳をとればとるほど、誘ってくる人に対しての断る力──拒絶能力が低下します。
そのため、悪質、強引な勧誘にさらされると、契約をしてしまう。
働き盛りの人なら『俺は大丈夫』と思うでしょうが、歳をとると、そうではなくなるのです。
認知症やMCIと呼ばれる軽度認知障害の人たちだけの話ではありません。
高齢になれば、判断能力や記憶力が低下していなくても、熱心に説得されると不満を感じつつも受け入れてしまう傾向が強くなります」(池本弁護士)


マンションの住民から地元の民生委員に連絡があった。

都内城南地区、一等地に位置する2LDKのマンション。
「成年後見センター・リーガルサポート」の副理事長で司法書士の川口純一氏が民生委員とともに玄関を開けると、タバコの吸殻やコンビニ弁当の空容器、ゴミ、脱ぎ捨てられた衣服などが無造作に散らばっていた。

そして、小銭の詰まった空き缶。
それを見て、川口氏は状況を把握した。
過去にも見てきた現象、認知症だった。

「認知症になると、簡単な計算もできなくなります。
すると、買い物はお札を渡すだけになり、お釣りはそのまま空き缶に入れてしまう。
その典型的な現象でした」

70代後半の老婦人は、大手メディアに長く勤務した、キャリアウーマンのさきがけだった。
だが、親族もなく、都心のマンションにひとりで暮らし、いつしか認知があやしくなっていた。

川口氏は行政の依頼を受け、老婦人の成年後見人(高齢者、知的障害者など判断能力が十分でない人の財産や権利を保護するために、法律面を中心に支援する人)を引き受けることになった。
そうなって川口氏が驚いたのは、老婦人の資産の減り方だった。

2年前には彼女の預貯金は7000万円近くあったが、いま手にした通帳では、わずか30万円ほどに減っていた。
部屋のあちこちに散らばっていた商品購入の痕跡は、多種多様なものだった。
先物取引、高配当や高利率をうたった投資商品のパンフレット、健康グッズ、浄水器、ウィッグ(かつら)、内装のリフォーム……。
共通していたのは、いずれの商品も高額であること。
そして、老婦人の日常生活にとって必要性という点では疑問符のつく商品ばかりだった。

預貯金の通帳を点検してみると、銀行の口座間の取引はなされておらず、毎回ATMで引き出せる最大額の50万円が、支払金額として記録されていた。
時期によっては、連日50万円の引き出しが行われていた。
おそらくは業者が寄り添って銀行まで通っていたと推測された。

川口氏は返金を求めようと、すべての業者に電話をかけた。
ところが、パンフレットに記載されている連絡先は、ただの1件も電話がつながらなかった。

「業者の連絡先はもともと虚偽だったか、あるいは短期間で閉鎖されていました。
もちろん、おばあさんに尋ねても、何もわかっていない。
彼らの巧妙かつ大胆な手口に途方にくれました」

問題がわかりにくかったのは、老婦人は日常の生活も会話も一見不自由なくできたことだった。
金融商品の契約書には自筆での署名もあった。
だが、会話の内容を長く覚えることはできず、その内容を理解していないことも多々あった。

「だから、周囲からすると、ふつうに見えた。
それがおばあさんの異変に気づくのを遅らせることになっていました」

川口氏は一度だけ訪問販売の営業と出くわしたことがあった。
短髪で背広姿の30代の男だったという。
川口氏の姿をみると、何かを察したのか、脱兎のごとく逃げ出した。

「今の男性、何者かな?」と川口氏が老婦人に尋ねると、

「あの人はいい人よ。やさしくていい人なのよ」

そう微笑んでいた。

詐欺罪には問えない「詐欺的」な事例が続々

2016年5月24日に発表された「消費者白書」は、「高齢者が巻き込まれる詐欺的なトラブル」について警鐘を鳴らしている。

〈高齢者に関する消費生活相談において、詐欺的な手口に関する相談が特に最近増加傾向にあります〉

「詐欺的な手口」とは、あきらかに事業者側が「だます」という意思をもっていると消費者や消費生活センター側に判断されたものをいう。
消費生活センターにおける高齢者に関する相談のうち、「詐欺的手口」に関するものの割合は、2010年度には6.2%だったものが年々増え、2015年度には16.0%(2014年度は16.8%)と3倍近くに増加した。

高齢者が増加する中、こうした消費者トラブルが日常的になってきた。
法的な面では、2000年の消費者契約法や特定商取引法(旧・訪問販売法)の改正などの対応がとられてきたが、法の目をかいくぐる業者は後を絶たず、問題は増え続けてきた。

2016年の通常国会では罰金刑の上限が上がった改正案が上程され、5月25日に成立した。
泣き寝入りしがちな被害者のもとに被害金が戻るような指示権限が規定されている。

「被害に遭った後の救済策だけでなく、入り口で防止できる制度が不可欠です」。
池本弁護士も指摘するように、悪質な訪問販売は入り口で追い返すのが最善策だろう。
だが、多くのケースを聞いていると、認知症であるか否かにかかわらず、高齢者がそうした業者をたやすく受け入れていることがしばしばある。
“やさしくていい人”として歓迎さえしているケースも少なくない。

だとすれば、そんな“やさしくていい人”とはどんな人なのか。
取材を進めると、たしかに「やさしくていい人」と映る業者に出くわした。

まったくないです、やましさなんて

東京・池袋のカフェ。
その男性は「いまはやっていませんよ」と爽やかな笑みを浮かべ、厳しい質問にも表情を変えることはなかった。
取材の中盤、やましさについて尋ねたときも、「まったくないです」と満面の笑顔で返した。

「完全にゲーム感覚、です。
『あとちょっとで100万円いくな。
明日は東北訛りでいってみようかな』と相手に取り入ることばかり考えていましたから。
こうすればもっと稼げるな、ああすればいいかなって。
むしろ、知恵と努力とストレスの日々なんですよ」

かつて訪問販売の会社に勤めた福岡桂一氏(仮名・39歳)は振り返る。

福岡氏は若い頃は舞台役者として活動。
だが、芽が出ることなく、28歳で断念、就職した。
それが多様な商品を扱う訪問販売の会社だった。
芝居経験がよかったのか、営業では、すぐに頭角を現した。
給料は歩合制だったが、2年目で年収は1500万円を超えたという。

32歳の若さで50人の部下を持ち、最年少の東京支社長となった。

「その会社では年2回、神奈川県にある保養所に全営業社員が集められ、成績順に座らされました。
そこで社長から、『福岡君がトップ。今月の給与が歩合を入れて160万円、ボーナスが440万円です。明日振り込まれます』と皆の前で表彰される。
さらに会社からハワイ旅行や金貨もプレゼントされた。
結果を出せばこんないい思いができるとわかると、ますます頑張りましたね」

商材として扱っていたのは、当初は「洗剤類」だった。
そのうち高齢女性向けの「補整下着」や「化粧品」「ウィッグ」へと広がっていった。
福岡氏はこれらを「コンプレックス商材」と呼ぶ。
本人が劣等感を感じるところにつけ込む商材で、扱うのは相場の10倍以上の金額、1点70〜100万円といった額だった。
なぜそうした商材を扱うのかと言えば、「だまされたと気がついても、恥ずかしいから誰にも相談できない」よさがあるからだという。

だが、そうした商材をどのようにして販売や契約まで結びつけるのか。
尋ねると、福岡氏は「コツがあるんですよ」と解説をはじめた。

お茶が出る仲になってからが本番

入り口は完全な飛び込み営業で、高齢者がいそうな家を見定め、声をかける。
当然、反応はよくないが、それにめげずに、ていねいに会話をつなぐ。
嫌がられても「サンプルだけでも」「たしかに疑いますよね」などと言葉を重ねる。

ただし、その初日に「結果」を求めることはしない。
自分の名前や顔を覚えてもらうにとどめ、さっさと帰る。
そして、数日後にまた訪ねていき、そこからが腕の見せどころとなる。

「背中を見せて、働くんです」

どういうことかと言えば、営業の話は最低限に控え、黙って高齢者宅の役に立つことをするのだという。

もし自家用車洗剤なら、車を洗い、ワックスをかけ、さらに駐車場や門も綺麗にする。
食器洗剤の場合はフライパンを磨き、ガス器具や換気扇を磨き、キッチン回りをピカピカに仕上げる。
また、溜まった新聞を捨てに行ったり、掃除をしてあげたりすることもある。
要は、高齢者が日頃やっていないことや困っていることをしてあげる。
そして、笑顔だけ見せて帰っていく。

「これは自分が勝手にやったこと。
だから、恩着せがましく『綺麗にしておきましたからね』『捨ててきました』とも言い添えない。
作業には一切触れずに挨拶だけして帰る」

ふだんその高齢者がしたかったことを満たしてあげる。
そんな関係を築き、お茶が出るような仲になれば、そこからが本番だ。

「たとえば『この間熊本で地震ありましたよね』と時事ネタから入り、おばあさんの家の話につないでいく。
『ところで、この家、大丈夫なんですか?』と」

相手が会話に乗ってきたら、「友人が無料で耐震診断をしてるんですよ」ともちかける。
そこで仲間を連れてきて、決して「お友達価格」ではない耐震補強の契約につなげていく。

相手にノーと言われても、「無理強いはしないのがコツ」とも語る。
「一度に大金をせしめるやり方もありますが、細く長く利用してもらうという考え方もある。
老人の顧客が十数人いれば、ルート販売のようにまわっていくだけで、いろんな商材で稼げる。
化粧品や洗剤など消耗品がなくなる頃にまた顔を出す。
掃除をして話し相手になって犬の散歩もして買い物に行って、ついでに銀行に寄ってね」。

そこで残り資産も確認できるという。
高齢者に信頼されてこそ、できる方法だ。
こうした方法で、福岡氏は1人あたり数百万円といった額の商売をする高齢者の顧客を、数百人は抱えていた。
中には、認知症らしき人もいたが、「法に触れることはしていない」という。
ただ、「ふつうよりちょっと高い商品」をサービス付きで売ってきただけのこと。
そう福岡氏は主張する。

「いろんな商売の仕方があるわけです。
モノが高くても、おばあさんも喜んでくれていれば、いいんじゃないですか。
こちらも奉仕していますしね」

一般市民が“法的に”高齢者を支える仕組みも

2016年4月8日、成年後見制度利用促進法が成立、それに関連する民法も一部改正された。
従来の成年後見人は親族のほか、弁護士や司法書士などの法律専門職がなるケースが多かったが、この新法は、一般市民が一定の研修(案では50時間以上)を行えば、後見人として活動できるようになる「市民後見人制度」の拡充を図るものだ。

財産や人権といった重要事項を、血縁などの関係のない一般市民が後見人として扱える、という大きな法改正が行われたのは、今後の高齢者の急増を考えると、いまから対策をとっておかねば間に合わないという焦りが行政側にあるためだ。

東京都では高齢者の一人暮らしが多い。
2010年には65歳以上の都民の4人に1人にあたる62万人が一人暮らしだったが、25年後の2035年には104万人に達する。
65歳以上の夫婦のみの世帯も合わせると、推計で170万世帯を超える。

都の「東京都長期ビジョン」では、2024年までに高齢者の消費者被害防止のために見守りネットワークを全市区町村に構築することを構想している。
こうして高齢者の消費者被害防止に取り組むのは、前述の池本弁護士の話にもあるように、お年寄りは、拒絶能力が低下するにつれて必要のない購入や契約をしてしまう可能性が高まるためだ。
認知症であるなしにかかわらず、その消費が妥当なものか周囲が注意して見守る必要があると都も考えている。

「市区町村ごとに高齢者への『見守りネットワーク』はあり、機能しています。
ただ福祉部門に特化しているケースが多数です。
今後は、その福祉部門と訪問販売などの消費者被害を扱う部門との連携を強化していく方針です」(東京都消費生活総合センター相談課)

都が懸念するとおり、あの手この手で高齢者をだまし、高額商品や高額契約でお金を引き出そうとする詐欺的手口の業者は、より狡猾になっている。
そして問題は、そうした業者の中に、一部上場企業など著名な企業も交じりだしていることだ。

有名企業でも油断は禁物

著名な証券会社が売りだした複数の投資信託に、読みきれないであろう複数の新聞購読契約、同様に観賞しきれないだろう有料衛星放送の複数契約。
売り手はどれも有名企業だ。
商品・サービス自体、違法なものではない。

だが、購入・契約する「買い手」が80代以上の女性となると、話は変わってくる。
前述の池本弁護士の指摘のように、拒絶能力が低下した高齢者は、認知症でなくとも、業者の押しを拒みきれず、受け入れてしまう。
すると、本当にその商行為が本人の意思に基づくものだったのか疑わしく映るものが少なくない。

そんな一つに、大手生命保険会社の終身保険のケースがあった。
じつは前出の大手メディアに勤めていた老婦人は、掛け金600万円という終身保険に入っていたが、その死亡時の受取人は無記名のままだった。
つまり、親族のないその女性が亡くなった際、その保険金の受け取り手は誰もいなかったのである。

契約書を開くと、老婦人の自筆サインと印鑑が確認できた。
また、当初契約からたびたび組み替えられていた形跡もあった。
だが、どういう形であれ、受け取り手もいないのに終身保険をかける人はいないだろう。

担当した川口純一司法書士は、契約書を見つけると保険を解約すると同時に、当時の担当者を探してもらうよう、同生保に調査を依頼したが、担当者はすでにいなくなっていた。

「あれは担当者個人の考えだったのか、会社の方針もあったのか。
それはわかりません。
ともかく、解約で戻った600万円を婦人の老人ホームの一時金に充当しました」

こうした高齢者をターゲットにしたビジネスには、今後ますます注意する必要があると川口氏は指摘する。

「ふつうの会社のふつうの外回り営業職の中に、高齢者を巻き込む人たちが増えてきたということです。
それは悪いものというわけでもない。
しかし、その人にとって本当に必要かどうかで言えば疑問となる。高齢者向けのビジネスをどう評価するのか、今後ますます難しい問題が出てくるかもしれません」

ひとつ数千円の野菜、数万円の食品でも、「からだにいい」「おいしい」「よかった」と本人が納得すれば商行為として成立する。
商品の内容はわからなくても、「いい人」だから、「話を聞いてくれる」から買ってあげる人付き合いもある。

そんな「ふつうよりちょっと高い商品」を高齢者に販売する商売が広がりだしている。

岩崎大輔(いわさき・だいすけ):
1973年、静岡県生まれ。
ジャーナリスト、講談社「FRIDAY」記者。
主な著書に『ダークサイド・オブ・小泉純一郎「異形の宰相」の蹉跌』(洋泉社)、『激闘 リングの覇者を目指して』(ソフトバンククリエイティブ)、『団塊ジュニアのカリスマに「ジャンプ」で好きな漫画を聞きに行ってみた』(講談社)など。

行政側は、どのくらいこうした実態を把握し、対策をたてているのでしょうか?

一人暮らしだと、人から親切にされるだけで親近感を覚え、無防備にガードを開きがちになるようです。

それにつけこむ悪徳業者、こうした図式がわかっていながら、被害が防げないのも現代社会の特徴かもしれません。

「金目当ての親切」なのか「善意の親切なのか」、その違いは、お金が介在するかどうかです。

そこでお金が絡んできたら、すかさず「金目当てだろう!」と相手に煙幕を張っておくのも自己防衛なのかもしれませんが、他人の善意が信じられなくなる、そうなると余計住みにくい社会ということになりそうですね。

では、6-4生まれの有名人です。

1975年アンジェリーナ・ジョリー (米:女優『トゥームレイダー』)。

歌はイマイチだけど、このアレンジはうまい!
後藤真希 - サン・トワ・マミー 
セコイマスゾエのお話です。

舛添知事所信表明 
荒れる議場 「辞めろ」飛び交う罵声
産経新聞 6月2日(木)
 ■傍聴席満杯、都民「納得できない」

 都議会の議場が荒れた-。
東京都の舛添要一知事の1日の所信表明。
険しい表情で何度も頭を下げたが、疑惑への直接的な説明は一切なく、自らに向けられた疑念の払拭には至らなかった。
「辞めろ」「説明になっていない」。
議場には罵声が飛び交い、これまで様子見を決め込んでいた自民、公明も追及姿勢を鮮明にした。
集中審議の実施も現実味を帯びる中、舛添氏を取り巻く“包囲網”は着実に狭まっている。

 「ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありません」。
都議会の本会議場で所信表明に立った舛添氏は冒頭、海外出張で航空機のファーストクラス、ホテルのスイートルームを使わない方針などを明らかにし、陳謝した。

 表情は神妙だったが、手元の資料をめくりながら頭を下げるなど、反省の一方、言葉をスムーズに続けることに注力する姿勢がうかがえた。

 舛添氏は5月27日の記者会見で一連の問題について「都議会に納得いただけるような説明をするつもりでおります」と力説していたが、所信表明では具体的な説明のないまま「批判を心に刻む」「深く反省」などと謝罪を繰り返した。

 2020年東京五輪・パラリンピックに向けた意気込みなどを述べる舛添氏に対して、議員席からは「説明していない」「先のことを言う資格がない」「都民は許さないよ」などのやじが飛んだ。

 約25分間の所信表明のうち、問題に言及したのは約2分半。
本会議終了後、退席をする舛添氏には、それまで静かだった一般傍聴席から「辞めろ」「(知事選で舛添氏を支援した)自民と公明はしっかりしろ」などの言葉が出た。

 議会局によると、昨年の6月議会の初日は一般傍聴人が40人足らず。
この日は約5倍にあたる190人分の傍聴券が配られ、満席状態となった。

 選挙で舛添氏に投票したという中野区の無職、飯島和義さん(63)は説明が聞きたくて、議会を傍聴した。
「疑惑について回答せずにおわびされても納得できない」と憤り、「僕らは傍聴席からにらむことしかできない。都議にはしっかり正義を貫いてほしい」と述べた。

 世田谷区の会社員、巽一郎さん(55)は「正々堂々と包み隠さず話してほしかった。都民の信用を失っているので、すみやかに辞職してもらいたい」。

 舛添氏は本会議後、報道陣の取材には応じず、硬い表情のまま「所信でしっかり述べたので、これ以上は…」と語り、立ち去った。

会議の冒頭で、「海外出張で航空機のファーストクラス、ホテルのスイートルームを使わない方針」を表明したそうですが、従来の説明では「頭と体をスッキリさせなければいい仕事は出来ない」として今後も使い続ける意向だったわけですよね。

ってことは、この説明で、「今後はいい仕事はできませんが、節約します」という方針に変わったということですかね。

これで、逃げ切れると思っているのなら頭悪すぎですね。

もう少し頭のいい知恵者なら、「今後とも、海外出張のファーストクラス&スイートルームは使いますが、都の出張規定との差額は自己負担にします」、もちろんこういえば、当然今までの余分な費用を返せといわれる可能性が高いので、さらに「けじめをつけるため、従来の差額も精算します」と重ねていえば、この件は逃げ切れたかも・・

まあどちらにせよ、一番都民が望むことは、意味の無い海外出張はしないで欲しいということなんですけどね。

さらに最も、解せないのはマスゾエを都知事候補に担いだ自民・公明党都議が「百条委員会」を避ける行動です。

「まさか、こんなケチでセコイ人物だとは思わなかった」と早めに見切りをつければ、まだ傷は浅いうちで済んだのに、公認の責任を追及されるとのわけのわからない理由で、マスゾエを間接的にかばい続けた結果、彼らも完璧にマスゾエ一味とみなされています。

公認候補自身のプライベートな問題や資質は、事前に確認しようがない面もあり、今回のようなケースはある意味仕方がありませんが、都民からそっぽを向かれた知事を後生大事に奉ってきたのは、やはり先見の明があるとはいえません。

つまりは、マスゾエのような都民から総スカンを食っているダメ政治家を一発退場させられない現状こそ、まさに日本の危機的な状況なのかもしれません。

話はずれますが、今なお多くの問題を抱えている最近の安倍内閣の支持率が上がったのも、意味不明です。

こうした政治力学に流されて冷静な現状分析&改善もできない政治家たちが現在の行政を担っているわけですが、それで良しと評価してしまう国民もやはり同類、同罪なのでしょうね。


次の話題も不可解です。

「凍土壁」凍らず、セメント系注入決定 福島第1原発で規制委
産経新聞 6月2日(木)

 原子力規制委員会の検討会は2日、東京電力福島第1原発の汚染水対策で、建屋周辺の土壌を凍らせる「凍土遮水壁(とうどしゃすいへき)」が完全に凍結しないため、周辺にセメント系の材料を注入する東電の計画を了承した。
運用開始から2カ月が経過しても汚染水抑制の効果が見えず、追加工事が必要と判断した。
東電は近日中に工事に着手する。

 東電によると、凍土壁周辺の地中温度は測定箇所の97%で0度を下回ったものの、1号機北側、東側と4号機南側では7・5度を超え、凍らない箇所が複数残った。
石の多い地層で水が流れやすくなっていることが原因とみられ、工事で隙間を埋め凍結を促進する。

 規制委は、海側から段階的に進める凍結範囲の拡大について、地下水位の急激な変化などのリスクが小さいことから、山側の95%まで凍結する次の段階への移行も了承した。

なんで効果のわからないこの方法のみに固執するのでしょうか?

それにしてももう少し、簡単でまともな対策はないものでしょうか、ねえ。


最後は、スポーツです。

<男子バレー速報>日本、豪州にストレート負けでリオ五輪出場権逃す!
THE PAGE 6月2日(木)

 男子バレーのリオ五輪出場権をかけた世界最終予選の第5日が2日、東京体育館で行われ、日本は豪州にセットカウント0-3のストレート負け。
これで通算成績が1勝4敗となり残り2試合をそれぞれストレートで勝利してもセット率で4位以上を確保することができなくなり、リオ五輪出場権を逃した。
日本はロンドン五輪に続き2大会連続で五輪出場を果たすことができなかった。

 序盤から豪州の高さに苦しんだ日本は、セットの終盤に右膝を痛めスタメンを外れていた柳田がサービスエースを決めるなどしたが、重要な第1セットを23-25で競り負けた。
 第2セットは流れを変えようと、22歳のセッター関田でスタートを切ったが、途中エースの石川が右足首を痛めて治療のためベンチ裏に下がるアクシデント。
一気に得点源を失った日本は、豪州のエース、エドガーに連続で強烈なサービスエースを許して13-18と大きく点差を広げられた。
石川は、治療後、足を引きずってコートに戻ったが、流れを取り戻すことができずに19-25で失った。

 もう後のなくなった日本だが、第3セットは足を痛めた石川がスタメンを外れた。
再びセッターを深津に戻して石川に替わり柳田がスタートからコートに立ったが、豪州の高さに対抗することができずブロックが機能しない。
それでも柳田のターゲットを絞ったサーブや、スピードを生かした攻撃で食い下がり、米山のサービスエースで中盤には、16-15で逆転。
清水のサーブで豪州の守備陣を崩してリズムを奪い、21-18と3点差までリードを広げたが、ベテラン、キャロルのスパイクで23-23と同点に追いつかれ、ジュースにもつれこむ大接戦の末、27-29で敗れた。
このセット、石川はコートに立てなかった。

 試合後、南部監督は、「選手は力の限り戦った。結果がついてこなかったわけですが、あと2試合、まだまだ可能性のある日本男子という姿を見せて終えたい」と、淡々と敗戦の弁。
 キャプテンの清水は、時折、言葉につまりながらも、「ここまでやってきて……いい形も、いいバレーもできたんですが、最後は力及ばなかった。本当に悔しかったです。でも、まだ試合が続くので、一生懸命、頑張って、日本らしいバレーができるように、次につながるように頑張りたい」と言葉を搾り出した。

 足を痛めて最後はコートに立つことができなかった石川の目は赤かった。
「試合に負けたので、(リオ五輪の)出場権も獲得できなかったので、すごく悔しいです。
試合はまだあるので、次につながるようにやっていくしかないです。
凄く悔しいですが、切り替えてやるしかないと思います。
もっとこうしておけばは、いい訳にしかならない。もっと実力を、力をつけるしかないと思う」
 鎮痛な空気が流れていた。

残念な結果ですが、もしこのチームが万が一リオ五輪に出場できていたとしても、今の実力では試合にもならない状態だと思われますので、これでよかったのかも。

ただ今日の試合くらいサーブが入っていれば、もう少し結果は違っていたかもしれませんが後の祭りです。

早い段階で修正できなかったのも、実力の内ですから。

こうなれば、女子に男子の分まで頑張ってもらいましょう!


では、6-3生まれの有名人です。

1870年阪田三吉(将棋棋士)、1886年石坂泰三(財界人,東芝社長,経団連会長(2代))、1925年トニー・カーティス (米:俳優)、1930年マリオン・ジマー・ブラッドリー (米:SF作家)、1987年長澤まさみ(女優)。

歌謡曲、名曲シリーズ。
松浦亜弥 - 風信子 [ヒヤシンス]