この意見に賛否両論あるのは、当然でしょう。
でも、どうでもいい、どちらでもいい、ではなく是非とも自分なりに真剣に考えてみてください。
今日は少し長いです。
死刑執行で日本は孤立する、アムネスティが強く非難
IBTimes
アムネスティ・インターナショナル日本 小林薫死刑囚ら3人の死刑執行を受けて、アムネスティ・インターナショナル日本支部は21日、抗議声明を発表し、「今回の死刑執行は、死刑制度に固執し、政権交代後の執行を恒常化させようとする政府と法務省の意思表示」であるとして強く非難した。
同支部は、「日本政府は、国連の総会決議や人権理事会の普遍的定期審査、そして複数の国連人権機関から、繰り返し、死刑の執行停止と死刑廃止に向けた取り組みを強く勧告されていることを忘れてはならない」と述べ、世界の死刑廃止の潮流に背を向けると、日本は孤立することになると警告した。
また、アムネスティ国際ニュースも、今回の自民党・新政権による死刑執行は世界の潮流に逆行する「不穏な動き」であるとして警戒。
第1次安倍内閣では約1年間で10人の死刑が執行されたことを踏まえ、今内閣でも死刑執行の頻度が高まるのではないかと懸念を表明している。
アムネスティの調査によると、現在、全世界の7割に当たる140か国が、法律上または事実上死刑を廃止している。
また、昨年12月、国連総会で、2007年以降で4度目となる死刑執行停止決議が、過去最多の111か国の賛成で可決。
同団体は「決議は、廃止を視野に死刑の執行を停止することや、死刑を適用する罪名を減らすことなどを求めている」と説明している。
一方、産経ニュースによると、谷垣法相は、制度存続に対するに対して「国際的動向より、治安維持、国民の安心安全の確保を考えるべきだ」と述べた。
この記事によせられたコメントを一部掲載させていただきます。
ほとんどが批判的な意見でした。
国民性もあるんだから無理な相談だよ。
ついこないだまで、仇討ちが公認されていたんだから。
大体、死刑を無くす前に死刑になるような事をしなければ良いだけ。
死刑ゼロを目指すのは廃止じゃなくて犯罪の方。
死刑が無くなったら刑務所まで行って復讐しちゃう人も出てくると思う。
自分はこの「アムネスティ・インターナショナル」が大嫌いだ。
「地球上の誰もが人権を有している」「なぜ人権が大事なのか」をコンセプトとして様々なメッセージを発信しているが、犯罪などで殺害された被害者の人権にはほとんど触れずに、加害者である殺人者(人権を奪った犯罪者)への死刑は彼らの人権を奪う野蛮な行為だと批判する夢想論主義団体だからだ。
更生を期待できない心理的、精神的に破綻した異常者もいる現実や死刑廃止を訴える国々の治安レベル。
これらの現実が彼らの主張が夢想であると証明している。
今後日本で凶悪犯罪をしたら必ず死刑にしますなので凶悪犯罪者は日本に入国しないように!
それより麻薬所持で死刑にする中華人に文句言え!
罪の無い子共を殺したり無差別殺人をしたり自分が自殺出来ないからと言って人を殺して死刑を望むとか言って結局刑務所で無駄食いして生きながらえたくなり再控訴しようとしても遅い!
凶悪犯罪は速やかに死刑でいい!
問答無用で殺された人の無念を考えれば当然だ!
死刑になる奴には理由があるけど、死刑になっている殺人犯に殺された方には理由がないんだよ。
その本人や家族の痛みがアムネスティには分かってるのか?
日本が孤立する、孤立しないの問題じゃなくて、死刑になる奴にはそれ相応の理由があるところが大事なんじゃないのか?
自分の事だけじゃなく、相手の立場になって物事を考える日本人の考え方は、世界の先端を行ってるよ。
そういう意味では孤立もありだろう。
そんなに孤立することが嫌なら、憲法九条にも反対しろ。
戦地で法律の壁に阻まれ日本人を助けられないのは日本くらいでしょ。
「苦しんでいる人びとを助けたい」アムネスティ日本。
なら被害者家族を助けろよ!
公正を期すために日本アムネスティ支部の理事長である藤田真利子氏の学習会での発言を掲載しておきます。
2006年9月9日、アムネスティ死刑廃止ネットワーク東京は、翻訳家でアムネスティの理事でもある藤田真利子さんを迎えて「文学と死刑廃止」というテーマでお話をしていただいた。
以下に、藤田さんのお話と質疑応答の概要を報告する。
-------------------------------------------------
死刑廃止の論拠について考えるとき、私の場合、「国家に人を殺す権力を与えてはならない」というのがまず最初に来る。
「人を殺してはならない」というのが一番に来るのではない。
国家が人を殺す権力を持つことに大変拒否感がある。
これは子どもの頃から外国文学を好んで読んできた影響だろうと思う。
たとえばカミュは、アルジェリアの独立運動のときにフランスが抑圧して、独立しようとしている人たちを死刑にしたことを書いた。
また、スペインの独裁政権、ナチス、フランスのレジスタンス等々を題材とした文学では、愛する人、友人、仲間が死刑になるといった政治的なものが非常に多く、そこに出てくる死刑はまさに「悪」であり、死刑とは悪い人が使う武器であるというふうに見えた。
このように、自分の死刑に対するイメージを形作ってきたものはやはり本、物語であり、私の死刑廃止への思いは、その刷り込みがとても大きかったのだろうと感じている。
もうすぐ死刑廃止か、という動きになっている韓国は、国会で死刑廃止派の議員が多数を占めている。
独裁政権の時代に自身が死刑を宣告され、牢に行った経験のある国会議員が大勢いるというのが大きく関係している。
翻って日本を見ると、確かに日本は第2次大戦中、大変な弾圧があった。
でも、政権は変わらず、地続きである。
他の国だと、当時弾圧されていた人が日のあたるところに行って、「さあもう自由だ」と、続いて「じゃあ死刑を廃止しよう」、みたいな流れになったりするが、日本の場合は、たとえば一番弾圧されていたのが共産党であるが、政権が変わって共産党の人たちが「さあ俺たちの時代だ、死刑廃止するぞ」となることはなかった。
日本での死刑廃止の実現について考えるとき、そういった難しい状況が確かにあると思う。
死刑廃止を訴えるときに、いくら理論で訴えても、理屈ではやり込めることができても、絶対納得してもらえなかったという経験が皆さんにもあるのではないか。
こういった、人の生死にかかわる問題で人を動かすのは、やはり理屈ではなく感情だと思う。
とても小さな例えになってしまうが、子どもが小中学校に行っている頃、PTAで広報誌を作る係をやっていた。
学習指導要領が変わったとき、「こんなものを押し付けてきた」みたいな記事を私が書いたところ、PTA会長が突然口を出してきて、それを書くなと言う。他の委員のお母さんたちに、「PTA会長が口を出すのはおかしいんじゃないか」という話をいくらしても、お母さん方は波風立てたくないから、「差し替えたらいいじゃない」みたいなことを言う。
あまり悔しくて、悔し涙が流れてしまった。
そうしたら、みんなころっと態度が変わって、結局そのまま出せたという経験がある。
そのときに思った。
涙って強力だなあと(笑)。
以上は非常に小さい経験だが、いま社会学などでも「感情の社会学」と言って、「感情というのは、個人の中に起きる、からだの生理的な変化といったことだけではない」ということが言われている。
感情についていろいろな研究をしている学問があり、それによれば、人は社会を通して感情についての文化規範を身につけるという。
自分と対象、自分と状況との関係に、感情の語彙――「私は怒っている」とか「これは悲しい」とか、そういったもの――を当てはめレッテル貼りをして、その貼ったレッテルに、その後は左右されると。
たとえば、お葬式に行けば悲しくなるとか、お葬式で故人の遺影を見ると悲しくなるとか、そういうのは最初から自分のなかから出てくるというよりは、そういう状況を経験してきて、社会の中で「こういうときは悲しいものだ」というものが、自分の感情として感じられるようになってくるのだ、というような学問がある。
光市の母子殺害事件で、被害者の遺族の方が非常に感情的に訴えておられた。
そういう感情が強いと、社会はすごく感情的に動かされ、たとえば、人を殺してはならないという死刑廃止運動の主張と、人を殺してはならないという社会の規範、同じことを言っても、実際にあった殺人事件のほうにばかり味方をするようになってしまう。
その社会のいろんな変化について、東京創元社の「ミステリーズ」という小説雑誌に、ミステリー評論家でミステリー作家でもある笠井潔さんという方が『ぼくのメジャースプーン』(辻村深月)という小説の評論で次のように書いている。
探偵小説では犯罪という悪が作品の中心に位置してきた。
しかし、探偵小説がジャンルとして、悪や犯罪の意味するものを独自に追求してきたとはいえない。
近代的な法思想を前提に、大多数の探偵小説は書かれてきた。
しかし近代的人間が消失しようとしている現在、罪と罰をめぐる近代的な制度や観念の失効もまた不可避だろう。
犯罪や悪の意味するところが、もはや自明とはいえない異様な新事態が到来しつつある。
たとえば殺人事件の被害者家族が、被告への死刑判決を裁判官に要求する。
被害者家族の涙ながらの訴えをマスコミは同情的に報道し、被害者の救済や犯罪の重罰化を求める「世論」が勢いを増してきた。
新聞の論説や、法思想に通暁しているはずの「識者」もまた、被害者家族の発言や「世論」に棹さすような発言を繰り返している。
ここに書かれているのは、
「近代的な法思想では、犯罪は被害者への侵犯ではなく法=国家への侵犯であり、法律というのは被害者に対する犯罪というよりも社会に対する犯罪だということで国家が代わって処罰する。だから、被害者が直接報復するようなことは許されなくなっている。そういう近代的な法思想のもとでの死刑は、犯罪に対する最大の報復としての殺人ではなく、社会からの永久追放の手段である。だから本当は、法律家や大学教授など識者といわれる人は「個人の復讐をするわけではない」と説くべきなのに、それはいまやられていない」
というようなこと。
この『ぼくのメジャースプーン』という小説は子どもがある犯罪に対する報復を自分でするという話で、どんな罰だったら釣り合いが取れているんだろう、というようなことを子どもがとても悩む。
本当は善き個人が報復するというような概念。
笠井氏が指摘しているように、社会が変わっているのだ。
ミステリーでよくあるパターンというのが、非常に残虐な殺人を描写し、その犯人が死刑にならなかったことに怒り、自分で報復するというもの。
ただここで大きいポイントがあって、そのパターンのミステリーを書いているのは日本とアメリカだけ。
ヨーロッパのように死刑が廃止されている国では、誰かが死刑にならなかったからすごく怒るということが一般的でない。現実に死刑がない国では、「死刑にならない」ということに対して被害者遺族が恨みを溜め込むというのはあまりないようだ。
死刑のある国とない国とで、そんな違いがあるように思う。
ミステリーで異常犯罪のパターンの本は多い。
犯人を憎み、そんなやつ許せないと思わせるような小説というのは確かに書きやすいのだろうけれど、それってどうなんだろう? と思う一方で、でもそういうのはミステリー作家が社会の動きを見て、影響されて書いているのだという点も指摘しておきたい。
笠井氏は上記評論中で、「どうか犯人を死刑にしてくださいと国家に求めるのは、倒錯である。被害感情、報復感情の無力な吐露からは、なにも生まれない。決闘権の回復といった法思想の全面的な組み直しが、いまのところ一挙的には難しいとしても、被害者家族は絞首台の処刑ボタンを委ねよという運動を開始することはできる」などと書いており、この人は一体? と思ってしまうのだが、でも、犯罪と処罰について、社会の風潮にそのまま流され影響されて一般受けのするミステリーを書く人よりは、犯罪と処罰ということについての社会の意識が変化しているということを意識化してここに出したというのはすごく意味のあることではないかと思う。
さっきから「感情が人を動かす」という話をしているが、私もバダンテールさんの『死刑執行』と『そして死刑は廃止された』を読んだときに、ものすごく感動した。
(注:ロベール・バダンテールはフランスが死刑廃止をした際の法務大臣。『死刑執行』は1996年新潮社から、『そして死刑は廃止された』は2002年作品社から、ともに藤田真利子さんの訳により刊行された。)
日本社会で、死刑廃止の側が感動できる物語を提供できるとしたらその辺しかないのかなと思う。
安田好弘さんのように、信念を持って死刑を求刑された被告人のためにがんばる弁護士の闘いと、それからあとは政治家の闘い。
フランスで死刑廃止をしたときは、60~70パーセントは死刑廃止には反対していたわけだから、やはり政治家のイニシアチブがすごく必要だと思う。
もうひとつ、日本での可能性というと宗教か。
キリスト教の殉教の物語とか。
堀田善衛の『海鳴りの底から』は島原の乱を書いたものだが、あの拷問のすさまじさ。
きょう学習会で話をするにあたって、「いま、死刑廃止とはどんどん反対の方向になっていってしまって、日本での死刑廃止運動は一体どのようにしていったらいいのだろう、被害者遺族の怒りというものに対して私たちは何で対抗できるだろう」ということをすごく考えたのだが、やはり冷静に理論を語って「抑止力がない」といった話をするのではなく、情熱一本槍で押すしかないのかなと思った。
そして、政治家の人には「ぜひ、死刑を廃止した政治家になってください」と。
それから、死刑廃止に情熱を傾ける弁護士の物語を世の中に伝えることができないか。
いろいろ死刑のことが出てくる本など読み返してみても、「ああ、これは日本には当てはめられない、だめだ」ということばかり思ってしまったのだが、実際に当てはめられなくても、一人ひとりの気持ちを変える力として、そういう物語があるのではないか。
<質疑応答>
このあとの質疑応答では、参加者から「自分が身内を殺された立場になったらやはり死刑を求めてしまうのではないかと思う」という意見が出たのに対し、藤田さんがまず自分の考えを述べた後、出席者たちにそれぞれの死刑廃止論を語るよう促した。
【藤田】
たとえば私が家族を殺されたとする。
犯人が目の前にいたら、「殺してやりたい」ときっと思うだろう。
でもそのときそばに誰かがいて私を止めたとしたら、そのときは怒るかもしれないけれど、あとになって「ああ、殺さなくてよかった」と思うはず。
相手が誰であろうと、人を殺したくはない。
でも死刑というのは、国家が代わりにやるとしても、結局、自分が殺しているのと同じなのではないか。
それから、いままで死刑というはどの国にもあって、火あぶりとか、体中の骨を折って何日も放置して殺すとか、徳川時代だと「のこぎり引き」と言って通りかかった人が一回ずつ首を引いていくとか、ひどいのもたくさんあった。
それでも殺人は世の中からなくならない。
私たちは人を殺してはいけないと思うし、そういうふうに訴えてもいる。
けれども、世の中の殺人を1件1件止めることなど到底できない。
殺人というのは大体が刹那的に起こるもので、私たちは殺人はなくなってほしいとは思うけれど、それを止めることはできない。
でも、死刑という殺人は、なんとかすれば私たちに止められる。
計画的に人を殺すのが死刑であって、さっきから言っているとおり、国家がその力を持つということには大変抵抗を感じる。
実際、第2次世界大戦中に、自分の信念を貫くために弾圧で殺された人もいるわけで、「日本は平和だからだいじょうぶ」というふうには私には思えない。
森巣博さんが著名人メッセージで書いている。
死刑執行は無作為に選んで国民がやれと。
そうやって殺せるかと。
殺せませんよね。
でも実際は、私たちのためにということで人を殺している。
そして、それで死刑になったからといって被害者家族の気持ちは癒されるかということ。
まず率直に上記発言を読んで、アムネスティ日本支部の理事である方の見識がこの程度のものかと驚きました。
以前にも死刑存続の可否についてこのブログでとりあげましたが、やはり被害者側にたつのか、加害者側にたつのか、そのどちらでもなく人道主義に徹するのか、によって主張は変わってきそうです。
私個人の意見は、死刑は存続すべきだと思っています。
それは、そもそも命には命でしか償われないものだし、個人の仇討ちが許されていない以上、国こそがその嫌な役回りを担当すべきだと思うからです。
では、彼女の発言の中から、死刑反対の根拠となるキーワードをピックアップしてみましょう。
・死刑廃止の論拠について考えるとき、私の場合、「国家に人を殺す権力を与えてはならない」というのがまず最初に来る。「人を殺してはならない」というのが一番に来るのではない。
恐ろしいことを平気で言う人ですね。
人を殺すのはいけない、従って国家も人を殺してはいけない、という理屈ならまだわかります。
しかし彼女の場合は、国家に人を殺す権力を与えてはならない、というのが先に来ています。
おそらく、ナチスのユダヤ人虐殺や、日本での戦時中の赤狩り(共産党員や反政府分子だと見られたら拷問虐殺された)などを念頭に置いての発言だと思いますが、民主主義の浸透した日本という現代社会では杞憂です。
まずは、人を殺してはならない、ということを主張の根幹にしないと、単なる反国家権力者にすぎません。
彼女の主張が最も有用なのは、対中国や北朝鮮でしょうね。
・人の生死にかかわる問題で人を動かすのは、やはり理屈ではなく感情だと思う
・冷静に理論を語って「抑止力がない」といった話をするのではなく、情熱一本槍で押すしかないのかなと思った
理論ではなく感情論、つまり死刑廃止論という大前提のためにご自分の感情論を貫くといことは、逆の感情(光市の母子殺人事件の被害者の家族が感情的な言葉を発したと指摘)の存在も尊重しなくては不公平です。
あくまでも感情論にこだわるのであれば、自分の感情だけが正しくて、違った感情の人を認めないというのは身勝手すぎます。
・現実に死刑がない国では、「死刑にならない」ということに対して被害者遺族が恨みを溜め込むというのはあまりないようだ
死刑制度のない国では、そもそも死刑という選択肢がないわけだから、そこから発生する感情は起きようがないし、被害者遺族の感情を勝手に忖度(そんたく)してもらっても困ります。
・死刑というのは、国家が代わりにやるとしても、結局、自分が殺しているのと同じなのではないか
・死刑になったからといって被害者家族の気持ちは癒されるかということ
被害者が直接加害者を殺せないから国家が替わって行っているし、多くの被害者遺族の気持ちのガス抜きにはなっていると思われます。
しかし最も許せないのは、光市母子殺人事件の被害者遺族の発言についてです。
光市の母子殺害事件で、被害者の遺族の方が非常に感情的に訴えておられた。
そういう感情が強いと、社会はすごく感情的に動かされ、たとえば、人を殺してはならないという死刑廃止運動の主張と、人を殺してはならないという社会の規範、同じことを言っても、実際にあった殺人事件のほうにばかり味方をするようになってしまう。
まず、この事件の概要ですが(ウイッキペディア)、
1999年(平成11年)4月14日の午後2時半頃、当時18歳の少年Aが山口県光市の社宅アパートに強姦目的で押し入った。
排水検査を装って居間に侵入した少年Aは、女性を引き倒し馬乗りになって強姦しようとしたが、女性の激しい抵抗を受けたため、女性を殺害した上で強姦の目的を遂げようと決意。
頸部を圧迫して窒息死させた。
その後少年Aは女性を屍姦し、傍らで泣きやまない娘(生後11カ月)を殺意をもって床に叩きつけるなどした上、首に紐を巻きつけて窒息死させた。
そして女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。
こんなことをされた被害者遺族(父親)が犯人への憎しみを発露するのは当然でしょう。
すべては犯人が悪いのであって、あたかも被害者遺族の感情的な発言が死刑廃止制度への議論の妨げになるような意見は本末転倒で、この人は被害者への感情移入や思いやりがすっぽり抜けている、死刑廃止原理主義者だと確信しました。
アムネスティ(アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)は、国際連合との協議資格をもつ、国際的影響力の大きい非政府組織(NGO)である。国際法に則って、死刑の廃止、人権擁護、難民救済など良心の囚人を救済、支援する活動を行っている。和名は「国際人権救援機構」)の人道主義の多くの主張は共感できますが、やはりこの問題だけは賛同できません。
ところで、世界の死刑制度はどうなっているのでしょうか?
千日ブログ(http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-1013.html)から転載させていただきます。
1. 全面的に廃止した国
(法律上、いかなる犯罪に対しても死刑を規定していない国)
アルバニア、アンドラ、アンゴラ、アルゼンチン、アルメニア、オーストラリア、オーストリア、アゼルバイジャン、ベルギー、ブータン、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、ブルンジ、カンボジア、カナダ、カボベルデ、コロンビア、クック諸島、コスタリカ、コートジボアール、クロアチア、キプロス、チェコ共和国、デンマーク、ジブチ、ドミニカ共和国、エクアドル、エストニア、フィンランド、フランス、グルジア、ドイツ、ギリシャ、ギニアビサウ、ハイチ、バチカン市国、ホンジュラス、ハンガリー、アイスランド、アイルランド、イタリア、キリバス、キルギスタン、リヒテンシュタイン、リトアニア、ルクセンブルク、マケドニア、マルタ、マーシャル諸島、モーリシャス、メキシコ、ミクロネシア、モルドバ、モナコ、モンテネグロ、モザンビーク、ナミビア、ネパール、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ニウエ、ノルウェー、パラウ、パナマ、パラグアイ、フィリピン、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、ルワンダ、サモア、サンマリノ、サントメプリンシペ、セネガル、セルビア(コソボ含む)、セーシェル、スロバキア、スロベニア、ソロモン諸島、南アフリカ、スペイン、スウェーデン、スイス、東チモール、トーゴ、トルコ、トルクメニスタン、ツバル、ウクライナ、英国、ウルグアイ、ウズベキスタン、バヌアツ、ベネズエラ
なんか以前見た図では、もう世界は死刑廃止だよだった気がしたのですが、今見てみるとそういうわけでもありません。
まあ、世間では「世界」や「海外」と言うと「欧米」を指すのが常識です。
そういう意味では、死刑量産国のアメリカがいるものの、ほとんどの国で「あらゆる犯罪に対する死刑を廃止」ですので、「世界」ではほぼ死刑制度が廃止されていると言えそうです。
2. 通常犯罪のみ廃止した国
(軍法下の犯罪や特異な状況における犯罪のような例外的な犯罪にのみ、法律で死刑を規定している国)
ボリビア、ブラジル、チリ、エルサルバドル、フィジー、イスラエル、カザフスタン、ラトビア、ペルー
「欧米」というくくりをしたので触れておくと、旧ソ連、バルト三国の一つ、ラトビアがここに存在しています。
文化的にはヨーロッパっぽさのあるイスラエルもここです。
3. 事実上の廃止国
(殺人のような通常の犯罪に対して死刑制度を存置しているが、過去10年間に執行がなされておらず、死刑執行をしない政策または確立した慣例を持っていると思われる国。死刑を適用しないという国際的な公約をしている国も含まれる。)
アルジェリア、ベニン、ブルネイ、ブルキナファソ、カメルーン、中央アフリカ共和国、コンゴ共和国、エリトリア、ガボン、ガンビア、ガーナ、グレナダ、ケニア、ラオス、リベリア、マダガスカル、マラウィ、モルディブ、マリ、モーリタニア、モロッコ、ビルマ(ミャンマー)、ナウル、ニジェール、パプアニューギニア、ロシア、大韓民国、スリランカ、スリナム、スワジランド、タジキスタン、タンザニア、トンガ、チュニジア、ザンビア
ここに載っているロシアについて、「1996年8月に死刑の執行停止を導入した。しかしながら、チェチェン共和国では1996年から1999年の間に執行があった」としています。
これはWikipediaの分類だと、「あらゆる犯罪に対する死刑を廃止」になっていました。
4. 存置国
(通常の犯罪に対して死刑を存置している国)
アフガニスタン、アンティグアバーブーダ、バハマ、バーレーン、バングラデシュ、バルバドス、ベラルーシ、ベリーズ、ボツワナ、チャド、中国、コモロ、コンゴ民主共和国、キューバ、ドミニカ、エジプト、赤道ギニア、エチオピア、グアテマラ、ギニア、ガイアナ、インド、インドネシア、イラン、イラク、ジャマイカ、日本、ヨルダン、クウェート、レバノン、レソト、リビア、マレーシア、モンゴル、ナイジェリア、朝鮮民主主義人民共和国、オマーン、パキスタン、パレスチナ自治政府、カタール、セントキッツネビス、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、サウジアラビア、シエラレオネ、シンガポール、ソマリア、スーダン、シリア、台湾、タイ、トリニダード・トバゴ、ウガンダ、アラブ首長国連邦、米国、ベトナム、イエメン、ジンバブエ
ここでも欧米を探すと、ベラルーシという旧ソ連でヨーロッパの国があります。
おそらくアメリカ以外だと、欧米で唯一の存置国……だと思います。
確かに死刑制度存置国には、同列にされたくない国家でいっぱいです。
宗教心の薄い日本人には、贖罪(しょくざい)や懺悔(ざんげ)、告解などの罪を犯した者が精神的に解放できるよりどころが希薄です。
要は日本人の気質や国民感情にふさわしい制度であればいいわけです。
こうした問題は、他国の動向に左右される必要はありません。
皆さんも時間のあるとき、真剣に考えてみてください。
では、音楽の時間です。
ブログ内容が内容だっただけに、スピリチュアルな曲を!
3・11の応援ソングでもあります。
山下達郎 希望という名の光
でも、どうでもいい、どちらでもいい、ではなく是非とも自分なりに真剣に考えてみてください。
今日は少し長いです。
死刑執行で日本は孤立する、アムネスティが強く非難
IBTimes
アムネスティ・インターナショナル日本 小林薫死刑囚ら3人の死刑執行を受けて、アムネスティ・インターナショナル日本支部は21日、抗議声明を発表し、「今回の死刑執行は、死刑制度に固執し、政権交代後の執行を恒常化させようとする政府と法務省の意思表示」であるとして強く非難した。
同支部は、「日本政府は、国連の総会決議や人権理事会の普遍的定期審査、そして複数の国連人権機関から、繰り返し、死刑の執行停止と死刑廃止に向けた取り組みを強く勧告されていることを忘れてはならない」と述べ、世界の死刑廃止の潮流に背を向けると、日本は孤立することになると警告した。
また、アムネスティ国際ニュースも、今回の自民党・新政権による死刑執行は世界の潮流に逆行する「不穏な動き」であるとして警戒。
第1次安倍内閣では約1年間で10人の死刑が執行されたことを踏まえ、今内閣でも死刑執行の頻度が高まるのではないかと懸念を表明している。
アムネスティの調査によると、現在、全世界の7割に当たる140か国が、法律上または事実上死刑を廃止している。
また、昨年12月、国連総会で、2007年以降で4度目となる死刑執行停止決議が、過去最多の111か国の賛成で可決。
同団体は「決議は、廃止を視野に死刑の執行を停止することや、死刑を適用する罪名を減らすことなどを求めている」と説明している。
一方、産経ニュースによると、谷垣法相は、制度存続に対するに対して「国際的動向より、治安維持、国民の安心安全の確保を考えるべきだ」と述べた。
この記事によせられたコメントを一部掲載させていただきます。
ほとんどが批判的な意見でした。
国民性もあるんだから無理な相談だよ。
ついこないだまで、仇討ちが公認されていたんだから。
大体、死刑を無くす前に死刑になるような事をしなければ良いだけ。
死刑ゼロを目指すのは廃止じゃなくて犯罪の方。
死刑が無くなったら刑務所まで行って復讐しちゃう人も出てくると思う。
自分はこの「アムネスティ・インターナショナル」が大嫌いだ。
「地球上の誰もが人権を有している」「なぜ人権が大事なのか」をコンセプトとして様々なメッセージを発信しているが、犯罪などで殺害された被害者の人権にはほとんど触れずに、加害者である殺人者(人権を奪った犯罪者)への死刑は彼らの人権を奪う野蛮な行為だと批判する夢想論主義団体だからだ。
更生を期待できない心理的、精神的に破綻した異常者もいる現実や死刑廃止を訴える国々の治安レベル。
これらの現実が彼らの主張が夢想であると証明している。
今後日本で凶悪犯罪をしたら必ず死刑にしますなので凶悪犯罪者は日本に入国しないように!
それより麻薬所持で死刑にする中華人に文句言え!
罪の無い子共を殺したり無差別殺人をしたり自分が自殺出来ないからと言って人を殺して死刑を望むとか言って結局刑務所で無駄食いして生きながらえたくなり再控訴しようとしても遅い!
凶悪犯罪は速やかに死刑でいい!
問答無用で殺された人の無念を考えれば当然だ!
死刑になる奴には理由があるけど、死刑になっている殺人犯に殺された方には理由がないんだよ。
その本人や家族の痛みがアムネスティには分かってるのか?
日本が孤立する、孤立しないの問題じゃなくて、死刑になる奴にはそれ相応の理由があるところが大事なんじゃないのか?
自分の事だけじゃなく、相手の立場になって物事を考える日本人の考え方は、世界の先端を行ってるよ。
そういう意味では孤立もありだろう。
そんなに孤立することが嫌なら、憲法九条にも反対しろ。
戦地で法律の壁に阻まれ日本人を助けられないのは日本くらいでしょ。
「苦しんでいる人びとを助けたい」アムネスティ日本。
なら被害者家族を助けろよ!
公正を期すために日本アムネスティ支部の理事長である藤田真利子氏の学習会での発言を掲載しておきます。
2006年9月9日、アムネスティ死刑廃止ネットワーク東京は、翻訳家でアムネスティの理事でもある藤田真利子さんを迎えて「文学と死刑廃止」というテーマでお話をしていただいた。
以下に、藤田さんのお話と質疑応答の概要を報告する。
-------------------------------------------------
死刑廃止の論拠について考えるとき、私の場合、「国家に人を殺す権力を与えてはならない」というのがまず最初に来る。
「人を殺してはならない」というのが一番に来るのではない。
国家が人を殺す権力を持つことに大変拒否感がある。
これは子どもの頃から外国文学を好んで読んできた影響だろうと思う。
たとえばカミュは、アルジェリアの独立運動のときにフランスが抑圧して、独立しようとしている人たちを死刑にしたことを書いた。
また、スペインの独裁政権、ナチス、フランスのレジスタンス等々を題材とした文学では、愛する人、友人、仲間が死刑になるといった政治的なものが非常に多く、そこに出てくる死刑はまさに「悪」であり、死刑とは悪い人が使う武器であるというふうに見えた。
このように、自分の死刑に対するイメージを形作ってきたものはやはり本、物語であり、私の死刑廃止への思いは、その刷り込みがとても大きかったのだろうと感じている。
もうすぐ死刑廃止か、という動きになっている韓国は、国会で死刑廃止派の議員が多数を占めている。
独裁政権の時代に自身が死刑を宣告され、牢に行った経験のある国会議員が大勢いるというのが大きく関係している。
翻って日本を見ると、確かに日本は第2次大戦中、大変な弾圧があった。
でも、政権は変わらず、地続きである。
他の国だと、当時弾圧されていた人が日のあたるところに行って、「さあもう自由だ」と、続いて「じゃあ死刑を廃止しよう」、みたいな流れになったりするが、日本の場合は、たとえば一番弾圧されていたのが共産党であるが、政権が変わって共産党の人たちが「さあ俺たちの時代だ、死刑廃止するぞ」となることはなかった。
日本での死刑廃止の実現について考えるとき、そういった難しい状況が確かにあると思う。
死刑廃止を訴えるときに、いくら理論で訴えても、理屈ではやり込めることができても、絶対納得してもらえなかったという経験が皆さんにもあるのではないか。
こういった、人の生死にかかわる問題で人を動かすのは、やはり理屈ではなく感情だと思う。
とても小さな例えになってしまうが、子どもが小中学校に行っている頃、PTAで広報誌を作る係をやっていた。
学習指導要領が変わったとき、「こんなものを押し付けてきた」みたいな記事を私が書いたところ、PTA会長が突然口を出してきて、それを書くなと言う。他の委員のお母さんたちに、「PTA会長が口を出すのはおかしいんじゃないか」という話をいくらしても、お母さん方は波風立てたくないから、「差し替えたらいいじゃない」みたいなことを言う。
あまり悔しくて、悔し涙が流れてしまった。
そうしたら、みんなころっと態度が変わって、結局そのまま出せたという経験がある。
そのときに思った。
涙って強力だなあと(笑)。
以上は非常に小さい経験だが、いま社会学などでも「感情の社会学」と言って、「感情というのは、個人の中に起きる、からだの生理的な変化といったことだけではない」ということが言われている。
感情についていろいろな研究をしている学問があり、それによれば、人は社会を通して感情についての文化規範を身につけるという。
自分と対象、自分と状況との関係に、感情の語彙――「私は怒っている」とか「これは悲しい」とか、そういったもの――を当てはめレッテル貼りをして、その貼ったレッテルに、その後は左右されると。
たとえば、お葬式に行けば悲しくなるとか、お葬式で故人の遺影を見ると悲しくなるとか、そういうのは最初から自分のなかから出てくるというよりは、そういう状況を経験してきて、社会の中で「こういうときは悲しいものだ」というものが、自分の感情として感じられるようになってくるのだ、というような学問がある。
光市の母子殺害事件で、被害者の遺族の方が非常に感情的に訴えておられた。
そういう感情が強いと、社会はすごく感情的に動かされ、たとえば、人を殺してはならないという死刑廃止運動の主張と、人を殺してはならないという社会の規範、同じことを言っても、実際にあった殺人事件のほうにばかり味方をするようになってしまう。
その社会のいろんな変化について、東京創元社の「ミステリーズ」という小説雑誌に、ミステリー評論家でミステリー作家でもある笠井潔さんという方が『ぼくのメジャースプーン』(辻村深月)という小説の評論で次のように書いている。
探偵小説では犯罪という悪が作品の中心に位置してきた。
しかし、探偵小説がジャンルとして、悪や犯罪の意味するものを独自に追求してきたとはいえない。
近代的な法思想を前提に、大多数の探偵小説は書かれてきた。
しかし近代的人間が消失しようとしている現在、罪と罰をめぐる近代的な制度や観念の失効もまた不可避だろう。
犯罪や悪の意味するところが、もはや自明とはいえない異様な新事態が到来しつつある。
たとえば殺人事件の被害者家族が、被告への死刑判決を裁判官に要求する。
被害者家族の涙ながらの訴えをマスコミは同情的に報道し、被害者の救済や犯罪の重罰化を求める「世論」が勢いを増してきた。
新聞の論説や、法思想に通暁しているはずの「識者」もまた、被害者家族の発言や「世論」に棹さすような発言を繰り返している。
ここに書かれているのは、
「近代的な法思想では、犯罪は被害者への侵犯ではなく法=国家への侵犯であり、法律というのは被害者に対する犯罪というよりも社会に対する犯罪だということで国家が代わって処罰する。だから、被害者が直接報復するようなことは許されなくなっている。そういう近代的な法思想のもとでの死刑は、犯罪に対する最大の報復としての殺人ではなく、社会からの永久追放の手段である。だから本当は、法律家や大学教授など識者といわれる人は「個人の復讐をするわけではない」と説くべきなのに、それはいまやられていない」
というようなこと。
この『ぼくのメジャースプーン』という小説は子どもがある犯罪に対する報復を自分でするという話で、どんな罰だったら釣り合いが取れているんだろう、というようなことを子どもがとても悩む。
本当は善き個人が報復するというような概念。
笠井氏が指摘しているように、社会が変わっているのだ。
ミステリーでよくあるパターンというのが、非常に残虐な殺人を描写し、その犯人が死刑にならなかったことに怒り、自分で報復するというもの。
ただここで大きいポイントがあって、そのパターンのミステリーを書いているのは日本とアメリカだけ。
ヨーロッパのように死刑が廃止されている国では、誰かが死刑にならなかったからすごく怒るということが一般的でない。現実に死刑がない国では、「死刑にならない」ということに対して被害者遺族が恨みを溜め込むというのはあまりないようだ。
死刑のある国とない国とで、そんな違いがあるように思う。
ミステリーで異常犯罪のパターンの本は多い。
犯人を憎み、そんなやつ許せないと思わせるような小説というのは確かに書きやすいのだろうけれど、それってどうなんだろう? と思う一方で、でもそういうのはミステリー作家が社会の動きを見て、影響されて書いているのだという点も指摘しておきたい。
笠井氏は上記評論中で、「どうか犯人を死刑にしてくださいと国家に求めるのは、倒錯である。被害感情、報復感情の無力な吐露からは、なにも生まれない。決闘権の回復といった法思想の全面的な組み直しが、いまのところ一挙的には難しいとしても、被害者家族は絞首台の処刑ボタンを委ねよという運動を開始することはできる」などと書いており、この人は一体? と思ってしまうのだが、でも、犯罪と処罰について、社会の風潮にそのまま流され影響されて一般受けのするミステリーを書く人よりは、犯罪と処罰ということについての社会の意識が変化しているということを意識化してここに出したというのはすごく意味のあることではないかと思う。
さっきから「感情が人を動かす」という話をしているが、私もバダンテールさんの『死刑執行』と『そして死刑は廃止された』を読んだときに、ものすごく感動した。
(注:ロベール・バダンテールはフランスが死刑廃止をした際の法務大臣。『死刑執行』は1996年新潮社から、『そして死刑は廃止された』は2002年作品社から、ともに藤田真利子さんの訳により刊行された。)
日本社会で、死刑廃止の側が感動できる物語を提供できるとしたらその辺しかないのかなと思う。
安田好弘さんのように、信念を持って死刑を求刑された被告人のためにがんばる弁護士の闘いと、それからあとは政治家の闘い。
フランスで死刑廃止をしたときは、60~70パーセントは死刑廃止には反対していたわけだから、やはり政治家のイニシアチブがすごく必要だと思う。
もうひとつ、日本での可能性というと宗教か。
キリスト教の殉教の物語とか。
堀田善衛の『海鳴りの底から』は島原の乱を書いたものだが、あの拷問のすさまじさ。
きょう学習会で話をするにあたって、「いま、死刑廃止とはどんどん反対の方向になっていってしまって、日本での死刑廃止運動は一体どのようにしていったらいいのだろう、被害者遺族の怒りというものに対して私たちは何で対抗できるだろう」ということをすごく考えたのだが、やはり冷静に理論を語って「抑止力がない」といった話をするのではなく、情熱一本槍で押すしかないのかなと思った。
そして、政治家の人には「ぜひ、死刑を廃止した政治家になってください」と。
それから、死刑廃止に情熱を傾ける弁護士の物語を世の中に伝えることができないか。
いろいろ死刑のことが出てくる本など読み返してみても、「ああ、これは日本には当てはめられない、だめだ」ということばかり思ってしまったのだが、実際に当てはめられなくても、一人ひとりの気持ちを変える力として、そういう物語があるのではないか。
<質疑応答>
このあとの質疑応答では、参加者から「自分が身内を殺された立場になったらやはり死刑を求めてしまうのではないかと思う」という意見が出たのに対し、藤田さんがまず自分の考えを述べた後、出席者たちにそれぞれの死刑廃止論を語るよう促した。
【藤田】
たとえば私が家族を殺されたとする。
犯人が目の前にいたら、「殺してやりたい」ときっと思うだろう。
でもそのときそばに誰かがいて私を止めたとしたら、そのときは怒るかもしれないけれど、あとになって「ああ、殺さなくてよかった」と思うはず。
相手が誰であろうと、人を殺したくはない。
でも死刑というのは、国家が代わりにやるとしても、結局、自分が殺しているのと同じなのではないか。
それから、いままで死刑というはどの国にもあって、火あぶりとか、体中の骨を折って何日も放置して殺すとか、徳川時代だと「のこぎり引き」と言って通りかかった人が一回ずつ首を引いていくとか、ひどいのもたくさんあった。
それでも殺人は世の中からなくならない。
私たちは人を殺してはいけないと思うし、そういうふうに訴えてもいる。
けれども、世の中の殺人を1件1件止めることなど到底できない。
殺人というのは大体が刹那的に起こるもので、私たちは殺人はなくなってほしいとは思うけれど、それを止めることはできない。
でも、死刑という殺人は、なんとかすれば私たちに止められる。
計画的に人を殺すのが死刑であって、さっきから言っているとおり、国家がその力を持つということには大変抵抗を感じる。
実際、第2次世界大戦中に、自分の信念を貫くために弾圧で殺された人もいるわけで、「日本は平和だからだいじょうぶ」というふうには私には思えない。
森巣博さんが著名人メッセージで書いている。
死刑執行は無作為に選んで国民がやれと。
そうやって殺せるかと。
殺せませんよね。
でも実際は、私たちのためにということで人を殺している。
そして、それで死刑になったからといって被害者家族の気持ちは癒されるかということ。
まず率直に上記発言を読んで、アムネスティ日本支部の理事である方の見識がこの程度のものかと驚きました。
以前にも死刑存続の可否についてこのブログでとりあげましたが、やはり被害者側にたつのか、加害者側にたつのか、そのどちらでもなく人道主義に徹するのか、によって主張は変わってきそうです。
私個人の意見は、死刑は存続すべきだと思っています。
それは、そもそも命には命でしか償われないものだし、個人の仇討ちが許されていない以上、国こそがその嫌な役回りを担当すべきだと思うからです。
では、彼女の発言の中から、死刑反対の根拠となるキーワードをピックアップしてみましょう。
・死刑廃止の論拠について考えるとき、私の場合、「国家に人を殺す権力を与えてはならない」というのがまず最初に来る。「人を殺してはならない」というのが一番に来るのではない。
恐ろしいことを平気で言う人ですね。
人を殺すのはいけない、従って国家も人を殺してはいけない、という理屈ならまだわかります。
しかし彼女の場合は、国家に人を殺す権力を与えてはならない、というのが先に来ています。
おそらく、ナチスのユダヤ人虐殺や、日本での戦時中の赤狩り(共産党員や反政府分子だと見られたら拷問虐殺された)などを念頭に置いての発言だと思いますが、民主主義の浸透した日本という現代社会では杞憂です。
まずは、人を殺してはならない、ということを主張の根幹にしないと、単なる反国家権力者にすぎません。
彼女の主張が最も有用なのは、対中国や北朝鮮でしょうね。
・人の生死にかかわる問題で人を動かすのは、やはり理屈ではなく感情だと思う
・冷静に理論を語って「抑止力がない」といった話をするのではなく、情熱一本槍で押すしかないのかなと思った
理論ではなく感情論、つまり死刑廃止論という大前提のためにご自分の感情論を貫くといことは、逆の感情(光市の母子殺人事件の被害者の家族が感情的な言葉を発したと指摘)の存在も尊重しなくては不公平です。
あくまでも感情論にこだわるのであれば、自分の感情だけが正しくて、違った感情の人を認めないというのは身勝手すぎます。
・現実に死刑がない国では、「死刑にならない」ということに対して被害者遺族が恨みを溜め込むというのはあまりないようだ
死刑制度のない国では、そもそも死刑という選択肢がないわけだから、そこから発生する感情は起きようがないし、被害者遺族の感情を勝手に忖度(そんたく)してもらっても困ります。
・死刑というのは、国家が代わりにやるとしても、結局、自分が殺しているのと同じなのではないか
・死刑になったからといって被害者家族の気持ちは癒されるかということ
被害者が直接加害者を殺せないから国家が替わって行っているし、多くの被害者遺族の気持ちのガス抜きにはなっていると思われます。
しかし最も許せないのは、光市母子殺人事件の被害者遺族の発言についてです。
光市の母子殺害事件で、被害者の遺族の方が非常に感情的に訴えておられた。
そういう感情が強いと、社会はすごく感情的に動かされ、たとえば、人を殺してはならないという死刑廃止運動の主張と、人を殺してはならないという社会の規範、同じことを言っても、実際にあった殺人事件のほうにばかり味方をするようになってしまう。
まず、この事件の概要ですが(ウイッキペディア)、
1999年(平成11年)4月14日の午後2時半頃、当時18歳の少年Aが山口県光市の社宅アパートに強姦目的で押し入った。
排水検査を装って居間に侵入した少年Aは、女性を引き倒し馬乗りになって強姦しようとしたが、女性の激しい抵抗を受けたため、女性を殺害した上で強姦の目的を遂げようと決意。
頸部を圧迫して窒息死させた。
その後少年Aは女性を屍姦し、傍らで泣きやまない娘(生後11カ月)を殺意をもって床に叩きつけるなどした上、首に紐を巻きつけて窒息死させた。
そして女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。
こんなことをされた被害者遺族(父親)が犯人への憎しみを発露するのは当然でしょう。
すべては犯人が悪いのであって、あたかも被害者遺族の感情的な発言が死刑廃止制度への議論の妨げになるような意見は本末転倒で、この人は被害者への感情移入や思いやりがすっぽり抜けている、死刑廃止原理主義者だと確信しました。
アムネスティ(アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)は、国際連合との協議資格をもつ、国際的影響力の大きい非政府組織(NGO)である。国際法に則って、死刑の廃止、人権擁護、難民救済など良心の囚人を救済、支援する活動を行っている。和名は「国際人権救援機構」)の人道主義の多くの主張は共感できますが、やはりこの問題だけは賛同できません。
ところで、世界の死刑制度はどうなっているのでしょうか?
千日ブログ(http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-1013.html)から転載させていただきます。
1. 全面的に廃止した国
(法律上、いかなる犯罪に対しても死刑を規定していない国)
アルバニア、アンドラ、アンゴラ、アルゼンチン、アルメニア、オーストラリア、オーストリア、アゼルバイジャン、ベルギー、ブータン、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、ブルンジ、カンボジア、カナダ、カボベルデ、コロンビア、クック諸島、コスタリカ、コートジボアール、クロアチア、キプロス、チェコ共和国、デンマーク、ジブチ、ドミニカ共和国、エクアドル、エストニア、フィンランド、フランス、グルジア、ドイツ、ギリシャ、ギニアビサウ、ハイチ、バチカン市国、ホンジュラス、ハンガリー、アイスランド、アイルランド、イタリア、キリバス、キルギスタン、リヒテンシュタイン、リトアニア、ルクセンブルク、マケドニア、マルタ、マーシャル諸島、モーリシャス、メキシコ、ミクロネシア、モルドバ、モナコ、モンテネグロ、モザンビーク、ナミビア、ネパール、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ニウエ、ノルウェー、パラウ、パナマ、パラグアイ、フィリピン、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、ルワンダ、サモア、サンマリノ、サントメプリンシペ、セネガル、セルビア(コソボ含む)、セーシェル、スロバキア、スロベニア、ソロモン諸島、南アフリカ、スペイン、スウェーデン、スイス、東チモール、トーゴ、トルコ、トルクメニスタン、ツバル、ウクライナ、英国、ウルグアイ、ウズベキスタン、バヌアツ、ベネズエラ
なんか以前見た図では、もう世界は死刑廃止だよだった気がしたのですが、今見てみるとそういうわけでもありません。
まあ、世間では「世界」や「海外」と言うと「欧米」を指すのが常識です。
そういう意味では、死刑量産国のアメリカがいるものの、ほとんどの国で「あらゆる犯罪に対する死刑を廃止」ですので、「世界」ではほぼ死刑制度が廃止されていると言えそうです。
2. 通常犯罪のみ廃止した国
(軍法下の犯罪や特異な状況における犯罪のような例外的な犯罪にのみ、法律で死刑を規定している国)
ボリビア、ブラジル、チリ、エルサルバドル、フィジー、イスラエル、カザフスタン、ラトビア、ペルー
「欧米」というくくりをしたので触れておくと、旧ソ連、バルト三国の一つ、ラトビアがここに存在しています。
文化的にはヨーロッパっぽさのあるイスラエルもここです。
3. 事実上の廃止国
(殺人のような通常の犯罪に対して死刑制度を存置しているが、過去10年間に執行がなされておらず、死刑執行をしない政策または確立した慣例を持っていると思われる国。死刑を適用しないという国際的な公約をしている国も含まれる。)
アルジェリア、ベニン、ブルネイ、ブルキナファソ、カメルーン、中央アフリカ共和国、コンゴ共和国、エリトリア、ガボン、ガンビア、ガーナ、グレナダ、ケニア、ラオス、リベリア、マダガスカル、マラウィ、モルディブ、マリ、モーリタニア、モロッコ、ビルマ(ミャンマー)、ナウル、ニジェール、パプアニューギニア、ロシア、大韓民国、スリランカ、スリナム、スワジランド、タジキスタン、タンザニア、トンガ、チュニジア、ザンビア
ここに載っているロシアについて、「1996年8月に死刑の執行停止を導入した。しかしながら、チェチェン共和国では1996年から1999年の間に執行があった」としています。
これはWikipediaの分類だと、「あらゆる犯罪に対する死刑を廃止」になっていました。
4. 存置国
(通常の犯罪に対して死刑を存置している国)
アフガニスタン、アンティグアバーブーダ、バハマ、バーレーン、バングラデシュ、バルバドス、ベラルーシ、ベリーズ、ボツワナ、チャド、中国、コモロ、コンゴ民主共和国、キューバ、ドミニカ、エジプト、赤道ギニア、エチオピア、グアテマラ、ギニア、ガイアナ、インド、インドネシア、イラン、イラク、ジャマイカ、日本、ヨルダン、クウェート、レバノン、レソト、リビア、マレーシア、モンゴル、ナイジェリア、朝鮮民主主義人民共和国、オマーン、パキスタン、パレスチナ自治政府、カタール、セントキッツネビス、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、サウジアラビア、シエラレオネ、シンガポール、ソマリア、スーダン、シリア、台湾、タイ、トリニダード・トバゴ、ウガンダ、アラブ首長国連邦、米国、ベトナム、イエメン、ジンバブエ
ここでも欧米を探すと、ベラルーシという旧ソ連でヨーロッパの国があります。
おそらくアメリカ以外だと、欧米で唯一の存置国……だと思います。
確かに死刑制度存置国には、同列にされたくない国家でいっぱいです。
宗教心の薄い日本人には、贖罪(しょくざい)や懺悔(ざんげ)、告解などの罪を犯した者が精神的に解放できるよりどころが希薄です。
要は日本人の気質や国民感情にふさわしい制度であればいいわけです。
こうした問題は、他国の動向に左右される必要はありません。
皆さんも時間のあるとき、真剣に考えてみてください。
では、音楽の時間です。
ブログ内容が内容だっただけに、スピリチュアルな曲を!
3・11の応援ソングでもあります。
山下達郎 希望という名の光