選択肢が増えるのはいいことです!

<米大統領選>「第三の候補」浮上 
2大政党候補好感度低く
毎日新聞 5月30日(月)

 【ロサンゼルス長野宏美】米大統領選で共和、民主両党以外の選択肢として注目されている小政党「リバタリアン党」は29日、フロリダ州の党大会で、ゲーリー・ジョンソン元ニューメキシコ州知事(63)を大統領候補に選出した。

 11月の本選で対決が予想される共和党の実業家ドナルド・トランプ氏(69)と民主党のヒラリー・クリントン前国務長官(68)は好感度の低さが際立ち、「第三の候補」を望む声が高まっている。
こうした不満を受け皿に、第三党が選挙戦に影響を与える可能性がある。

 リバタリアン党は1971年結党。自由至上主義で、市場経済や個人の自由を尊重する。
政府の役割を縮小する「小さな政府」を唱える点では共和党に近く、人工妊娠中絶や同性婚などに寛容な点は民主党に近い。

 ジョンソン氏は95~2003年にニューメキシコ州知事を務めた。
12年の大統領選で共和党の指名争いに出馬し、その後、リバタリアン党にくら替えして党の指名を獲得したが、得票率は1%以下だった。

 同党は大統領選で1%以上の票を得たことがないが、FOXニュースが18日発表した世論調査の支持率では、トランプ氏の42%、クリントン氏39%に続き、ジョンソン氏も10%を獲得した。
NBCテレビとウォール・ストリート・ジャーナル紙の調査(19日)では、第三の候補への投票を「検討する」と答えた人は47%で、12年の40%、08年の38%を上回った。

 米国では現在の2大政党制が確立した20世紀以降、第三党から大統領は出ていない。
だが、92年の大統領選で実業家のロス・ペロー氏が無所属から立候補して約19%の支持を獲得。
共和党のジョージ・ブッシュ大統領(父)の票を奪い、ビル・クリントン大統領の誕生につながる一因になったとされる。

トランプ候補よりはまし!?

いや、かなり危険な思想のようです。

リバタリアン党(Libertarian Party)は、リバタリアニズムを奉じるアメリカ合衆国の政党である。

1971年、ノーラン・チャートで有名なデイヴィッド・ノーラン(英語版)によって結成。
初期には無政府資本主義の創始者として有名なマレー・ロスバードらも参加した。
自由主義者党、自由党などとも訳される。
中国語では「自由意志党」の名称で届出をしている。

理念:
自己決定権を尊重する気風の強いアメリカにおいて、自己決定権擁護の最右翼を自認する。
ただし政府の完全な廃止を首尾一貫して追求する純正リバタリアン(Libertarian Purists)だけではなく、部分的に方向性を共有するに過ぎない最小国家主義者や古典的自由主義者、保守主義者なども在籍している。
ただし、2008年大統領選の指名候補争いにも立候補した無政府資本主義者のメアリー・ルワート(英語版)は「原理を支持する人々の明らかな勝利にも関わらず、数十年の間に、党は徐々にその理念から離れている」と警告した。

党の中心的な理念としてロック的所有権理論を採用する。
これは、すべての個人に自身の身体を所有する権利があること、すべての個人は他人よりも先行して自身の身体を使用できることを確認した上で、「労働を混ぜ合わせる」ことにより、自然の状態から取り除いた物質的な資源を自身の財産として所有できるとする理論である。
そして、いかなる個人もその他の個人の身体や正当に所有された物質的な財産に暴力を開始してはならないとする不可侵原則を置く。

政策:
政府による徴税は窃盗であり財産所有権の侵害であるとして一切認めない。
軍隊への徴兵も認めない。
税金で賄われる補助金や助成金の類も一切認めない。
あらゆる銃火器や弾薬の製造、販売、所有の規制も認めない。
犯罪と呼ばれることが出来るのはその他の人の権利[所有権]を侵害する行動だけであるとして、麻薬の生産、販売、所持、使用、最低年齢規制を含む一切のアルコールやタバコの摂取や販売、賭博、ポルノグラフィ、同性愛、児童性愛、近親相姦、猥褻な行為、淫らな言動、差別的言動、下品な行為、一夫多妻、乱交、自殺などの規制は一切認めない。

恣意的で主観的な線引きにより人間の自由意志と自己所有の権利を否定すること、そして本人の意思に反して保護を強制することは自己所有権の侵害であり、容認し得ない奴隷制であるとして、児童買春、児童ポルノやその他の児童労働の規制などの一切の子供の権利制限を認めない。
子供を特別扱いする法律や少年裁判所を認めず、子供にも彼らの行動の結果に対する完全な責任を認める。

税金で賄われた公立学校、公立大学は認めない。
物資的財産の所有権を超えたプライバシー権、人格権、知的財産権などの権利は認めない。
中央銀行は認めない。
政府による道路、警察、司法、軍隊の独占も一切認めない。
公的年金制度は認めない。国民皆保険などの社会保障制度も一切認めない。
免許制度などによる業務の独占も一切認めない。
最低賃金やその他の労働条件の規制も認めない。
積極的差別是正措置は認めない。
強姦罪などの女性を特別扱いする法律は廃止し、単に身体暴行罪を適用すべきとする。

党勢:
アメリカでは二大政党が政治家のポストをほぼ占めているが、それに続く規模の政党の一つである。

1972年大統領選:
結党間も無い1972年大統領選に大統領候補ジョン・ホスパーズ(英語版)と副大統領候補セオドーラ・N・ネイサン(英語版)で出馬、全米での得票は3,674票に止まったものの、選挙人団投票で共和党から選出された選挙人の一人が造反して票を投じた。
これはリバタリアン党唯一の得票でもあると共に、女性が勝ち取った初の選挙人団投票でもあった。

2016年大統領選:
2016年大統領選に際しては、2012年大統領選挙に続き元ニューメキシコ州知事のゲーリー・ジョンソンが大統領候補に指名され、元マサチューセッツ州知事のウィリアム・ウェルドが副大統領候補に指名された。
両者ともかつては共和党に所属しており、特にウェルドは指名を得る直前まで共和党員だった。
(ウイッキペディア)

ううん、これを読む限り、無政府主義で外交も徹底したモンロー主義のような感じになるのでしょうか!?

だとすれば、トランプ候補のほうがマシに見えてきます。

2大政党の候補者争いの間隙を縫って、新たに登場したリバタリアンですが、漁夫の利はよし子さんでお願いしたいものです。


続いては、こちらは漁夫の利ではなく、実力で勝ち取りました!

佐藤天彦八段、将棋の新名人に 
4勝1敗で羽生名人破る
朝日新聞デジタル 5月31日(火)

 山形県天童市の天童ホテルで指されていた第74期将棋名人戦七番勝負(朝日新聞社、毎日新聞社主催、大和証券グループ協賛)の第5局は31日午後6時44分、挑戦者の佐藤天彦八段(28)が羽生善治名人(45)に100手で勝ち、通算4勝1敗でタイトルを奪取した。
佐藤挑戦者は、初のタイトル獲得で将棋界の頂点に立った。

 佐藤挑戦者は福岡市出身。
2006年のデビュー以来、好成績を挙げ続けてきたが、ここ数年で急成長。
昨年、王座戦でタイトルに初めて挑戦し、今年は棋王戦にも挑んだ。
名人戦の挑戦権を争うA級順位戦では8勝1敗で優勝。
A級昇級後にすぐ挑戦し、奪取するのは史上3人目の快挙だ。

 名人の座に就くのは戦後13人目。
20代の名人誕生は、00年の丸山忠久九段以来16年ぶりとなる。
羽生名人は23歳で初めて獲得している。
佐藤挑戦者の師匠の中田功七段は大山康晴十五世名人の弟子だ。
新名人は、大名人の系譜を受け継ぐことになる。

 敗れた羽生名人は、王位、王座、棋聖の三冠に後退した。(村瀬信也)

 〈佐藤新名人の話〉 
一局一局大変な勝負だったが、今の自分の力は出せた。
一つ一つ積み重ねて、いい結果が出せたのはよかった。
名人は大きな立場だが、挑戦する気持ちを忘れず、これからもチャレンジしていきたい。
歴代の偉大な先生方に少しでも近づければ。

まさか、こうもすんなり名人位を奪取するとは驚きです!

佐藤さんは若い割に物腰も落ち着いており、名人としての風格もバッチリです。

さて、このまま羽生さんの時代は終焉を迎えてしまうのか!?

目が離せません。


続いては、男子バレーの結果です。

日本2敗目…世界2位ポーランドにストレート完敗
スポニチアネックス 5月31日(火)

 バレーボール男子のリオデジャネイロ五輪世界最終予選兼アジア予選第3日は31日、東京体育館で行われ、2大会ぶりの五輪切符獲得を目指す世界ランキング14位の日本は同2位のポーランドと対戦。
セットカウント0―3のストレート負けで2敗目(1勝)を喫した。
ポーランドは3連勝。日本は6月1日の第4戦で2勝1敗のイランと対戦する。

 福澤達哉、山内晶大の2人を起用し、29日の中国戦から先発2人を入れ替えた日本。
第1セットは序盤は14年世界選手権覇者のポーランドと互角の戦いを演じていたが、11―13から4連続失点。
18―22からエース石川祐希のサーブで2点差まで迫ったものの、このセットを22―25で失った。

 続く第2セットは福澤に代えて柳田将洋を入れ、セッターも関田誠大を起用。
2―2から3連続ポイントを奪い主導権を握ったが、10―7からまさかの9連続失点。
逆転を許し、さらに大きく引き離されてしまう。
その後は柳田のサーブポイントなどで4連続得点して2点差まで迫ったが、そこから今度は6連続失点。
地力に勝るポーランドに16―25で押し切られた。

 後がない第3セットは序盤から僅差の競り合い。
日本は6―6で並んだ後は常にポーランドにリードされたまま、18―22から3連続ポイントを奪い1点差に迫る懸命の粘りも及ばず、最後は25―23で振り切られた。

 ▽男子バレーボールのリオデジャネイロ五輪への道 
予選は8チームの総当たりで争う。
日本は(1)アジア4チーム中トップ(2)その他7チームのうち上位3チーム、に入れば出場権を獲得できる。
五輪出場国は12カ国で、既にブラジル、ロシア、イタリア、米国、アルゼンチン、キューバ、エジプトが出場を決めている。
また、世界最終予選メキシコ大会(6月4~6日)でもう1チームが決まる。

まあ、格上相手ですので負けるのは仕方がありません。

が、第3セットの負け方に問題がありました。

1点を争う終盤の競い合いの場面で、2枚替えをした日本チームのベンチワークの初歩的ミスが発生。

痛恨のアウトオブポジションの反則。

アウト‐オブ‐ポジション(out of position):
六人制バレーボールで、ポジションやローテーションが正しくないこと。
多く、サーブ時に選手が正しい守備位置にいないこと。
サーブ権を得たチームは、各プレーヤーが右回りにポジションを一つずつ移動して、前衛右端の選手が後衛右端に移ってサーブを行うが、その順番が守られていない状態をいう。
反則となる。ポジショナルフォールト。
(デジタル大辞泉の解説)

緊張感がたりないのか、気が抜けたのかわかりませんが、ベンチサイドが追い上げムードに水を差すのでは話になりません。

しかし、あれだけ、スタッフがいるのに誰も気づかないのかなあ?

中学生バレー並みで恥ずかしい!


最後は、音楽の話題です。

角松敏生さんは、7月2日に横浜アリーナでなんと、35周年(!)コンサートを開くそうです。

角松 敏生(かどまつ としき、1960年8月12日 - )は、シンガーソングライター、ミュージシャン、音楽プロデューサー。
東京都渋谷区代々木出身。身長169cm。
血液型A型。愛称は「角さん」「角松」「敏生さん」等。

1981年、20歳でプロデビュー以来、約30年に亘りシンガーソングライターとして自身の名義による多くの作品を発表し、例年の全国ツアーなどライブ活動もしている。
その傍ら、1980年代半ばから杏里や中山美穂といった他アーティストへの楽曲提供と、それに伴う音楽プロデューサー業も手掛けている。
1997年、長万部太郎名義でのバンド活動およびプロデュースした「WAになっておどろう」(AGHARTA(アガルタ)とV6が同時期にカバー)が一般的に知られる。
他アーティストへのプロデューサー業で数々のヒット曲を生み出したのに比べ、本人名義としては一般的な認知を得られるほどのヒット曲を持っていないことを自身でかなり気に掛けていて、今後の目標のひとつにその達成を掲げたいと、近年はライブのMCやインタビューなどで表立って言及している。

発表する曲は海・夏・リゾートを連想させる曲(特に初期)や中期以降では深遠な恋愛観・精神世界・喧騒な夜の都会を連想させる曲が多い。

乱視が有り、青年時代からメガネを着用している。

出生 - デビュー:
東京都渋谷区に生まれ、8歳年上の兄が一人居る。
幼少時代には両親からの強要でピアノやオルガン教室に通っていたが角松自身はあまり乗り気では無かったと言う。
10歳の時にギターを始め当初は兄の手解きを受けながら練習していたが面倒臭がって途中から教えてくれなくなりギター関連の雑誌の簡単に演奏出来る方法の記事を参考にしながら練習していたと言う。
小学校6年生ではっぴいえんどを知り、1970年代半ばの中学から高校時代にかけて、はっぴいえんどからそれを継ぐティン・パン・アレー関連の日本のロック&ポップス、アメリカ東・西海岸でムーブメントが起き出したフュージョンにリアルタイムで傾倒。
それらに影響を受けたバンドを作って音楽活動を始める(この頃から担当はヴォーカル&ギター)。
そして、日本大学文理学部哲学科在学中に作成したデモテープがきっかけで1981年にシングル「YOKOHAMA Twilight Time」とアルバム『SEA BREEZE』でデビューする。

デビュー当初は、所属レコード会社・RVC(RCAビクター、RCA Victor Corporation)の意向で、当時大瀧詠一や山下達郎のブレイクで盛り上がり、巷で流行していたリゾート感覚を取り入れたシティ・ポップスの音楽スタイルを採った。
しかも、1作目ではアマチュア時代から敬愛していた日本の一流スタジオ・ミュージシャンをバックに、その10か月後にリリースする2作目のシングルおよびアルバムはアメリカ・ロス録音で当地の一流ミュージシャンをバックにした豪華絢爛な作りのものとなった。
ただし、これら2作は共に作詞・作曲はすべて角松自身によるもので収められたものの、編曲やプロデュース権は与えられず(また、何もかも初めての経験のスタジオ録音作業がどういうものかを学びながら作っていったため)、自身としては必ずしも思うような作品作りは出来なかった。
さらに、大規模なプロモーションを掛けたわりには、それに見合ったヒットは適わず、商業的成功を収めることも出来なかった。
話題性を狙ったレコード制作及びそのセールス・プロモーションで活動拡大を図りたかった所属事務所側は角松の扱いに窮し、バンドを組んでのライブハウス出演など草の根的なライブ活動をしたい自身との活動方針の相違もあって、この後に所属事務所を移籍することになった。

ブレイク:
一方で角松の才能を評価していた所属レコード会社は、引き続き作品制作するよう支援していく。
そして、音楽的な路線は前2作の延長でありながらも、初のセルフ・プロデュースやセルフ・アレンジとなる3作目『ON THE CITY SHORE』をリリース。
本作からの先行シングル「スカイ・ハイ」は初めてタイアップとしてSchickの男性用安全剃刀(ひげ剃り)のテレビCMソングに採用された。この曲は自身にとっても代表曲となり、ライブでも定番曲として取り上げられているほか、CMでも以後3年にわたって使われた。
学園祭やライブハウス出演など地道な活動も功を奏して、アルバムはオリコンチャート最高位21位を記録。
それまでオリコンチャート圏外だった1・2作目以上に好調な売れ行きを示し、初のホールコンサートも敢行するなどして活動が軌道に乗り始めていく。
また、最初の所属事務所から移籍する前、杏里のラジオ番組にゲスト出演した際に彼女と意気投合したことから、自身初の楽曲提供から始まり、それが縁となって杏里の所属事務所・マーマレードに移籍となり、自身の歌手活動と併行して杏里のアルバムへの楽曲提供とサウンド・プロデュースも手掛けるようになる。
そして1983年、杏里がシングル「CAT'S EYE」をヒットさせた直後、『「CAT'S EYE」の一発だけで終わらせずに、それに続くヒット曲を』という至上課題のもと、「悲しみがとまらない」をプロデュース。
チャート的には「CAT'S EYE」を凌げなかったものの、連続ヒットを記録。
後年、プロデュース活動の側面を検証する上で欠かせない曲となった。

それらの成功をバックに角松は、デビュー以来の夏や海といったリゾート感覚のシティ・ポップス路線から離れ、自身の音楽的趣向であったダンス・ミュージックやニューヨークのミュージック・シーンで流行る最先端のファンクに傾倒していく。
その曲調に合わせて歌詞のテーマも次第に夜の街へと移り、1983年に12インチ・シングル「DO YOU WANNA DANCE」、続く1984年のアルバム『AFTER 5 CLASH』で、その世界を示した。
商業的成功は続き、角松はこの路線に自信を深めて追求していく。
そして、杏里の仕事で得た印税を使ってニューヨークへ長期滞在するようになり、現地での流行をいち早く取り入れた音楽活動を行うようになっていった。
7&12インチ・シングル「GIRL IN THE BOX」や代表作となる1985年のアルバム『GOLD DIGGER』は、ターンテーブルによるスクラッチやラップがいち早く取り入れられた。
1980年代半ば、アルバムは発売ごとにチャート上位にランクされ、全国を縦断する大規模なコンサートツアーも出来るようになった(特に都市部では複数公演を敢行するも発売即ソールドアウトを引き起こすほどの人気となる)。
しかし、商業的成功の黄金期とも言えるこの時期、アルバムやコンサートの動員の成功に比べ、シングル・ヒットには恵まれなかった。
その一因として、コンスタントにシングル曲は出すものの、プロモーション戦略でテレビの歌番組に出演することを避けていたため、たとえタイアップ曲であっても、どうしても世間一般への浸透が進まなかった。

1980年代後半:
音楽プロデューサー業も拍車が掛かり、それまでの杏里以外にも手掛けるようになる。
絶頂期であった中森明菜のアルバム『BITTER AND SWEET』に楽曲提供および編曲もしたほか、その音楽性を買われてアドバイザーとしても加わったり、所属レコード会社で自身と同じ担当プロデューサーだったのが縁となって請け負った西城秀樹のアルバム『TWILIGHT MADE …HIDEKI』に自身が敬愛する吉田美奈子を迎えてコラボレーションしたり、お笑いグループで認知度があったジャドーズの本気の依頼に応え、和製ソウルファンクバンドとしてデビューアルバム『IT'S FRIDAY』ならびにデビューシングル「FRIDAY NIGHT」から数作にわたって全面的に関わった。

なかでも中山美穂へのプロデュースは“音楽プロデューサー・角松敏生”にかつてない成功をもたらした。
まず最初の関わりであった1986年のアルバム『SUMMER BREEZE』に三曲提供し、その中のバラード曲「You're My Only Shinin' Star」が彼女本人が好んでいた曲であったことからライブでも頻繁に歌われるようになる。
翌1987年、当時流行りのユーロビートを反映させたシングル曲「CATCH ME」は彼女にとって待望のオリコン1位を獲得。
引き続いて角松のもはや看板であるダンス&ファンク・ミュージックを全面に押し出したアルバム『CATCH THE NITE』をフルプロデュース。
その発売時、1988年2月22日付けのオリコンのアルバム・ランキングにて、このアルバム『CATCH THE NITE』が1位、同時期に発表した自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位で、1・2フィニッシュを飾るなどいまだ他の誰もが成し得ていない偉業を達成した。
そして、『CATCH THE NITE』レコーディングと同時にリテイクされた「You're My Only Shinin' Star」はシングルとして発表され、「CATCH ME」に続いてオリコン1位を獲得したばかりでなく、この年の第30回日本レコード大賞金賞受賞曲となって彼女の代表曲となり、2001年には彼女がベストアルバム『YOUR SELECTION』をリリースするにあたり、収録曲を決める為にホームページ上で行った投票ではシングルA面曲で1位になっている。

また、この時期から歌ものの作品以外に、自らの音楽的ルーツのひとつであるフュージョンを基調としたインストルメンタル作品を手掛けるようになっていく。
1987年、初の試みとして自らのギタープレイをフィーチャリングしたアルバム『SEA IS A LADY』を発表。
日本のフュージョン・シーンは沈滞化していたものの、角松の絶頂期ともあって商業的成功を収めた。
このアルバムには自身のバック・バンドの面子の他にも、村上ポンタ秀一や斉藤ノブなどフュージョン・ブーム時に活躍し、またスタジオ・ミュージシャンとしても確かなキャリアを持つ彼らをリスペクトして起用した。
アルバム参加メンバーでのライブ・ツアーも行われ、これがキッカケとなり、斉藤ノブはNOBU CAINEを結成。
そのデビューアルバムを角松がプロデュースすることにも至った。
これらミュージシャンをクローズアップした活動により、1982年以来、自身のバックバンドのベーシストであり、NOBU CAINEにも参加した青木智仁が頭角を現すようになり、1989年にはやはり角松プロデュースのもと、フュージョンを主体にした初のリーダーアルバムを作る。
以降、青木は角松のバックバンドやレコーディングに引き続き参加しながらも、その傍らで自身がリーダーとなったフュージョン系のセッション・ライブを行うようになっていったり、堀井勝美プロジェクトやDIMENSION、本田雅人などの他アーティストのアルバム制作やライブにも随時参加。
1990年代から他界する2006年まで、フュージョン・シーンにはなくてはならない人物の一人であった。

凍結宣言:
1988年、多方面にわたる音楽活動の成功を背景に、デビュー以来の所属レコード会社のなかに私設レーベル「オーン」を作り、自身の歌唱によるオリジナル作品のほかに、前述のNOBU CAINEや自らの名義および関連アーティストのインストルメンタル作品を“サマー・メディスン”シリーズとしてトータル的にプロデュースを手掛けていく。
また、自身のアマチュア時代から憧れていたミュージシャンをリスペクトした活動も頻繁となっていき、村上ポンタ秀一、斉藤ノブの他、鈴木茂、佐藤博、外道といった1970年代からプロ活動している面々と音楽的交流を持つようになっていった。

充実した活動を行っていったが、1990年代初頭の作品から徐々に内省的な作品が増え、インタビューでも思想的・哲学的な内容の受け答えが多くなっていった。
そして、自身の音楽に対する絶望感を訴え、1993年の日本武道館公演をもって歌手活動の「凍結」を宣言し、無期限の休止となる。
FINAL CONCERT TOUR公演のMCで、「確かに非常にプライベートな事も引き金の1つにはなっている」と、歌手活動から撤退する理由として、(当時の)妻との離婚や女性関係での離別も一因であることを暗に認めているが、一方で当時、自らの歌唱についても行き詰まりを感じていたことをWEB掲載のインタビュー記事で吐露しており、公私に渡り、心身ともに限界であった事が窺える。
ちなみに同公演が収録されたビデオ映像(『TOSHIKI KADOMATSU 1993・1・27 FINAL CONCERT TOUR Vol.2』)には、「ガタガタ言ってないで、続けりゃいいんだよ!」という観客からの罵声に動揺し、苛立ちの余り「ふざけんな、コノヤロー」と叫び、モニタースピーカーを蹴りつける場面が映されている。

一時期は音楽業界からの引退も考えたが、所属事務所の説得で“歌手活動以外の音楽活動をしていく”というかたちで音楽業界に残ることを決断。
休止直後は、前述の武道館公演のビデオ編集、休止後初のアルバムとなったベスト・アルバム『1981-1987』では2枚組20曲中14曲に新たに手を加えるなど制作作業に没頭。
また、バックバンドのキーボーディストの友成好宏のソロアルバム『NATURAL SIGN』、同ギタリストの浅野祥之らが参加していたフュージョン系バンド、空と海と風と…のセカンド・アルバム『空と海と風と…2』、女性アーティストでは米光美保のアルバムを2作連続フルプロデュースしていくなど、他アーティストへの楽曲提供やプロデュース業も引き続き行い、休止前よりも多忙になっていた。
1995年、それまでの私設レーベル「オーン」に代わり、「iDEAK」を立ち上げるに至る。
同時期、新人ボーカリスト発掘プロジェクト、VOCALANDを立ち上げる。
仕掛けたのは、起業する前から角松のファンだったという松浦勝人で、松浦のレコード会社エイベックスで展開する。
時流に乗ったことで話題になり、アルバム『VOCALAND』もヒット。
それを受けて角松用にエイベックスのなかでavex ideakというレーベルが作られるも、エイベックス側の会社組織再編の影響を受け、1997年に終了する。

こうした多忙な音楽プロデュース業をこなしていくなかで、活動凍結前から考案していたという自らの存在を変名(長万部太郎=おしゃまんべ・たろう)で隠したAGHARTA(アガルタ)というバンド・プロジェクトを始める。
角松自身でヴォーカルをとるなどしていたが、“角松敏生”のキャリアとは全く違う音楽性であったことで、歌手活動凍結宣言は依然として貫かれた中での活動となった。
また、当初はメジャーからではなく、インディーズ・シーンからの口コミなどでのムーブメントを作ろうとした。
しかし、1995年、そのインディーズからのアルバム発売にあたって“角松敏生”の名が出てしまったため、即完売になるも、それは角松ファンに行き渡っただけで新たなファン層の開拓計画は失敗に終わる。
結局、買いそびれた人たちのためにiDEAKレーベルから1996年に再編纂したものが発売されることにもなった。
それでもAGHARTAの活動は継続させた。
そして1997年、NHK「みんなのうた」用に作ったシングル「ILE AIYE〜WAになっておどろう〜」が話題を呼ぶことになる。
V6によってカバーされ、翌1998年には長野オリンピックのテーマ曲として使用されるに至って、さらに反響を招く。
閉会式では視聴率30%の生中継でAGHARTAとしてライブ演奏を繰り広げ、それは世界へ配信放送されることにもなった。

解凍:
1998年に5年間のブランクを経て「解凍」を宣言、自身の歌手としての活動を再開。その後はほぼ年に1作のペースで新作をリリース、その度に新しい試みがなされている。

2002年、沖縄音楽やアイヌの民族楽器トンコリを取り入れるなど、民族音楽との「音楽的交易」にも取り組んだ「INCARNATIO」を発売。
2004年の「Fankacoustics」は、スタイルの異なる2組のバンド構成での2枚組CDとして発売、各バージョンでのLive Tourも全都道府県で敢行する。
2014年発売の「THE MOMENT」では、他アーティストでは滅多にないと思われる組曲を制作、収録している。

プロデュース活動:
杏里の「悲しみがとまらない」のスマッシュ・ヒットを皮切りに、中山美穂、ジャドーズらをプロデュース。
1988年2月には、オリコン・アルバム・ランキングにて、フルプロデュースした中山美穂のアルバム『CATCH THE NITE』が1位、自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位と、1・2フィニッシュを飾るなどいまだ他の誰もが成し得ていない偉業を達成している。
その他にも元BARBEE BOYSのKONTAや布施明、岩崎宏美、ジャッキーチェン、西城秀樹(『TWILIGHT MADE …HIDEKI』)のプロデュースなど、新人・ベテラン、および日本国外の有名人を問わずに積極的な活動を行っている。

エピソード:
・幼少時代の角松は喘息の持病があり同級生からは度々苛められていたが、ギターを始めた事で同級生からの苛めは無くなり、喘息の持病も解消されて同級生から拍手喝采を浴びる様になったと言う。
・小学生でビートルズが好きになり、小学6年生の頃はっぴいえんどを知り小中高と聴いており、影響を受ける。
その為、「好きなギタリストは誰ですか」との質問に対し角松は「はっぴいえんどの鈴木茂さん」と回答している。
・日本楽器製造東京支店の主催の「イーストウェスト」に高校生で出場した時の準決勝の対バンはシャネルズだった。当時、サザンオールスターズやカシオペアも出場していた。
・高校、大学と自身でバンドを組み、オリジナルもやっていたが、大学で山下達郎ファンだった先輩のバンドにギタリストで参加し、山下の曲も演奏していた。
・学生時代は喫茶店でのアルバイト経験が有り、1993年の活動凍結前には音楽活動を引退して飲食店の経営を考えていた事もあった。
・19歳の時に、当時年上の彼女と別れ、心を痛めていた友人の為に作った曲「Still I'm In Love With You」を聴いたトライアングルプロダクション社長・音楽プロデューサーの藤田浩一の誘いでデビューを果たす。
・プロモーション用のデビューシングル盤のジャケットには名前でなく“T.K”とだけ明記され、裏面のクレジットも“唄)T.K”、“T.K作詞・作曲”と記載されていたほか、“新鮮なうちにおきき下さい。〜新鮮保証56.5.10迄〜”、“T.Kとは、RCAがお届けするシティ・ポップスのビック・ニュー・アーティストです”、“T.Kの音楽の基本は16ビートです”、“T.Kの音楽性の高さがコンテンポラリー・サウンドを裏づけています”、“T.Kの音楽はシンプルなメッセージを持っています”といったキャッチコピーが掲載されていた。
・デビュー後、翌年にはロサンゼルス録音を行ったが、自分の力量がついていっていないもどかしさや、意見が通らない事に嫌気がさし、トライアングルを辞める。
新たな事務所探しで当時のレコード会社も奔走したが、次の事務所(マーマレード)は本人自身で探し、契約。
それを機にセルフ・プロデュースを開始し、3rdアルバム『ON THE CITY SHORE』を完成させ、本作でプロとして自信がついたと語っている。
・4thアルバム『AFTER 5 CLASH』の頃からセールスも伸び、過去に自身が影響を受けてきたものすべてと決別して誰もやっていない新しい音楽作りのため、ニューヨークへ行き、その後6thシングル「TOKYO TOWER」、5thアルバム『GOLD DIGGER』を発表し、渡米した経験を発揮する。
・1985年頃からMacPlusを使用し打ち込みを始め1986年 - 1987年頃結構ハマっていたが、何でも出来るから逆に飽きてしまい1990年以降は生のミュージシャン演奏の方へ戻っていったと語っている。
・2002年には、プロ野球の中日ドラゴンズで、選手登場テーマとして楽曲が使用された。
投手の登板に「GALAXY GIRL」、代打のテーマに「TIME TUNNEL」「AIRPORT LADY」が使われた。
・青木智仁の他界によって、『LEGACY OF YOU』以来暖めていたインストゥルメンタルアルバムの構想を封印する事にしたと、雑誌『ADLIB』の青木智仁追悼企画でのインタビューで表明している。
・2010年リリースの作品からネット配信されるようになる。それまで、本人は「ネット配信では音質が良くないからCDを買って聴いてもらいたい」として、ネット配信に難色を示していた。しかしながら一方で、「アルバムへの導入部としてシングルという形で配信するのなら良いかもしれない」という考えもあり、配信に至った。また、良い音作りのために、自身のレコーディング・スタジオも構えている。
・趣味はサーフィン、スキー。スキーに関してはスキーの板を新調するかギターを新調するか迷っていた事もある。また、スキューバーダイビングも好きらしく、南方を訪れた際には必ずやっている他、自身のアルバムでスキューバーダイビングの事を歌った曲を作った事もある。
・現在の愛車はジャガー(デイムラーV8)。それまでは3台程日産車を乗り継いでいた。

影響を受けた楽曲:
デビュー以前
・B・J・トーマス「雨にぬれても」
洋楽ポップスとの出会いは幼稚園時代。その当時、自身から心惹かれた初めての曲である。自身の音楽の基本のR&Bやジャズを咀嚼してオリジナリティーのあるものを作るという、バカラック的なアプローチも含まれコード展開や転調のしかたとかも参考にしたと語っている。

・ビートルズ「ヘイ・ジュード」
小学4年生当時、テレビドラマか何かの主題歌でオーケストラ版の「Hey Jude」を聴いてすごく気に入り、兄からビートルズの曲だと教わりシングル盤を購入。それを聞いてさらに衝撃を受け小学5年生からギターを始め、当時はビートルズのコピーばかりをしていた。ギターを持って人前で歌うきっかけになったのはビートルズだった。

・シュガー・ベイブ「今日はなんだか」
アルバム『SONGS』(1975年)は擦り切れるほど聴き、当時思春期の自分と相まって、いろんな風景が浮かぶと語っている。高校生までは3コード進行のロックはコピーできても、シュガー・ベイブの様なテンションコードがある曲はぜんぜん追いつかなかったが、しばらく経ってコピーできるようになり、当時良く演奏していたのがこの曲だった。

・鈴木茂「砂の女」(作詞:松本隆、作曲・編曲:鈴木茂)
アルバム『BAND WAGON』(1975年)収録。はっぴいえんどが解散して、鈴木のソロが「どんなもんだろう?」と思い聴いてみると、はっぴいえんどの音とは全く違う感じで「これはこれでいいものなのか? 僕はかっこいいと思うんだけど、どうなんだろう?」と思い、当時ディープ・パープルや四人囃子のコピーをやっていた友人に聴かせたら「これかっこいいよ!」といわれ、自分は間違っていなかったんだと語っている。

・南佳孝「プールサイド」(作詞:来生えつ子、作曲:南佳孝、編曲:坂本龍一)
アルバム『SOUTH OF THE BORDER』(1978年)収録。角松自身、南佳孝こそシティーポップと呼ばれた最初期のアーティストだと語っている。詞の世界が大人であり、当時高校生だった自分には絶対手の届かない世界だと思った。音の世界観と詞の世界観は、思春期の自身を早く大人にさせたんじゃないかなと語っている。

デビュー以後
・佐藤博「YOU'RE MY BABY」(作詞・作曲・編曲:佐藤博)
アルバム『AWAKENING』(1982年)収録。自身のデビュー後に聴いた作品。すごく洗練されており、こういう作品を出されたら追従できないなと思わされるほど、素晴らしい作品だと語っている。自身もこういう事ができないかなと思わせる程であり、コードに対してのボキャブラリーとか、メロディーに対してのボキャブラリーとか、まだまだ20歳そこそこの自分には乏しくて、真似しようとしてもできなかったと語っている。

・Steely Dan「Aja」
このアルバムを初めて聴いた時に衝撃を受け、音楽的に高度なところや、こうあるべきみたいな作り方だとか、挑戦であるとか、新しさであるとか音楽の一番大事なところを集めたアルバムであり、かなり勉強になったと語っている。

・Earth, Wind & Fire「After the Love Has Gone」
同曲はEarth, Wind & Fireがデイヴィッド・フォスターと組んだ最初の楽曲であり、急激に空気感がソフィスティケイトされ、夏の夕方とか聴くと、最高に気持ちが良いと語っている。

・Christopher Cross「Sailing」
この曲が収録されているアルバムがバカ売れしてディスコで良くかかるようになったときに、AORは到達点を迎えたと思ったという。

・Luther Vandross「Sugar and Spice (I Found Me a Girl)」
当時この曲を聴きかなり打ちのめされ、自身にとってはまだ遠い世界に感じ、いつかこういう世界をやってみたいと思わせたと同時に、彼の醸し出すような世界観はニューヨークの空気感を知らなければならないと強く感じ、渡米する(84年からニューヨークへ住む)きっかけとなったと語っている。(ウイッキペディア)

先日NHKで拝見しましたが、相変わらず若々しくてお元気そうでなによりです!

それでは、5月のパケット使用量です。

ポケットWifiは16.63GBで、スマホは 1.5GB/2.0GBでした!

では、6-1生まれの有名人です。

1842年沖田総司(武士,新撰組一番隊組長)、1926年マリリン・モンロー (米:女優)、1937年モーガン・フリーマン (米:俳優)、1947年ロン・ウッド (米:ミュージシャン(ローリングストーンズ/ギター))、1955年千代の富士貢(九重親方)(相撲/横綱(58代))、1957年山下泰裕(柔道)。

30周年のときの映像です。
角松敏生 RAMP IN (30th Anniversary)