また今日も、女子バレーやってました!
世界バレーアジア最終予選らしいです。
試合結果は、日本3-0台湾でストレート勝ち。
格下相手ということで、日本は新戦力を試す余裕の試合。
というか、変えたほうが得点が入っている・・・
このように新戦力は出てちゃんと結果を出しています。
ですから、スタッフも選手交替を怖がらず、どんどんミスの多い選手は入れ替えてほしいものです。
なにくそ、という競争力が若いチームのよい刺激になりますって。
では、もう1本もスポーツの話題です。
これ、ギネス記録に載るそうですね。
初の3兄弟同時王者
IBF世界スーパーフライ級王座決定戦 ボクシング
産経新聞 9月4日(水)
■「みんなで勝った」
長兄の興毅、末弟の和毅に続き、次男の亀田大が世界王者の地位に再び上りつめた。
3兄弟での世界王座同時保持に「俺一人でボクシングしてるんじゃない。今日はみんなで勝ちました」。
世界戦のリングでは約3年ぶりに生歌を披露し、喜びに浸った。
1年9カ月前、王座奪取に失敗した一戦が教訓となった。
好戦的な相手と打ち合った揚げ句、どれだけのクリーンヒットを浴びたか分からない。
この日は一転、構えをスイッチしながら前に出てくるゲレロに対し、足を使って対抗。左構えに転じた際は、ノーモーションの右が有効だった。
「くっついても、負けてなかったと思うよ。でも競馬で言ったら手綱を引っ張ってくるんよ。まだまだまだと」。
前がかりにならずに済んだのは、セコンドから声をからした兄と弟のおかげだ。
10回には左右の連打で圧倒。
ローブローの反則で2度減点されても、2人のジャッジは大差を付けた。
久しぶりの世界戦。
不安は減量苦だった。
8月28日夜から1日の午後まで絶食。
計量前夜は一睡もできなかった。
酷暑での練習中には「血を吐いたりもしたね」。
それでも中断しなかった。
3兄弟で最も素質に恵まれていないのは自覚している。
「俺が2本もベルトを巻けるなんて奇跡。自分の力だけやったら巻けてない」。
兄と弟がおぜん立てしてくれた史上初の快挙。それを逃すまいとする責任感が、不器用な次男坊の背中を押した。(細井伸彦)
しかし、ランキング3位と4位の選手が王座決定戦って、何なんだ?
本当にギネス級なのは、亀田陣営の弱い相手を見つけ出すプロモーターとしてのマッチング力です。
気の早いことに、亀田オヤジのセコンドライセンス復帰説もでていますが、彼は既に永久追放でしょ。
親子の強い絆を美談に仕上げて過去の悪行狼藉はなかったことに!?
勝てば官軍では困ります。
この試合、こんな見方もあります。
亀田大毅のIBF世界王者の意義
THE PAGE 9月4日(水)
敵の良さを殺した戦術
「今日は徹底して作戦を守れた」
リング上の亀田大毅は、そう言って涙を流した。
すぐさま、ギネス認定された世界初の3兄弟同時世界チャンピオン。
最後に滑り込んだ亀田家の劣等生を自称する次男坊は感涙を溢れさせた。
作戦とは、ゲレーロからのプレッシャーを回避するため、ステップワークを使って離れて常に動くこと。
ゲレーロが入ってくれば、カウンターを合わせてクリンチ、サウスポースタイルにスイッチされると、ノーモーションの右を当ててから、体を密着させて反撃を封じ込める。
「距離、リズム、タイミング」のボクシングを極めた元WBCスーパーフライ級王者、徳山昌守が、対サウスポー対策に使っていた戦法である。
“接触”というリスクを負わずに密着戦には付き合わない。
ロープを背負う状況にしないことを徹底した。
敵の良さを殺しにいく戦術である。
終盤に、ゲレーロの足が止まったと見るや、大毅は、その根気良く続けた戦術を捨てて果敢に打ち合った。
もう相手のパンチ力も感じなかったのだろう。
ガードも下がっていた。それを見切ったように足を止めて勝負を決めに行った。
相手の元IBF王者は、KO負けが、そのキャリアにないタフなボクサーである。
10ラウンドには、クリーンヒットが何発かあったが、決定打とはならない。
まるでタッチゲームを見せられているようだった怠惰な世界戦は、ようやくボクシングらしくなっていたが、最終ラウンドは、また大毅は慎重に足を使った。
判定は3-0。
途中、亀田にローブローの減点が、2つあったにもかかわらず、一人は、8ポイント差をつけていた。
不器用なボクサーである。
長男・興毅が持つクレバーさや、三男・和毅が持つ天才的なセンスもない。
それがずっと彼にはコンプレックスになっていた。
「兄ちゃんに和毅……。特に和毅に下から追い上げられるのがしんどい」
そんな本音を聞いたことがある。
試合後のリング上での熱唱。
玄人肌のマンガ……。
ボクシング以外に秀でた大毅の一芸は、そういうコンプレックスの裏返しのように思えていた。
試合の評価への賛否
亀田家は一様に海外のボクシング映像を見るのが大好きだが大毅は興味がない。
対戦相手のDVD映像もほとんど見ない。
そういうボクシングとの距離感も、ボクシングの秀才と天才に挟まれた劣等生ゆえの苦しさからくるものだったのか。
オヤジも、大毅にだけは容赦がない。
「やる気がない」「手を抜いている」と思うとガツンと鉄拳を交えて本気で叱る。
兄や弟には、繊細なマッチメイクが組まれても、大毅だけは、問題となった内藤大助戦を筆頭にガチに強豪とのマッチメイクを組まれた。
不器用ゆえのタフさ……大毅は麦のように踏まれて逞しくなっていった。
いつも家族を思い、スタッフへの感謝の念を忘れない。
リング上でも「周囲のサポートのおかげです」と発言した。
試合が終わると必ずスタッフにお礼のメールを送る。
食通の大毅は、評判のグルメ店を巡るのがオフの楽しみだが、必ず家族のためにお土産を持って帰る。
そういえば、その昔、インタビューに用意したシュークリームが大量に余ったとき「にいちゃんと和毅に持って帰りたい」と、彼は、お土産に包んだ。
さて、この試合の評価である。
WBC世界フライ級王者、八重樫東(大橋ジム)は、高い評価を与えた。
「感動しました。
勇気を持って勝負にいく勝ちにいく気持ちが見えました。
そういう気持ちを作ってリングに上がって終盤前に出たのでしょう。
僕は、彼が3人の兄弟の中で自分のことが一番わかっているボクサーだと思うんですよ」
その一方で、あるボクサーからは、こんな言葉を聞かされた。
「倒すためにどう崩すか、どう組み立てるかというボクシングではなく、下がって、離れて、コンタクトを避け、カウンターだけを狙っておくというボクシング。
その展開が最後まで成立してしまうような世界戦というのはありえないでしょう。
途中、打ちあったけれど、それも両者共にガードも下がって無防備なレベルの低い殴り合いです。
大毅も大毅なら相手も相手。
ビッグ・ダルチニアンという超一流ボクサーと対戦経験のあるボクサーだと聞いていたのですが、あれでIBFの元世界王者というならば、IBFのレベルが低いとしか思えない」
序盤に大毅が仕掛けたボクシングは「距離、リズム、タイミング」のボクシングである。
素人目にはつまらないが、玄人目では面白い、そういう高いレベルのボクシングの世界は存在する。
読みあい、化かしあい……。
近代ボクシングの最先端の技術を駆使し、白刃で対峙するような緊張の世界だ。
では、この日の大毅のステップワークと、それを詰めきれなかったゲレーロに、そういう緊張の世界があったか?と問われれば、答えはノーだ。
終盤に覚悟を決めた表情で、打ち合いを臨んだ大毅のファイティングスプリッツは買える。
しかし、勝ちました、3兄弟の世界王者、おめでとうで、すべてを覆い尽くして、肝心の試合内容の総括を忘れてはならないだろう。
まして、これまで門を閉ざしてきたIBFの世界タイトル戦が、日本で初開催されたのである。
しかも、試合前には計量を巡ってのイザコザがあった。
オーバーした相手陣営の態度を見ていると、単なる減量ミスにも思えず、JBCの立会いも無しに当日計量の時間を変えて終えてしまうというレギュレーションの不始末も、後味が悪い。
八重樫も「試合のレベル、対戦相手の力量などを含めて、IBFという新団体を解禁してしまったことによる悪い点も見えたのかもしれません」とも言った。
3位と4位の王座決定戦だから……と言ってしまえば、それまでだが、注目の新団体王座だっただけに内容への失望感も残る。
世界初の3兄弟世界チャンプをトレーナー、プロモーターとして育て、実現した父、亀田史郎氏が希望している国内でのセコンドライセンス復帰問題に対しても、今後、それを“世界初”の勢いにまかせて認めてしまっていいものかどうかという慎重な議論も必要だと思う。
その意味で、あえて2階級制覇、3兄弟同時世界王者の偉業を成し遂げたタイトル戦へ賛否を交えた一文を書いた。 (文責・本郷陽一/論スポ)
もちろん、間違いなく大毅は頑張りました。
大きなプレッシャーのかかる試合をきちんと勝ち抜きました。
しかし、亀田3兄弟が手にしているベルトの価値が玄人筋からはそれほど評価されていないのには理由があります。
誰もが納得する強い相手を倒してこそ、ベルト本来の価値は上がります。
今日の名言です。
「恋して恋を失ったのは、まったく愛さなかったよりもましである」
「イン・メモリアム」アルフレッド・テニスン
出会いがあれば、必ず別れは来ます。
その別れが悲しいからといって、出会いを拒絶するのは単なる臆病者です。
初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson, 1809年8月6日 - 1892年10月6日)はヴィクトリア朝時代のイギリス詩人。
美しい措辞と韻律を持ち、日本でも愛読された。
リンカンシャー州サマズビーに牧師の子として生まれる。
1831年までケンブリッジ大学に学び、1827年兄のチャールズやフレデリクとともに詩集『Poems by Two Brothers』を出版したが、単独の詩集『Poems Chiefly Lyrical』(1830年)はジョン・キーツの影響を示している。
次いで1833年『シャロットの妖姫 The Lady of Shalott』を発表したが酷評され、以来10年間沈黙する。
1832年に学友のハラム(Arthur Henry Hallam)と大陸を旅行するがその翌年にハラムが急死し、強い衝撃を受けて彼を弔う長詩『イン・メモリアム』In Memoriam A.H.H.を書き始め、十数年にわたる自己の思想の成長をも織りこんで1849年に完成させた。
友人の死と進化論によって揺れ動く信仰をうたった詩であり、序詩は「つよき神の子、朽ちぬ愛よ」として讃美歌275番に収録されている。
1842年『Poems by Alfred Tennyson』で名をなし1845年に年金を授与された。
1847年に叙事詩『The Princess』を発表し、1850年ウィリアム・ワーズワースの後継者として桂冠詩人となった。この年に結婚している。
1855年『Maud』、1859~64年にかけてアーサー王伝説に取材した『国王牧歌』や、哀れな水夫の物語詩『イノック・アーデン Enoch Arden』(1864年)、『Locksley Hall Sixty Years After』(1886年)を発表し、1884年にはテニスン男爵に叙せられた。
1889年の短詩『砂州を越えて Crossing the Bar』は辞世の歌として名高い。
1892年に死去し、ウェストミンスター寺院に埋葬された。
葬式では愛唱した讃美歌、「聖なる、聖なる、聖なるかな」が歌われた。
次男ハラム(後の第2代オーストラリア総督)が爵位を継いだ。
現在、テニスン男爵の爵位は6代目のデヴィッド・テニスン(1960年生まれ)が継承している。
(ウイッキペディア)
では、音楽の時間です。
めずらしくボーカルが前面に出ている曲です。
PFM Suonare Suonare
世界バレーアジア最終予選らしいです。
試合結果は、日本3-0台湾でストレート勝ち。
格下相手ということで、日本は新戦力を試す余裕の試合。
というか、変えたほうが得点が入っている・・・
このように新戦力は出てちゃんと結果を出しています。
ですから、スタッフも選手交替を怖がらず、どんどんミスの多い選手は入れ替えてほしいものです。
なにくそ、という競争力が若いチームのよい刺激になりますって。
では、もう1本もスポーツの話題です。
これ、ギネス記録に載るそうですね。
初の3兄弟同時王者
IBF世界スーパーフライ級王座決定戦 ボクシング
産経新聞 9月4日(水)
■「みんなで勝った」
長兄の興毅、末弟の和毅に続き、次男の亀田大が世界王者の地位に再び上りつめた。
3兄弟での世界王座同時保持に「俺一人でボクシングしてるんじゃない。今日はみんなで勝ちました」。
世界戦のリングでは約3年ぶりに生歌を披露し、喜びに浸った。
1年9カ月前、王座奪取に失敗した一戦が教訓となった。
好戦的な相手と打ち合った揚げ句、どれだけのクリーンヒットを浴びたか分からない。
この日は一転、構えをスイッチしながら前に出てくるゲレロに対し、足を使って対抗。左構えに転じた際は、ノーモーションの右が有効だった。
「くっついても、負けてなかったと思うよ。でも競馬で言ったら手綱を引っ張ってくるんよ。まだまだまだと」。
前がかりにならずに済んだのは、セコンドから声をからした兄と弟のおかげだ。
10回には左右の連打で圧倒。
ローブローの反則で2度減点されても、2人のジャッジは大差を付けた。
久しぶりの世界戦。
不安は減量苦だった。
8月28日夜から1日の午後まで絶食。
計量前夜は一睡もできなかった。
酷暑での練習中には「血を吐いたりもしたね」。
それでも中断しなかった。
3兄弟で最も素質に恵まれていないのは自覚している。
「俺が2本もベルトを巻けるなんて奇跡。自分の力だけやったら巻けてない」。
兄と弟がおぜん立てしてくれた史上初の快挙。それを逃すまいとする責任感が、不器用な次男坊の背中を押した。(細井伸彦)
しかし、ランキング3位と4位の選手が王座決定戦って、何なんだ?
本当にギネス級なのは、亀田陣営の弱い相手を見つけ出すプロモーターとしてのマッチング力です。
気の早いことに、亀田オヤジのセコンドライセンス復帰説もでていますが、彼は既に永久追放でしょ。
親子の強い絆を美談に仕上げて過去の悪行狼藉はなかったことに!?
勝てば官軍では困ります。
この試合、こんな見方もあります。
亀田大毅のIBF世界王者の意義
THE PAGE 9月4日(水)
敵の良さを殺した戦術
「今日は徹底して作戦を守れた」
リング上の亀田大毅は、そう言って涙を流した。
すぐさま、ギネス認定された世界初の3兄弟同時世界チャンピオン。
最後に滑り込んだ亀田家の劣等生を自称する次男坊は感涙を溢れさせた。
作戦とは、ゲレーロからのプレッシャーを回避するため、ステップワークを使って離れて常に動くこと。
ゲレーロが入ってくれば、カウンターを合わせてクリンチ、サウスポースタイルにスイッチされると、ノーモーションの右を当ててから、体を密着させて反撃を封じ込める。
「距離、リズム、タイミング」のボクシングを極めた元WBCスーパーフライ級王者、徳山昌守が、対サウスポー対策に使っていた戦法である。
“接触”というリスクを負わずに密着戦には付き合わない。
ロープを背負う状況にしないことを徹底した。
敵の良さを殺しにいく戦術である。
終盤に、ゲレーロの足が止まったと見るや、大毅は、その根気良く続けた戦術を捨てて果敢に打ち合った。
もう相手のパンチ力も感じなかったのだろう。
ガードも下がっていた。それを見切ったように足を止めて勝負を決めに行った。
相手の元IBF王者は、KO負けが、そのキャリアにないタフなボクサーである。
10ラウンドには、クリーンヒットが何発かあったが、決定打とはならない。
まるでタッチゲームを見せられているようだった怠惰な世界戦は、ようやくボクシングらしくなっていたが、最終ラウンドは、また大毅は慎重に足を使った。
判定は3-0。
途中、亀田にローブローの減点が、2つあったにもかかわらず、一人は、8ポイント差をつけていた。
不器用なボクサーである。
長男・興毅が持つクレバーさや、三男・和毅が持つ天才的なセンスもない。
それがずっと彼にはコンプレックスになっていた。
「兄ちゃんに和毅……。特に和毅に下から追い上げられるのがしんどい」
そんな本音を聞いたことがある。
試合後のリング上での熱唱。
玄人肌のマンガ……。
ボクシング以外に秀でた大毅の一芸は、そういうコンプレックスの裏返しのように思えていた。
試合の評価への賛否
亀田家は一様に海外のボクシング映像を見るのが大好きだが大毅は興味がない。
対戦相手のDVD映像もほとんど見ない。
そういうボクシングとの距離感も、ボクシングの秀才と天才に挟まれた劣等生ゆえの苦しさからくるものだったのか。
オヤジも、大毅にだけは容赦がない。
「やる気がない」「手を抜いている」と思うとガツンと鉄拳を交えて本気で叱る。
兄や弟には、繊細なマッチメイクが組まれても、大毅だけは、問題となった内藤大助戦を筆頭にガチに強豪とのマッチメイクを組まれた。
不器用ゆえのタフさ……大毅は麦のように踏まれて逞しくなっていった。
いつも家族を思い、スタッフへの感謝の念を忘れない。
リング上でも「周囲のサポートのおかげです」と発言した。
試合が終わると必ずスタッフにお礼のメールを送る。
食通の大毅は、評判のグルメ店を巡るのがオフの楽しみだが、必ず家族のためにお土産を持って帰る。
そういえば、その昔、インタビューに用意したシュークリームが大量に余ったとき「にいちゃんと和毅に持って帰りたい」と、彼は、お土産に包んだ。
さて、この試合の評価である。
WBC世界フライ級王者、八重樫東(大橋ジム)は、高い評価を与えた。
「感動しました。
勇気を持って勝負にいく勝ちにいく気持ちが見えました。
そういう気持ちを作ってリングに上がって終盤前に出たのでしょう。
僕は、彼が3人の兄弟の中で自分のことが一番わかっているボクサーだと思うんですよ」
その一方で、あるボクサーからは、こんな言葉を聞かされた。
「倒すためにどう崩すか、どう組み立てるかというボクシングではなく、下がって、離れて、コンタクトを避け、カウンターだけを狙っておくというボクシング。
その展開が最後まで成立してしまうような世界戦というのはありえないでしょう。
途中、打ちあったけれど、それも両者共にガードも下がって無防備なレベルの低い殴り合いです。
大毅も大毅なら相手も相手。
ビッグ・ダルチニアンという超一流ボクサーと対戦経験のあるボクサーだと聞いていたのですが、あれでIBFの元世界王者というならば、IBFのレベルが低いとしか思えない」
序盤に大毅が仕掛けたボクシングは「距離、リズム、タイミング」のボクシングである。
素人目にはつまらないが、玄人目では面白い、そういう高いレベルのボクシングの世界は存在する。
読みあい、化かしあい……。
近代ボクシングの最先端の技術を駆使し、白刃で対峙するような緊張の世界だ。
では、この日の大毅のステップワークと、それを詰めきれなかったゲレーロに、そういう緊張の世界があったか?と問われれば、答えはノーだ。
終盤に覚悟を決めた表情で、打ち合いを臨んだ大毅のファイティングスプリッツは買える。
しかし、勝ちました、3兄弟の世界王者、おめでとうで、すべてを覆い尽くして、肝心の試合内容の総括を忘れてはならないだろう。
まして、これまで門を閉ざしてきたIBFの世界タイトル戦が、日本で初開催されたのである。
しかも、試合前には計量を巡ってのイザコザがあった。
オーバーした相手陣営の態度を見ていると、単なる減量ミスにも思えず、JBCの立会いも無しに当日計量の時間を変えて終えてしまうというレギュレーションの不始末も、後味が悪い。
八重樫も「試合のレベル、対戦相手の力量などを含めて、IBFという新団体を解禁してしまったことによる悪い点も見えたのかもしれません」とも言った。
3位と4位の王座決定戦だから……と言ってしまえば、それまでだが、注目の新団体王座だっただけに内容への失望感も残る。
世界初の3兄弟世界チャンプをトレーナー、プロモーターとして育て、実現した父、亀田史郎氏が希望している国内でのセコンドライセンス復帰問題に対しても、今後、それを“世界初”の勢いにまかせて認めてしまっていいものかどうかという慎重な議論も必要だと思う。
その意味で、あえて2階級制覇、3兄弟同時世界王者の偉業を成し遂げたタイトル戦へ賛否を交えた一文を書いた。 (文責・本郷陽一/論スポ)
もちろん、間違いなく大毅は頑張りました。
大きなプレッシャーのかかる試合をきちんと勝ち抜きました。
しかし、亀田3兄弟が手にしているベルトの価値が玄人筋からはそれほど評価されていないのには理由があります。
誰もが納得する強い相手を倒してこそ、ベルト本来の価値は上がります。
今日の名言です。
「恋して恋を失ったのは、まったく愛さなかったよりもましである」
「イン・メモリアム」アルフレッド・テニスン
出会いがあれば、必ず別れは来ます。
その別れが悲しいからといって、出会いを拒絶するのは単なる臆病者です。
初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson, 1809年8月6日 - 1892年10月6日)はヴィクトリア朝時代のイギリス詩人。
美しい措辞と韻律を持ち、日本でも愛読された。
リンカンシャー州サマズビーに牧師の子として生まれる。
1831年までケンブリッジ大学に学び、1827年兄のチャールズやフレデリクとともに詩集『Poems by Two Brothers』を出版したが、単独の詩集『Poems Chiefly Lyrical』(1830年)はジョン・キーツの影響を示している。
次いで1833年『シャロットの妖姫 The Lady of Shalott』を発表したが酷評され、以来10年間沈黙する。
1832年に学友のハラム(Arthur Henry Hallam)と大陸を旅行するがその翌年にハラムが急死し、強い衝撃を受けて彼を弔う長詩『イン・メモリアム』In Memoriam A.H.H.を書き始め、十数年にわたる自己の思想の成長をも織りこんで1849年に完成させた。
友人の死と進化論によって揺れ動く信仰をうたった詩であり、序詩は「つよき神の子、朽ちぬ愛よ」として讃美歌275番に収録されている。
1842年『Poems by Alfred Tennyson』で名をなし1845年に年金を授与された。
1847年に叙事詩『The Princess』を発表し、1850年ウィリアム・ワーズワースの後継者として桂冠詩人となった。この年に結婚している。
1855年『Maud』、1859~64年にかけてアーサー王伝説に取材した『国王牧歌』や、哀れな水夫の物語詩『イノック・アーデン Enoch Arden』(1864年)、『Locksley Hall Sixty Years After』(1886年)を発表し、1884年にはテニスン男爵に叙せられた。
1889年の短詩『砂州を越えて Crossing the Bar』は辞世の歌として名高い。
1892年に死去し、ウェストミンスター寺院に埋葬された。
葬式では愛唱した讃美歌、「聖なる、聖なる、聖なるかな」が歌われた。
次男ハラム(後の第2代オーストラリア総督)が爵位を継いだ。
現在、テニスン男爵の爵位は6代目のデヴィッド・テニスン(1960年生まれ)が継承している。
(ウイッキペディア)
では、音楽の時間です。
めずらしくボーカルが前面に出ている曲です。
PFM Suonare Suonare