加藤氏の朝生での発言は傾聴に値する内容でした。
しかし、彼も学歴コンプレックスのかたまりだったのでしょうか?
週刊文春によれば、「中国でもっとも有名な日本人」として知られ、日本や中国でテレビなどに出演していた国際コラムニストの加藤嘉一氏が自身の経歴を詐称していたことが分かった。
10月31日付で中国新聞社が報じた。
加藤氏はこれまで、「東京大学に合格したが、自ら入学を放棄した」とする旨の発言をしていたが、当発言がうそだったとして、自身の公式サイトに謝罪文を掲載した。
週刊文春は、加藤氏の経歴について、ほかにも「疑わしい点がある」と報道。
1つ目は自身が主張する公費派遣留学生かどうかという点だが、日本で発売された著書と中国で発売された著書で記述が異なっている。
2つ目は北京大学朝鮮半島研究センター研究員との肩書きについて、深センの地元メディアによれば、北京大学には同名称の研究センターは存在しない。
3つ目は、一部書籍にて、肩書が「慶応大学SFC研究所上席研究員」となっていることについて、週刊文春は「実際は訪問研究員であり、上席研究員の職務に就いた形跡は確認できない」と指摘した。
週刊文春の報道を受け、加藤氏は10月31日、自身の公式サイトに「お詫びとご報告」とする文章を掲載。
「記事でご指摘の通り、私が東京大学に合格・入学した事実はなく、私の過去の言動から皆様に誤解を与えてしまいましたことに、心より深くお詫び申し上げます(原文ママ)」と詐称の事実を認めた。
中国で広く知られる加藤氏だけに、経歴詐称の問題は中国で大きな注目が集まり、各大手ポータルサイトも関連報道を大きく扱っている。
加藤氏は自身が開設している微博(中国版Twitter)アカウントでも詐称を認め、謝罪する文章を投稿した。
加藤氏のアカウントには150万を超えるフォロワーがいるが、フォロワーからは「中国から出ていけ」、「日本人全体の顔に泥を塗った」など、詐称を非難する声が殺到した。(編集担当:及川源十郎)
もう少し詳しくウィッキペディアで調べると、
学歴、職歴に関する記述がメディアによって異なり、また本人の口から「東京大学に合格したが蹴った」、「ハーバード大学にも合格したが東京大学に入学し、退学して北京大学に来た」などと日中両国にて発言しているが、下記の点などにおいて現在まで信頼できる経歴は確認できていない。
日中の情報格差を狡猾に利用した悪質な行為と批判が高まっている。
2012年11月8日号の週刊文春記事における同指摘を受け、本人のオフィシャルサイトにて経歴問題について事実を認め謝罪した。
「東京大学」について
公式サイトでは「受験直前に、山梨学院大と北京大が学術協定を結ぶという話を聞きつけ」て両者の会談の場を訪れたとあるが、山梨学院大学と北京大学国際関係学院が学術協定を結んだのは2001年(平成13年)で、高校3年生だった2002年(平成14年)にそのようなことは不可能である。
2009年(平成21年)1月発行の《南方人物周刊》(总第143期)インタビューでは、「最終的に、東京大学法学部に合格した。2003年、東京大学で一人の北京大学教授と出会い、19歳の加藤嘉一は法学部を退学、島国日本からある巨大な国家―ー中国に飛び立った。」(最后他考上了东京大学法学系。2003年,在东京大学认识了北大的一位老师,19岁的加藤嘉一从法学部退学。从岛国日本飞抵中国――ー一个巨大的国家)と記載されている。
2010年(平成22年)3月に放送された騰訊網の番組では、「私は高校卒業後、東京大学に受かった。日本では、東大合格すなわち人生の勝者を意味する。だが私は自ら(東大を)蹴った。これについては相当の反発も受けた」(我当时高中毕业,考上了东京大学,对于日本来说,考上东大你已经成为赢者了。但是我主动放弃,当时受到的排斥是非常大的)と発言している。
2010年(平成22年)11月発売の雑誌《大学生》では、“東大在学中の経験談”を語っている。
「東大時代、周りにいる99%の同級生は社会の底辺でアルバイトをしていた。だから中国に来た加藤も当然の如く、北京大学校門前にあるマクドナルドでのアルバイトを選んだ」(在东大时,加藤嘉一身边99%的同学都有在社会底层打工的经历,所以来到中国后他依然习惯性地选择去北大门口的麦当劳打工)。
ちなみに東大の学内調査では、男子学生が携わるアルバイトの76.1%は、家庭教師や塾講師である。
また、中国のマクドナルドが外国人を店員として在留資格に反してまで雇うことはまずない。
2011年(平成23年)3月に北京大学国際合作部留学生辦公室が発行した《留学北大》によると、「東京大学に入学してまもなく、北京大学の教授と知り合う。教授は彼を大変気に入り、公費留学を申請するよう求めた」(刚考上东京大学的他在东大认识了一位北大教授,教师非常喜欢他,邀请他申请公派留学)となっている。
2011年(平成23年)5月に受けた鳳凰網の取材では、「2003年、彼はスポーツ特待生として東京大学に合格した」(2003年,加藤以体育特长生的身份考取了东京大学)となっているが、東京大学はスポーツ推薦制度を導入していないので、入学は不可能である。
仮に東京大学に入学したのなら、「2003年のSARSが猛威を振るう中、彼は北京大学の国際関係学院に入学」という体験は出来ない。
自著《从伊豆到北京有多远》(江苏文艺出版社)には、「北京に来た時期はすでにSARSが発生しており、毎日、SARSとイラク戦争のニュースばかりだった。
私はネットでSARSに関する北京の最新情報を収集した」(由于我来北京的时候著名的“非典”已经发生,那段时间天天都是“非典”和伊拉克战争的新闻,每天都会上网去了解北京“非典”的最新情况)とある。
WHOが新型肺炎を「SARS」と命名したのは2003年(平成15年)3月15日、イラク戦争開戦は同3月20日、東京大学入学式は同4月11日。「北京大学教授と東大構内で出会い、東大を中退して北京大へ」という逸話には矛盾が生じる。また東京大学では学士入学でもないかぎり直接法学部に入学することはできず、1~2年次は原則学生の全員が教養学部に所属することとなる。
そのため19歳で法学部を退学することは不可能である。
最近は中国でも加藤に対する経歴への疑惑が広がり、中国の検索サイトや各種ブログなどでも、その様子が容易に把握できる。
2012年(平成24年)4月、福建省厦門市の華僑大学で行われた講演会にて聴衆より「高校卒業後、本当に東京大学へ合格したのか?」(你高校毕业后是否考上过东京大学吗)との質問を受け、「ここでの話、私の母校は北京大学。東京大学とは何の関係もない」(我在这里其实说,我的母校是北京大学,我跟东京大学没有任何关系)と話題をそらすように答えている。
2012年(平成24年)6月に放送された、加藤についての問題を検証するTV番組《加藤嘉一:一个“混”在中国的日本人》[18]では、加藤の日中間における言論の矛盾と共に、加藤の経歴についての問題点や矛盾も指摘された。
番組の中で「既に今の加藤の声望は、胡錦濤に面会したとか(様々な人から)毎日数百通の手紙を受け取るといったような自慢や誇張によって自分を大きく見せる必要はないくらい大きくなっている。
ある人は加藤のことを「中国人は彼が神壇を作るのを助けた。たとえ彼が神でなくても、人々にそれが真実だと思わせた。しかし、今では彼は事実とあまりにかけ離れてしまった。」と言った。」(而加藤目前的声望已经无需要通过胡锦涛接见和每天收到几百封信这样的自诩来提高。有人说,“中国人为他造的神坛。哪怕他不是神,也会让人觉得真实,但是如今他偏离事实太远)と加藤の発言に信頼性がないことを批判している。
やはりここまで嘘を広げてしまうと、今後の自身の発言内容への信頼性にも影響してくるでしょう。
この虚言癖さえなければ、とても優秀な人なんですが・・・
例のiPS細胞から心筋細胞を作り、重症の心臓病患者に移植したという森口尚史(ひさし)氏の経歴詐称に引き続き発覚しましたが、こうした詐称が頻繁に起こるのは、やはり肩書きに一目置く国民性ゆえの悲しい性(さが)なのでしょうか?
では、音楽の時間です。
特にこの曲はボーカルも含めてスピッツと言われたら信じちゃうほどです。
くるり - ロックンロール
くるり(Quruli)は、京都出身のロックバンド。
これまでにスタジオ・アルバム9枚とシングル24枚、その他映画サントラ、編集盤など6作品をリリースしており、アルバム・トータル約100万枚、シングル・トータル約50万枚のセールスを記録している。
代表曲に「東京」、「ワンダーフォーゲル」、「ばらの花」、「ワールズエンド・スーパーノヴァ」、「ハイウェイ」、「JUBILEE」、「奇跡」などがある。
アルバムごとに異なった音楽性や趣向を持つ、多様な作品群を発表してきたことが特徴として挙げられる。
1998年にシングル「東京」をリリースしメジャーデビュー。
1999年に、フォーキーかつプログレッシブなサウンドプロダクションが特徴的なファースト・アルバム『さよならストレンジャー』をリリース。
2000年にジム・オルークをプロデューサーに迎え、オルタナ・サウンドが顕著な2作目『図鑑』、2001年はテクノ・ダンスミュージックに影響を受けた3作目『TEAM ROCK』、2002年にはエレクトロニカに接近したサイケデリックな4作目『THE WORLD IS MINE』をリリース。
くるり - ワールズエンド・スーパーノヴァ
2004年には一転バンドサウンドに回帰しつつ、新たにジャズの要素を取り入れた5作目『アンテナ』、2005年にビートルズやザ・フーに代表される60年代ブリティッシュ・ロック・サウンドにアプローチした6作目『NIKKI』、2007年はオーケストラとの融合を図りクラシックに傾斜した7作目『ワルツを踊れ Tanz Walzer』をリリース。
2009年は、フロントマン・岸田繁のシンガーソングライター・アルバムとしての色彩が色濃い内省的な8作目『魂のゆくえ』、2010年にはアルバム・タイトルが示すようなメッセージ性の強い9th『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』をリリースした。
現メンバー
岸田繁(きしだ しげる、1976年4月27日 - )
ボーカル、ギター。
京都府京都市北区出身。
血液型:O。オリジナルメンバー。
佐藤征史(さとう まさし、1977年2月1日 - )
ベース、コーラス、ボーカル。
京都府亀岡市出身。
血液型:O。オリジナルメンバー。
吉田省念(よしだ しょうねん、1980年3月14日 - )
ギター、コーラス、ボーカル、チェロ。
京都府京都市山科区出身。
血液型:A。「吉田省念と三日月スープ」のリーダーとしても活動中。2011年加入。
ファンファン(ファンファン、1985年2月13日 -)
トランペット、コーラス、ボーカル、キーボード。
京都府舞鶴市出身。
血液型:O。「吉田省念と三日月スープ」の他、多方面でも活動中。2011年加入。
来歴・概要
立命館大学の音楽サークル「ロックコミューン」出身で同級生だった岸田繁(1999年前期、産業社会学部卒)、佐藤征史(1999年法学部卒)、森信行(1999年産業社会学部卒)の三人で結成された。
バンド名の由来は結成当時の京都市営地下鉄の案内板の矢印が「くるり」となっていたことから。
「Qさん」という名称のロゴマークは同じくその矢印にインスパイアされたらしく、「アンテナ」等のジャケットを手掛けた古賀鈴鳴のデザイン。
結成からメジャーデビュー(1996年 - 1998年)
1995年4月、岸田繁が立命館大学に入学。
大学の音楽サークルであるロックコミューンに入り森信行や大村達身と出会う。
佐藤征史とは立命館高等学校の1年のときに出会い、高校時代から音楽活動を共にし、大学でも同じサークルに入る。その後、岸田と佐藤が後の「くるり」の原型となるバンドを結成。
このときのメンバーは岸田と佐藤のほかに別のボーカリストとドラマーがいる「毒猿ペピヲ」という4人体制のバンドであった。
岸田はこの頃から曲を作ってこのバンドで演奏していたが、メインボーカルをとることはなく、あまりいいバンドではなかったとも後に語っている。
ほどなくしてバンドのドラマーが辞めたため森を誘う。
そしてバンドのボーカリストも脱退したため岸田がボーカルをとることになり以後、スリーピースバンドとして活動してゆくことになる。
当初は3人とも平行して別のバンドにも参加していた。
1996年2月、発売8曲入りカセットテープ『くるりの一回転』を発売し完売。
9月にアマチュアバンドのコンテストの賞金10万円目的で正式にくるり結成。
しかし、岸田の話によると「普通に結成を持ちかければいいものを、当時凄くひねくれていたので素直に言えず、賞金稼ぎという建前で結成を持ちかけた」という。
演奏曲は「モノノケ姫」「夜行列車と烏瓜」「雫が咲いたら(『くるりの一回転』収録。ワルツ調の楽曲)」。
くるりは見事優勝し10万円を獲得したものの、すべて打ち上げとパチンコに消えたという。
1997年には、ラジオ番組にも出演する。
同年7月には第1回フジロック・フェスティバルをサークル仲間たちとともに観覧、台風の直撃などで色々とひどい目にあったらしい。
程なくしてシュガーフィールズ・原の東京の自宅スタジオでレコーディングをする。
Bad News Recordsにデモテープを送ったところ気に入られ、11月にインディーズ1stアルバムである『もしもし』を発売。
1998年1月から、ライブハウスツアー退屈退治を11月まで行う。
また5月にはインディーズ2ndアルバムである『ファンデリア』を発売。同月に行われた大阪城音楽堂でのイベント「SWEET LOVE SHOWER」のオープニングアクトや、スピッツが主催する「ロックロックこんにちは!」に出演。
7月には会場を東京に移した第2回フジロック・フェスティバルを観覧。
さよならストレンジャーから図鑑(1999年 - 2000年)
1998年10月にはビクターエンタテインメントよりデビューシングル「東京」をリリースしメジャーデビュー、同月のFM802のヘビー・ローテーション ナンバーに選ばれる。
11月にはFM802のイベントであるGottcha!に出演。
1999年2月、2ndシングル「虹」をリリース。
3月に佐藤と森は無事大学を卒業、岸田は留年することとなった。
4月には佐久間正英をプロデューサーに迎えて制作された1stアルバム『さよならストレンジャー』をリリース。
5月にはワンマン全国ツアー、三日で激ヤセ 驚異のキノコパワーを敢行し全公演SOLD OUT。
ツアー後は共同プロデューサーに根岸孝旨を迎えて次回作のレコーディングを開始。
7月にはフジロック・フェスティバルに出演しその他の夏のイベントにも出演した。
8月、岸田が前期卒業式で大学を卒業。同じく8月には3rdシングル「青い空」、11月には4thシングル「街」を立て続けにリリース。
12月にはワンマンライブツアーもうじき平成12年を敢行した。
2000年1月、ジム・オルークらとのコラボレーションに挑んだオルタナティブ・ロック色の強い2ndアルバム『図鑑』をリリース。
3月から「図鑑」発売記念ツアー世田谷線旧型車輌を残そうキャンペーンを敢行。
同月には5thシングルである「春風」をリリース。
8月には共に初開催のROCK IN JAPAN FESTIVAL、サマーソニックなどの夏のイベントに出演する。
TEAM ROCK(2000年 - 2001年)
2000年8月中旬から徐々に次回作のレコーディングに入る。
曲の原型はできあがっていたが自分たちでミックスしてもイマイチの出来であったため、エンジニアの高山徹にミックスを依頼し曲が完成。
10月に6thシングル「ワンダーフォーゲル」をリリース。
11月からはTHE DISMEMBERMENT PLANとのカップリングツアーである百鬼夜行を敢行。
2001年1月、SUPERCARのフルカワミキがコーラスとして参加した7thシングル「ばらの花」をリリース。
2月に打ち込みを導入するなど実験的要素を含んだ3rdアルバム『TEAM ROCK』をリリースした。
4月から3rdアルバム発売記念ツアーTEAM PARTY 2001〜&〜TEAM PARTY 200,000,001を敢行。
7月にはフジロック・フェスティバルのFIELD OF HEAVENに出演。
8月にはライジング・サン・ロックフェスティバルへの出演やナンバーガールとの対バンなどを行う。
しかし、上記のツアー中メンバー間に軋轢が生じたため、その打開策として外部から新たにメンバーを招聘することとなる。
その人物こそ後に正式メンバーとなる大村達身である。
しかし当時大村はくるりの曲をまったく覚えておらず、岸田らメンバーは交通費だけ払って帰ってもらおうとしていたそうである。
しかしその後、新たな曲作りをする上で大村はくるりに居なくてはならないメンバーとなり、この年の夏のフェスティバルよりサポート・メンバーとしてライブに参加。
そして2001年9月7日、東京都現代美術館でのくるり演奏会「東京ミミック」にて正式加入が発表された。
THE WORLD IS MINE(2001年 - 2002年)
2001年秋からくるりは初めての海外レコーディングを行う。
この時、アメリカ同時多発テロ事件の影響で出発がひと月延期することとなったが、10月にはロンドン郊外にあるサイロを改造した「ブラー・ストリート」スタジオにてエンジニア・プロデューサーのニック・ハナンとともに楽曲制作とレコーディングを開始。
約1ヶ月の滞在の間に次回作収録予定の曲が多く制作された。
帰国後は都内のスタジオでレコーディングが継続されたが、機材トラブルなどで順調とはいかなかった。
それでもエンジニアの上原キコウ、高山徹、中村研一に加えイギリスから呼び寄せたニック・ハナンとともにレコーディングをすすめた。
多忙なスケジュールの中のレコーディングではあったが2002年2月にくるり最大のヒット曲となった「ワールズエンド・スーパーノヴァ」をリリース。
レコーディング・スケジュールを1ヶ月オーバーし何度もミックスをやり直した後に3月、4thアルバムである『THE WORLD IS MINE』をリリースした。
3月31日から京都磔磔を皮切りにくるりライブツアー2002 〜うんぽこどっこいしょ〜を敢行。
そのツアーの間の5月にはシングル「男の子と女の子」をリリースしている。
ツアー終了後の7月、ドラマーの森のバンド脱退が発表された。
森の脱退後はサポートメンバーとして臺太郎を迎えて活動を継続した。
9月からTHE DISMEMBERMENT PLANとアメリカ東海岸ツアーを行う。
ツアー後はボストン郊外にある「ロングビュー・スタジオ」に滞在しそのとき後にメンバーとなるクリストファー・マグワイアと初めて顔を会わせている。
帰国後はくるり主宰のレーベルであるNOISE McCARTNEY RECORDSを設立した。
12月にはくるり主催のイベント、百鬼夜行2002を開催。矢野顕子、遠藤賢司、レイ・ハラカミらと共演し全国を回った。
ジョゼと虎と魚たち(2003年)
2003年1月から4月までくるりは映画サウンドトラックの制作を行う。
「ジョゼと虎と魚たち」と「リアリズムの宿」の2つのサントラを同時進行で制作するというもの。
「ジョゼと虎と魚たち」の主題歌である「ハイウェイ」と『サウンドトラック』が同年11月に発売されている。
また、「リアリズムの宿」のテーマ曲である「家出娘」はくるりのベスト盤である『ベスト オブ くるり -TOWER OF MUSIC LOVER-』にてはじめて音源化された。
アンテナ(2003年 - 2004年)
2003年5月、スコットランド・グラスゴーに渡ったくるりはエンジニア・プロデューサーであるトニー・ドゥーガンのもとレコーディングを開始。
サポートドラマーには後にくるりのツアーに参加することとなるクリフ・アーモンドを迎えて「RACE」や「グッドモーニング」、「HOW TO GO」をレコーディングした。帰国後、くるりのプライベートスタジオであるペンタトニックにて「HOW TO GO」をリテイクした。
同年の夏からはクリストファー・マグワイアをサポートドラマーに迎えてフジロック・フェスティバルのホワイトステージに出演した。
そのほかにも夏のフェスティバルに出演している。
9月に1年半ぶりとなるシングル「HOW TO GO」をリリース。
そのままマグワイアとともに次回作に向けてセッションやレコーディングを重ねていき、11月にはマグワイアの正式加入が発表された。
2004年2月、シングル「ロックンロール」をリリース。
そして3月に5thアルバムである『アンテナ』をリリースした。
3月30日より京都磔磔からくるりワンマンライブツアー2004〜安心しろ、秘孔ははずしてある〜をスタート。
初の日本武道館公演を含むツアーとなった。
7月には初のビデオクリップ集である「くるくる鮨」を、9月にはツアードキュメンタリーフィルムである「くるくる節」を発売した。
さらなるレコーディングやライブを行おうとするも、10月にクリストファー・マグワイアが脱退した。
再び臺太郎をサポートドラマーに迎えて学園祭ツアーを行う。
12月、京都大学西部講堂にて岸田と京都大学の学生たちが第1回みやこ音楽祭を開催。
NIKKI(2005年 - 2006年)
2005年1月、岸田と佐藤はCoccoとのプロジェクトバンドであるSINGER SONGERを堀江博久、臺太郎とともにスタートさせる。
途中、岸田が入院するということもあったがレコーディングを進める。
2月、14thシングル「BIRTHDAY」をリリースした。
3月、ニューヨークに渡り次回作のための楽曲制作を行う。
4月にも伊豆などで同作業を行った。
5月、再び渡米。
以前、セッションなどをしたボストンにあるスタジオ「ロングビュー」でレコーディングを開始した。
約1ヶ月半の滞在で10数曲をレコーディングした。
5月末にはSINGER SONGERのシングル「初花凛々」がリリースされている。
6月半ば、そのままロンドンへ向かいプロデューサーのリアム・ワトソンとともにレコーディングを再開。
今回のレコーディングでは岸田の意向により60年代のレアなアナログレコーディング機材を使用している。
6月末にはSINGER SONGERのアルバム『ばらいろポップ』がリリースされた。
7月、レコーディングを終えたくるりは帰国し夏のフェスティバルに出演。
フジロック・フェスティバルでは遂にメインステージであるグリーン・ステージに初出演、ROCK IN JAPAN FESTIVALではSINGER SONGERで出演した。
8月に15thシングル「Superstar」、9月に16thシングル「赤い電車」、10月に17thシングル「Baby I Love You」と3ヶ月連続でシングルのリリースが行なわれた。
9月29日からはサポートメンバーにクリフ・アーモンドと堀江博久を迎えて、初の大阪城ホール公演を含むくるりワンマンライブツアー2005 〜はぐれメタル純情派〜を開催。
11月には6thアルバム『NIKKI』をリリースし、12月31日にはCOUNTDOWN JAPANに出演。
最大規模のEARTH STAGEにおいて年越しライブを担当した。
2006年1月には追加スケジュールであるくるりワンマンライブツアー2006 〜はぐれメタル魔神斬り〜を日本武道館公演を皮切り開催。
1月31日まで続いた。
ベスト オブ くるり(2006年)
2月からくるりはRIP SLYMEとのコラボレーションに入る。
休暇も交えつつレコーディングをすすめ7月にシングル「Juice」をリリース。
同じく7月からくるり対バンツアー2006 〜毎日が地蔵盆〜をスタート。
テルスターやLucky Lips、チャットモンチーなどと共演する。
そして7月26日にくるり初のベスト盤となる『ベスト オブ くるり -TOWER OF MUSIC LOVER-』をリリースした。
結成10周年の2006年において自分たちを振り返る意味で、レコード会社に願い出てリリースしたものである。
8月には6年ぶりのサマーソニックをはじめとする夏のフェスティバルに出演。
ROCK IN JAPAN FESTIVALでは岸田が体調を崩しつつもメインステージであるGRASS STAGEで1日目のトリを務めた。
8月下旬からは京都系ミュージシャンのコンピレーションアルバムの準備をはじめた。
9月からは全国のZeppを回ったくるりワンマンライブツアー 2006 〜まZEPPご飯!〜を敢行した。
11月には先述のコンピレーションアルバム『みやこ音楽/V.A.』をNOISE McCARTNEY RECORDSよりリリース。
くるりは「五月の海」という曲を提供している。
このころからサポートドラマーとして菊地悠也が参加している。
時を同じくして次回作のための楽曲制作に入った。
12月にはウィーンに飛び、レコーディングスタジオの下見を行った。このときドイツでさまざまミュージシャンのマネジメントを行っているガッツという人物と会っている。
12月末にCOUNTDOWN JAPAN 06/07に出演。
このライブを最後にギタリストである大村が脱退した。
ワルツを踊れ Tanz Walzer (2007年)
2007年1月よりスタジオ・ペンタトニックにてプリ・プロダクションを開始。
すでにこの時点で多数のアイディアがあがっていた。
2月、レコーディングのためウィーンへ飛ぶ。フィードバック・スタジオにてフランス人プロデューサーであるステファヌ・"アルフ"・ブリア、ハウス・エンジニアであるパトリック・パルシンガーとともにレコーディングを開始。
サポートドラマーには引き続き菊地が起用されている。
2月の間はベーシック・トラックを中心に録る。
3月、FM802のイベントBEAT ITのため数日の帰国。その後すぐにウィーンに戻りレコーディングを再開。
3月半ばからボーカル録音を含めたオーバー・ダブ作業を行う。
また、パトリック・パルシンガーの紹介でウィーン交響楽団のパーカッショニストであるフリップを紹介されストリングスアレンジを依頼した。
4月、フィードバック・スタジオに加えてハフナー・スタジオでもレコーディングを進める。
5月からウィーンを離れアルフの本拠地であるフランス・パリに移動。
ボーカル録音やミックス作業を行う。
パリ滞在最終日に曲順を決め、ロンドンへ渡りメトロポリス・スタジオにてマスタリングを行うも仕上がりに満足できず、日本でマスタリングをすることに。
5月末に帰国。5月30日、18thシングル「JUBILEE」がリリースされる。
6月3日にマスタリングが終了しアルバムが完成。
6月27日、7thアルバム『ワルツを踊れ Tanz Walzer』がリリースされた。
サポートドラマーには引き続き菊地悠也、コーラス隊にはザ・サスペンダーズを迎えて7月15日から戸田市文化会館を皮切りにくるり史上初となるホールツアー、くるり ホールツアー2007「ふれあいコンサート」を行った。
7月末には台湾の野外フェスティバルに出演。8月末には3年ぶりに沖縄公演を行っている。
9月23日、くるり主催の京都野外フェスティバルである京都音楽博覧会を開催。
Coccoや小田和正、ジェイソン・フォークナーが出演した。
10月と11月はパシフィコ横浜公演などの準備に追われる。
11月中旬にはくるりの公式HP上でライブで聴きたい曲のアンケートを行っていた。
サポートメンバーにはギターに藤井一彦とあらきゆうこを迎えて12月のライブを行った。
12月6日に京都の磔磔でワンマンライブ「TAKUTAKU DE KUTAKUTA」を開催。
12月11日、12日にはパシフィコ横浜で「ふれあいコンサートファイナル」を行った。
ふれあいコンサートでファイナルではサポートギタリストに佐橋佳幸を迎えている。
12月29日にはCOUNTDOWN JAPAN EASTに、12月31日にはCOUNTDOWN JAPAN WESTに出演。
年を越える前にベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した。
Philharmonic or die (2008年)
2008年2月、昨年の磔磔とパシフィコ横浜での公演を収録したくるり初のライブベストアルバム『Philharmonic or die』をリリース。
1月中旬にはパシフィコ横浜公演のミックスをするため再びウィーンに飛び、『ワルツを踊れ』のエンジニアであったディーツとともミックスを行った。
3月にはラジオ番組の収録で浜松海の星高等学校の〈卒業生を送る会〉に参加。
同校の吹奏楽部とともに「ブレーメン」を披露した。
同年5月にはパシフィコ横浜公演を収録したライブDVD「横濱ウィンナー」をリリース。
そのころ、元筋肉少女帯メンバーのキーボーディスト・三柴理やウイーン在住の内橋和久、54-71のドラマー・ボボ(堀川裕之)とともにレコーディングなどを重ねる。
そして夏には各地のロックフェスティバルに出演、そして対バンZEPPツアーデラぜっぴんを行う。
9月6日に京都音楽博覧会を開催。それに合わせて9月3日にもシングル「さよならリグレット」をリリース。
また、12月6日・7日にはみやこ音楽祭に出演した。
10月にはメジャーデビュー10周年を迎え、12月17日よりこれを記念してアルバムおよび映像作品(一部を除く)の廉価版が期間限定で発売される。
魂のゆくえ(2009年)
2009年は2月18日にシングル「三日月」をリリース。
ニューヨークでエンジニアのトム・デュラックとともにレコーディングを行う。
6月6日からワンマンツアー敦煌-ドンファン-を実施、6月10日にはアルバム魂のゆくえをリリースする。
10月21日には奥田民生、松任谷由実、矢野顕子ら全16アーティストが参加する初のトリビュートアルバム、「くるり鶏びゅ〜と」をリリース。
同時にワンマンツアーくるりワンマンツアー2009〜とろみを感じる生き方〜を実施。
さらに、12月25日には松任谷由実とのGAP 40th ANNIVERSARY キャンペーンコラボレーションソング『シャツを洗えば』をリリース。
言葉にならない、笑顔を見せてくれよ(2010年)
2010年は、2月から4月にかけて新しいアルバムに向けてのレコーディング作業をメンバーの地元の京都などで開始。この作業で生まれた新曲、「東京レレレのレ」を収録したくるり初のカップリング・コンプリート・ベスト『僕の住んでいた街』が5月26日に、そして初の歌詞集となる『くるり詩集』が5月21日にリリースされた。
また同じく5月31日よりホールツアー「くるりライブ興行2010〜地獄の団体戦〜」を実施。
7月2日には完成したアルバム『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』から計6曲を“超”先行試聴するイベントが開かれ、ウェブサイト「ナタリー」のUstreamでこの模様が生中継された。
7月28日には初の両A面シングルとなる「魔法のじゅうたん/シャツを洗えば(ヴァージョン2)」をリリースした。
久々に全曲国内レコーディングされた新作『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』は9月8日に発売された。
ベスト・オブ・くるり2(2011年)
2011年は、昨年より実施されていたワンマンツアーくるり ニューアルバム発売記念ツアー〜言葉にならしまへん、笑顔を見しとくれやしまへんやろか〜が引き続き実施され、ツアーファイナルの3月7日には4度目となる武道館公演が行われた。
また、春には岸田が初めてソロ名義で劇中音楽を担当し、主題歌もくるりとして提供した映画『まほろ駅前多田便利軒』、劇中音楽に加えて挿入歌を含め2曲を提供した映画『奇跡』が相次いで公開。
そのうち『奇跡』の主題歌「奇跡」を、ワンコインシングル『奇跡』として2011年6月1日にリリース。
また6月29日には、5年ぶり2枚目となるベストアルバム『ベスト オブ くるり -TOWER OF MUSIC LOVER 2-』がリリースされた。
また同日、新たにギタリストの吉田省念、トランペット奏者のファンファン、ドラマーの田中佑司のバンド正式加入が発表された。
チケットの先行予約特典のスペシャルチケットに吉田戦車によるイラストが使用されている。
11月20日に高松琴平電気鉄道の仏生山工場でスペシャルライブを行った。
また、11月7日から12月8日まで、新体制になってから初めてのツアーくるりワンマンライブツアー2011~湯気湯気帝国~が実施された。
12月28日、田中が脱退を発表。
脱退の経緯は「メンバー・スタッフを含め何度も話し合い、お互いが更なる前進をして行く上で最良の選択であると判断した結果、なされたものです」と説明された。
坩堝の電圧(2012年)
2012年春には、石川さゆりからの依頼を受けて岸田が書き下ろした新曲「石巻復興節」をレコーディング(細野晴臣も演奏に参加)。
3月12日に石巻市内の提携ショップ、及びオンラインでの販売を開始した。
それに先立ち、サポートドラマーにあらきゆうこを迎えニューアルバムのレコーディングが2月末から韓国でスタート。
帰国後もレコーディングは続けられ、録音された新曲はいち早く5月28日から行われたくるりワンマンライブツアー2012~Clear Water Japones~で披露された。
8月1日には、発売が一週間延期となっていた先行シングル『everybody feels the same』がリリース。
ジャケットは、シングルとしては2004年の『ロックンロール』以来となる、メンバー全員が顔を見せるデザインとなった。
また、その前日には、実に2004年以来となるフリーライブ「QURULI FREE LIVE at YOYOGI 2012~everybody feels the same~」が開催された。
これらのレコーディングをまとめた、19曲入りのニューアルバム『坩堝の電圧』を9月19日に発売。
また11月1日からは、くるりワンマンライブツアー2012~国民の性欲が第一~も実施される予定である。
(ウイッキペディア)
では、もう1曲はスーパーカーの登場です。
衣装もグループサウンズっぽくいい感じじゃないですか?
SUPERCAR - Lucky
しかし、このグループは元電気グルーブのまりんちゃんがプロデュースということしかわかりません。
ごめんね。
しかし、彼も学歴コンプレックスのかたまりだったのでしょうか?
週刊文春によれば、「中国でもっとも有名な日本人」として知られ、日本や中国でテレビなどに出演していた国際コラムニストの加藤嘉一氏が自身の経歴を詐称していたことが分かった。
10月31日付で中国新聞社が報じた。
加藤氏はこれまで、「東京大学に合格したが、自ら入学を放棄した」とする旨の発言をしていたが、当発言がうそだったとして、自身の公式サイトに謝罪文を掲載した。
週刊文春は、加藤氏の経歴について、ほかにも「疑わしい点がある」と報道。
1つ目は自身が主張する公費派遣留学生かどうかという点だが、日本で発売された著書と中国で発売された著書で記述が異なっている。
2つ目は北京大学朝鮮半島研究センター研究員との肩書きについて、深センの地元メディアによれば、北京大学には同名称の研究センターは存在しない。
3つ目は、一部書籍にて、肩書が「慶応大学SFC研究所上席研究員」となっていることについて、週刊文春は「実際は訪問研究員であり、上席研究員の職務に就いた形跡は確認できない」と指摘した。
週刊文春の報道を受け、加藤氏は10月31日、自身の公式サイトに「お詫びとご報告」とする文章を掲載。
「記事でご指摘の通り、私が東京大学に合格・入学した事実はなく、私の過去の言動から皆様に誤解を与えてしまいましたことに、心より深くお詫び申し上げます(原文ママ)」と詐称の事実を認めた。
中国で広く知られる加藤氏だけに、経歴詐称の問題は中国で大きな注目が集まり、各大手ポータルサイトも関連報道を大きく扱っている。
加藤氏は自身が開設している微博(中国版Twitter)アカウントでも詐称を認め、謝罪する文章を投稿した。
加藤氏のアカウントには150万を超えるフォロワーがいるが、フォロワーからは「中国から出ていけ」、「日本人全体の顔に泥を塗った」など、詐称を非難する声が殺到した。(編集担当:及川源十郎)
もう少し詳しくウィッキペディアで調べると、
学歴、職歴に関する記述がメディアによって異なり、また本人の口から「東京大学に合格したが蹴った」、「ハーバード大学にも合格したが東京大学に入学し、退学して北京大学に来た」などと日中両国にて発言しているが、下記の点などにおいて現在まで信頼できる経歴は確認できていない。
日中の情報格差を狡猾に利用した悪質な行為と批判が高まっている。
2012年11月8日号の週刊文春記事における同指摘を受け、本人のオフィシャルサイトにて経歴問題について事実を認め謝罪した。
「東京大学」について
公式サイトでは「受験直前に、山梨学院大と北京大が学術協定を結ぶという話を聞きつけ」て両者の会談の場を訪れたとあるが、山梨学院大学と北京大学国際関係学院が学術協定を結んだのは2001年(平成13年)で、高校3年生だった2002年(平成14年)にそのようなことは不可能である。
2009年(平成21年)1月発行の《南方人物周刊》(总第143期)インタビューでは、「最終的に、東京大学法学部に合格した。2003年、東京大学で一人の北京大学教授と出会い、19歳の加藤嘉一は法学部を退学、島国日本からある巨大な国家―ー中国に飛び立った。」(最后他考上了东京大学法学系。2003年,在东京大学认识了北大的一位老师,19岁的加藤嘉一从法学部退学。从岛国日本飞抵中国――ー一个巨大的国家)と記載されている。
2010年(平成22年)3月に放送された騰訊網の番組では、「私は高校卒業後、東京大学に受かった。日本では、東大合格すなわち人生の勝者を意味する。だが私は自ら(東大を)蹴った。これについては相当の反発も受けた」(我当时高中毕业,考上了东京大学,对于日本来说,考上东大你已经成为赢者了。但是我主动放弃,当时受到的排斥是非常大的)と発言している。
2010年(平成22年)11月発売の雑誌《大学生》では、“東大在学中の経験談”を語っている。
「東大時代、周りにいる99%の同級生は社会の底辺でアルバイトをしていた。だから中国に来た加藤も当然の如く、北京大学校門前にあるマクドナルドでのアルバイトを選んだ」(在东大时,加藤嘉一身边99%的同学都有在社会底层打工的经历,所以来到中国后他依然习惯性地选择去北大门口的麦当劳打工)。
ちなみに東大の学内調査では、男子学生が携わるアルバイトの76.1%は、家庭教師や塾講師である。
また、中国のマクドナルドが外国人を店員として在留資格に反してまで雇うことはまずない。
2011年(平成23年)3月に北京大学国際合作部留学生辦公室が発行した《留学北大》によると、「東京大学に入学してまもなく、北京大学の教授と知り合う。教授は彼を大変気に入り、公費留学を申請するよう求めた」(刚考上东京大学的他在东大认识了一位北大教授,教师非常喜欢他,邀请他申请公派留学)となっている。
2011年(平成23年)5月に受けた鳳凰網の取材では、「2003年、彼はスポーツ特待生として東京大学に合格した」(2003年,加藤以体育特长生的身份考取了东京大学)となっているが、東京大学はスポーツ推薦制度を導入していないので、入学は不可能である。
仮に東京大学に入学したのなら、「2003年のSARSが猛威を振るう中、彼は北京大学の国際関係学院に入学」という体験は出来ない。
自著《从伊豆到北京有多远》(江苏文艺出版社)には、「北京に来た時期はすでにSARSが発生しており、毎日、SARSとイラク戦争のニュースばかりだった。
私はネットでSARSに関する北京の最新情報を収集した」(由于我来北京的时候著名的“非典”已经发生,那段时间天天都是“非典”和伊拉克战争的新闻,每天都会上网去了解北京“非典”的最新情况)とある。
WHOが新型肺炎を「SARS」と命名したのは2003年(平成15年)3月15日、イラク戦争開戦は同3月20日、東京大学入学式は同4月11日。「北京大学教授と東大構内で出会い、東大を中退して北京大へ」という逸話には矛盾が生じる。また東京大学では学士入学でもないかぎり直接法学部に入学することはできず、1~2年次は原則学生の全員が教養学部に所属することとなる。
そのため19歳で法学部を退学することは不可能である。
最近は中国でも加藤に対する経歴への疑惑が広がり、中国の検索サイトや各種ブログなどでも、その様子が容易に把握できる。
2012年(平成24年)4月、福建省厦門市の華僑大学で行われた講演会にて聴衆より「高校卒業後、本当に東京大学へ合格したのか?」(你高校毕业后是否考上过东京大学吗)との質問を受け、「ここでの話、私の母校は北京大学。東京大学とは何の関係もない」(我在这里其实说,我的母校是北京大学,我跟东京大学没有任何关系)と話題をそらすように答えている。
2012年(平成24年)6月に放送された、加藤についての問題を検証するTV番組《加藤嘉一:一个“混”在中国的日本人》[18]では、加藤の日中間における言論の矛盾と共に、加藤の経歴についての問題点や矛盾も指摘された。
番組の中で「既に今の加藤の声望は、胡錦濤に面会したとか(様々な人から)毎日数百通の手紙を受け取るといったような自慢や誇張によって自分を大きく見せる必要はないくらい大きくなっている。
ある人は加藤のことを「中国人は彼が神壇を作るのを助けた。たとえ彼が神でなくても、人々にそれが真実だと思わせた。しかし、今では彼は事実とあまりにかけ離れてしまった。」と言った。」(而加藤目前的声望已经无需要通过胡锦涛接见和每天收到几百封信这样的自诩来提高。有人说,“中国人为他造的神坛。哪怕他不是神,也会让人觉得真实,但是如今他偏离事实太远)と加藤の発言に信頼性がないことを批判している。
やはりここまで嘘を広げてしまうと、今後の自身の発言内容への信頼性にも影響してくるでしょう。
この虚言癖さえなければ、とても優秀な人なんですが・・・
例のiPS細胞から心筋細胞を作り、重症の心臓病患者に移植したという森口尚史(ひさし)氏の経歴詐称に引き続き発覚しましたが、こうした詐称が頻繁に起こるのは、やはり肩書きに一目置く国民性ゆえの悲しい性(さが)なのでしょうか?
では、音楽の時間です。
特にこの曲はボーカルも含めてスピッツと言われたら信じちゃうほどです。
くるり - ロックンロール
くるり(Quruli)は、京都出身のロックバンド。
これまでにスタジオ・アルバム9枚とシングル24枚、その他映画サントラ、編集盤など6作品をリリースしており、アルバム・トータル約100万枚、シングル・トータル約50万枚のセールスを記録している。
代表曲に「東京」、「ワンダーフォーゲル」、「ばらの花」、「ワールズエンド・スーパーノヴァ」、「ハイウェイ」、「JUBILEE」、「奇跡」などがある。
アルバムごとに異なった音楽性や趣向を持つ、多様な作品群を発表してきたことが特徴として挙げられる。
1998年にシングル「東京」をリリースしメジャーデビュー。
1999年に、フォーキーかつプログレッシブなサウンドプロダクションが特徴的なファースト・アルバム『さよならストレンジャー』をリリース。
2000年にジム・オルークをプロデューサーに迎え、オルタナ・サウンドが顕著な2作目『図鑑』、2001年はテクノ・ダンスミュージックに影響を受けた3作目『TEAM ROCK』、2002年にはエレクトロニカに接近したサイケデリックな4作目『THE WORLD IS MINE』をリリース。
くるり - ワールズエンド・スーパーノヴァ
2004年には一転バンドサウンドに回帰しつつ、新たにジャズの要素を取り入れた5作目『アンテナ』、2005年にビートルズやザ・フーに代表される60年代ブリティッシュ・ロック・サウンドにアプローチした6作目『NIKKI』、2007年はオーケストラとの融合を図りクラシックに傾斜した7作目『ワルツを踊れ Tanz Walzer』をリリース。
2009年は、フロントマン・岸田繁のシンガーソングライター・アルバムとしての色彩が色濃い内省的な8作目『魂のゆくえ』、2010年にはアルバム・タイトルが示すようなメッセージ性の強い9th『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』をリリースした。
現メンバー
岸田繁(きしだ しげる、1976年4月27日 - )
ボーカル、ギター。
京都府京都市北区出身。
血液型:O。オリジナルメンバー。
佐藤征史(さとう まさし、1977年2月1日 - )
ベース、コーラス、ボーカル。
京都府亀岡市出身。
血液型:O。オリジナルメンバー。
吉田省念(よしだ しょうねん、1980年3月14日 - )
ギター、コーラス、ボーカル、チェロ。
京都府京都市山科区出身。
血液型:A。「吉田省念と三日月スープ」のリーダーとしても活動中。2011年加入。
ファンファン(ファンファン、1985年2月13日 -)
トランペット、コーラス、ボーカル、キーボード。
京都府舞鶴市出身。
血液型:O。「吉田省念と三日月スープ」の他、多方面でも活動中。2011年加入。
来歴・概要
立命館大学の音楽サークル「ロックコミューン」出身で同級生だった岸田繁(1999年前期、産業社会学部卒)、佐藤征史(1999年法学部卒)、森信行(1999年産業社会学部卒)の三人で結成された。
バンド名の由来は結成当時の京都市営地下鉄の案内板の矢印が「くるり」となっていたことから。
「Qさん」という名称のロゴマークは同じくその矢印にインスパイアされたらしく、「アンテナ」等のジャケットを手掛けた古賀鈴鳴のデザイン。
結成からメジャーデビュー(1996年 - 1998年)
1995年4月、岸田繁が立命館大学に入学。
大学の音楽サークルであるロックコミューンに入り森信行や大村達身と出会う。
佐藤征史とは立命館高等学校の1年のときに出会い、高校時代から音楽活動を共にし、大学でも同じサークルに入る。その後、岸田と佐藤が後の「くるり」の原型となるバンドを結成。
このときのメンバーは岸田と佐藤のほかに別のボーカリストとドラマーがいる「毒猿ペピヲ」という4人体制のバンドであった。
岸田はこの頃から曲を作ってこのバンドで演奏していたが、メインボーカルをとることはなく、あまりいいバンドではなかったとも後に語っている。
ほどなくしてバンドのドラマーが辞めたため森を誘う。
そしてバンドのボーカリストも脱退したため岸田がボーカルをとることになり以後、スリーピースバンドとして活動してゆくことになる。
当初は3人とも平行して別のバンドにも参加していた。
1996年2月、発売8曲入りカセットテープ『くるりの一回転』を発売し完売。
9月にアマチュアバンドのコンテストの賞金10万円目的で正式にくるり結成。
しかし、岸田の話によると「普通に結成を持ちかければいいものを、当時凄くひねくれていたので素直に言えず、賞金稼ぎという建前で結成を持ちかけた」という。
演奏曲は「モノノケ姫」「夜行列車と烏瓜」「雫が咲いたら(『くるりの一回転』収録。ワルツ調の楽曲)」。
くるりは見事優勝し10万円を獲得したものの、すべて打ち上げとパチンコに消えたという。
1997年には、ラジオ番組にも出演する。
同年7月には第1回フジロック・フェスティバルをサークル仲間たちとともに観覧、台風の直撃などで色々とひどい目にあったらしい。
程なくしてシュガーフィールズ・原の東京の自宅スタジオでレコーディングをする。
Bad News Recordsにデモテープを送ったところ気に入られ、11月にインディーズ1stアルバムである『もしもし』を発売。
1998年1月から、ライブハウスツアー退屈退治を11月まで行う。
また5月にはインディーズ2ndアルバムである『ファンデリア』を発売。同月に行われた大阪城音楽堂でのイベント「SWEET LOVE SHOWER」のオープニングアクトや、スピッツが主催する「ロックロックこんにちは!」に出演。
7月には会場を東京に移した第2回フジロック・フェスティバルを観覧。
さよならストレンジャーから図鑑(1999年 - 2000年)
1998年10月にはビクターエンタテインメントよりデビューシングル「東京」をリリースしメジャーデビュー、同月のFM802のヘビー・ローテーション ナンバーに選ばれる。
11月にはFM802のイベントであるGottcha!に出演。
1999年2月、2ndシングル「虹」をリリース。
3月に佐藤と森は無事大学を卒業、岸田は留年することとなった。
4月には佐久間正英をプロデューサーに迎えて制作された1stアルバム『さよならストレンジャー』をリリース。
5月にはワンマン全国ツアー、三日で激ヤセ 驚異のキノコパワーを敢行し全公演SOLD OUT。
ツアー後は共同プロデューサーに根岸孝旨を迎えて次回作のレコーディングを開始。
7月にはフジロック・フェスティバルに出演しその他の夏のイベントにも出演した。
8月、岸田が前期卒業式で大学を卒業。同じく8月には3rdシングル「青い空」、11月には4thシングル「街」を立て続けにリリース。
12月にはワンマンライブツアーもうじき平成12年を敢行した。
2000年1月、ジム・オルークらとのコラボレーションに挑んだオルタナティブ・ロック色の強い2ndアルバム『図鑑』をリリース。
3月から「図鑑」発売記念ツアー世田谷線旧型車輌を残そうキャンペーンを敢行。
同月には5thシングルである「春風」をリリース。
8月には共に初開催のROCK IN JAPAN FESTIVAL、サマーソニックなどの夏のイベントに出演する。
TEAM ROCK(2000年 - 2001年)
2000年8月中旬から徐々に次回作のレコーディングに入る。
曲の原型はできあがっていたが自分たちでミックスしてもイマイチの出来であったため、エンジニアの高山徹にミックスを依頼し曲が完成。
10月に6thシングル「ワンダーフォーゲル」をリリース。
11月からはTHE DISMEMBERMENT PLANとのカップリングツアーである百鬼夜行を敢行。
2001年1月、SUPERCARのフルカワミキがコーラスとして参加した7thシングル「ばらの花」をリリース。
2月に打ち込みを導入するなど実験的要素を含んだ3rdアルバム『TEAM ROCK』をリリースした。
4月から3rdアルバム発売記念ツアーTEAM PARTY 2001〜&〜TEAM PARTY 200,000,001を敢行。
7月にはフジロック・フェスティバルのFIELD OF HEAVENに出演。
8月にはライジング・サン・ロックフェスティバルへの出演やナンバーガールとの対バンなどを行う。
しかし、上記のツアー中メンバー間に軋轢が生じたため、その打開策として外部から新たにメンバーを招聘することとなる。
その人物こそ後に正式メンバーとなる大村達身である。
しかし当時大村はくるりの曲をまったく覚えておらず、岸田らメンバーは交通費だけ払って帰ってもらおうとしていたそうである。
しかしその後、新たな曲作りをする上で大村はくるりに居なくてはならないメンバーとなり、この年の夏のフェスティバルよりサポート・メンバーとしてライブに参加。
そして2001年9月7日、東京都現代美術館でのくるり演奏会「東京ミミック」にて正式加入が発表された。
THE WORLD IS MINE(2001年 - 2002年)
2001年秋からくるりは初めての海外レコーディングを行う。
この時、アメリカ同時多発テロ事件の影響で出発がひと月延期することとなったが、10月にはロンドン郊外にあるサイロを改造した「ブラー・ストリート」スタジオにてエンジニア・プロデューサーのニック・ハナンとともに楽曲制作とレコーディングを開始。
約1ヶ月の滞在の間に次回作収録予定の曲が多く制作された。
帰国後は都内のスタジオでレコーディングが継続されたが、機材トラブルなどで順調とはいかなかった。
それでもエンジニアの上原キコウ、高山徹、中村研一に加えイギリスから呼び寄せたニック・ハナンとともにレコーディングをすすめた。
多忙なスケジュールの中のレコーディングではあったが2002年2月にくるり最大のヒット曲となった「ワールズエンド・スーパーノヴァ」をリリース。
レコーディング・スケジュールを1ヶ月オーバーし何度もミックスをやり直した後に3月、4thアルバムである『THE WORLD IS MINE』をリリースした。
3月31日から京都磔磔を皮切りにくるりライブツアー2002 〜うんぽこどっこいしょ〜を敢行。
そのツアーの間の5月にはシングル「男の子と女の子」をリリースしている。
ツアー終了後の7月、ドラマーの森のバンド脱退が発表された。
森の脱退後はサポートメンバーとして臺太郎を迎えて活動を継続した。
9月からTHE DISMEMBERMENT PLANとアメリカ東海岸ツアーを行う。
ツアー後はボストン郊外にある「ロングビュー・スタジオ」に滞在しそのとき後にメンバーとなるクリストファー・マグワイアと初めて顔を会わせている。
帰国後はくるり主宰のレーベルであるNOISE McCARTNEY RECORDSを設立した。
12月にはくるり主催のイベント、百鬼夜行2002を開催。矢野顕子、遠藤賢司、レイ・ハラカミらと共演し全国を回った。
ジョゼと虎と魚たち(2003年)
2003年1月から4月までくるりは映画サウンドトラックの制作を行う。
「ジョゼと虎と魚たち」と「リアリズムの宿」の2つのサントラを同時進行で制作するというもの。
「ジョゼと虎と魚たち」の主題歌である「ハイウェイ」と『サウンドトラック』が同年11月に発売されている。
また、「リアリズムの宿」のテーマ曲である「家出娘」はくるりのベスト盤である『ベスト オブ くるり -TOWER OF MUSIC LOVER-』にてはじめて音源化された。
アンテナ(2003年 - 2004年)
2003年5月、スコットランド・グラスゴーに渡ったくるりはエンジニア・プロデューサーであるトニー・ドゥーガンのもとレコーディングを開始。
サポートドラマーには後にくるりのツアーに参加することとなるクリフ・アーモンドを迎えて「RACE」や「グッドモーニング」、「HOW TO GO
同年の夏からはクリストファー・マグワイアをサポートドラマーに迎えてフジロック・フェスティバルのホワイトステージに出演した。
そのほかにも夏のフェスティバルに出演している。
9月に1年半ぶりとなるシングル「HOW TO GO」をリリース。
そのままマグワイアとともに次回作に向けてセッションやレコーディングを重ねていき、11月にはマグワイアの正式加入が発表された。
2004年2月、シングル「ロックンロール」をリリース。
そして3月に5thアルバムである『アンテナ』をリリースした。
3月30日より京都磔磔からくるりワンマンライブツアー2004〜安心しろ、秘孔ははずしてある〜をスタート。
初の日本武道館公演を含むツアーとなった。
7月には初のビデオクリップ集である「くるくる鮨」を、9月にはツアードキュメンタリーフィルムである「くるくる節」を発売した。
さらなるレコーディングやライブを行おうとするも、10月にクリストファー・マグワイアが脱退した。
再び臺太郎をサポートドラマーに迎えて学園祭ツアーを行う。
12月、京都大学西部講堂にて岸田と京都大学の学生たちが第1回みやこ音楽祭を開催。
NIKKI(2005年 - 2006年)
2005年1月、岸田と佐藤はCoccoとのプロジェクトバンドであるSINGER SONGERを堀江博久、臺太郎とともにスタートさせる。
途中、岸田が入院するということもあったがレコーディングを進める。
2月、14thシングル「BIRTHDAY」をリリースした。
3月、ニューヨークに渡り次回作のための楽曲制作を行う。
4月にも伊豆などで同作業を行った。
5月、再び渡米。
以前、セッションなどをしたボストンにあるスタジオ「ロングビュー」でレコーディングを開始した。
約1ヶ月半の滞在で10数曲をレコーディングした。
5月末にはSINGER SONGERのシングル「初花凛々」がリリースされている。
6月半ば、そのままロンドンへ向かいプロデューサーのリアム・ワトソンとともにレコーディングを再開。
今回のレコーディングでは岸田の意向により60年代のレアなアナログレコーディング機材を使用している。
6月末にはSINGER SONGERのアルバム『ばらいろポップ』がリリースされた。
7月、レコーディングを終えたくるりは帰国し夏のフェスティバルに出演。
フジロック・フェスティバルでは遂にメインステージであるグリーン・ステージに初出演、ROCK IN JAPAN FESTIVALではSINGER SONGERで出演した。
8月に15thシングル「Superstar」、9月に16thシングル「赤い電車」、10月に17thシングル「Baby I Love You」と3ヶ月連続でシングルのリリースが行なわれた。
9月29日からはサポートメンバーにクリフ・アーモンドと堀江博久を迎えて、初の大阪城ホール公演を含むくるりワンマンライブツアー2005 〜はぐれメタル純情派〜を開催。
11月には6thアルバム『NIKKI』をリリースし、12月31日にはCOUNTDOWN JAPANに出演。
最大規模のEARTH STAGEにおいて年越しライブを担当した。
2006年1月には追加スケジュールであるくるりワンマンライブツアー2006 〜はぐれメタル魔神斬り〜を日本武道館公演を皮切り開催。
1月31日まで続いた。
ベスト オブ くるり(2006年)
2月からくるりはRIP SLYMEとのコラボレーションに入る。
休暇も交えつつレコーディングをすすめ7月にシングル「Juice」をリリース。
同じく7月からくるり対バンツアー2006 〜毎日が地蔵盆〜をスタート。
テルスターやLucky Lips、チャットモンチーなどと共演する。
そして7月26日にくるり初のベスト盤となる『ベスト オブ くるり -TOWER OF MUSIC LOVER-』をリリースした。
結成10周年の2006年において自分たちを振り返る意味で、レコード会社に願い出てリリースしたものである。
8月には6年ぶりのサマーソニックをはじめとする夏のフェスティバルに出演。
ROCK IN JAPAN FESTIVALでは岸田が体調を崩しつつもメインステージであるGRASS STAGEで1日目のトリを務めた。
8月下旬からは京都系ミュージシャンのコンピレーションアルバムの準備をはじめた。
9月からは全国のZeppを回ったくるりワンマンライブツアー 2006 〜まZEPPご飯!〜を敢行した。
11月には先述のコンピレーションアルバム『みやこ音楽/V.A.』をNOISE McCARTNEY RECORDSよりリリース。
くるりは「五月の海」という曲を提供している。
このころからサポートドラマーとして菊地悠也が参加している。
時を同じくして次回作のための楽曲制作に入った。
12月にはウィーンに飛び、レコーディングスタジオの下見を行った。このときドイツでさまざまミュージシャンのマネジメントを行っているガッツという人物と会っている。
12月末にCOUNTDOWN JAPAN 06/07に出演。
このライブを最後にギタリストである大村が脱退した。
ワルツを踊れ Tanz Walzer (2007年)
2007年1月よりスタジオ・ペンタトニックにてプリ・プロダクションを開始。
すでにこの時点で多数のアイディアがあがっていた。
2月、レコーディングのためウィーンへ飛ぶ。フィードバック・スタジオにてフランス人プロデューサーであるステファヌ・"アルフ"・ブリア、ハウス・エンジニアであるパトリック・パルシンガーとともにレコーディングを開始。
サポートドラマーには引き続き菊地が起用されている。
2月の間はベーシック・トラックを中心に録る。
3月、FM802のイベントBEAT ITのため数日の帰国。その後すぐにウィーンに戻りレコーディングを再開。
3月半ばからボーカル録音を含めたオーバー・ダブ作業を行う。
また、パトリック・パルシンガーの紹介でウィーン交響楽団のパーカッショニストであるフリップを紹介されストリングスアレンジを依頼した。
4月、フィードバック・スタジオに加えてハフナー・スタジオでもレコーディングを進める。
5月からウィーンを離れアルフの本拠地であるフランス・パリに移動。
ボーカル録音やミックス作業を行う。
パリ滞在最終日に曲順を決め、ロンドンへ渡りメトロポリス・スタジオにてマスタリングを行うも仕上がりに満足できず、日本でマスタリングをすることに。
5月末に帰国。5月30日、18thシングル「JUBILEE」がリリースされる。
6月3日にマスタリングが終了しアルバムが完成。
6月27日、7thアルバム『ワルツを踊れ Tanz Walzer』がリリースされた。
サポートドラマーには引き続き菊地悠也、コーラス隊にはザ・サスペンダーズを迎えて7月15日から戸田市文化会館を皮切りにくるり史上初となるホールツアー、くるり ホールツアー2007「ふれあいコンサート」を行った。
7月末には台湾の野外フェスティバルに出演。8月末には3年ぶりに沖縄公演を行っている。
9月23日、くるり主催の京都野外フェスティバルである京都音楽博覧会を開催。
Coccoや小田和正、ジェイソン・フォークナーが出演した。
10月と11月はパシフィコ横浜公演などの準備に追われる。
11月中旬にはくるりの公式HP上でライブで聴きたい曲のアンケートを行っていた。
サポートメンバーにはギターに藤井一彦とあらきゆうこを迎えて12月のライブを行った。
12月6日に京都の磔磔でワンマンライブ「TAKUTAKU DE KUTAKUTA」を開催。
12月11日、12日にはパシフィコ横浜で「ふれあいコンサートファイナル」を行った。
ふれあいコンサートでファイナルではサポートギタリストに佐橋佳幸を迎えている。
12月29日にはCOUNTDOWN JAPAN EASTに、12月31日にはCOUNTDOWN JAPAN WESTに出演。
年を越える前にベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した。
Philharmonic or die (2008年)
2008年2月、昨年の磔磔とパシフィコ横浜での公演を収録したくるり初のライブベストアルバム『Philharmonic or die』をリリース。
1月中旬にはパシフィコ横浜公演のミックスをするため再びウィーンに飛び、『ワルツを踊れ』のエンジニアであったディーツとともミックスを行った。
3月にはラジオ番組の収録で浜松海の星高等学校の〈卒業生を送る会〉に参加。
同校の吹奏楽部とともに「ブレーメン」を披露した。
同年5月にはパシフィコ横浜公演を収録したライブDVD「横濱ウィンナー」をリリース。
そのころ、元筋肉少女帯メンバーのキーボーディスト・三柴理やウイーン在住の内橋和久、54-71のドラマー・ボボ(堀川裕之)とともにレコーディングなどを重ねる。
そして夏には各地のロックフェスティバルに出演、そして対バンZEPPツアーデラぜっぴんを行う。
9月6日に京都音楽博覧会を開催。それに合わせて9月3日にもシングル「さよならリグレット」をリリース。
また、12月6日・7日にはみやこ音楽祭に出演した。
10月にはメジャーデビュー10周年を迎え、12月17日よりこれを記念してアルバムおよび映像作品(一部を除く)の廉価版が期間限定で発売される。
魂のゆくえ(2009年)
2009年は2月18日にシングル「三日月」をリリース。
ニューヨークでエンジニアのトム・デュラックとともにレコーディングを行う。
6月6日からワンマンツアー敦煌-ドンファン-を実施、6月10日にはアルバム魂のゆくえをリリースする。
10月21日には奥田民生、松任谷由実、矢野顕子ら全16アーティストが参加する初のトリビュートアルバム、「くるり鶏びゅ〜と」をリリース。
同時にワンマンツアーくるりワンマンツアー2009〜とろみを感じる生き方〜を実施。
さらに、12月25日には松任谷由実とのGAP 40th ANNIVERSARY キャンペーンコラボレーションソング『シャツを洗えば』をリリース。
言葉にならない、笑顔を見せてくれよ(2010年)
2010年は、2月から4月にかけて新しいアルバムに向けてのレコーディング作業をメンバーの地元の京都などで開始。この作業で生まれた新曲、「東京レレレのレ」を収録したくるり初のカップリング・コンプリート・ベスト『僕の住んでいた街』が5月26日に、そして初の歌詞集となる『くるり詩集』が5月21日にリリースされた。
また同じく5月31日よりホールツアー「くるりライブ興行2010〜地獄の団体戦〜」を実施。
7月2日には完成したアルバム『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』から計6曲を“超”先行試聴するイベントが開かれ、ウェブサイト「ナタリー」のUstreamでこの模様が生中継された。
7月28日には初の両A面シングルとなる「魔法のじゅうたん/シャツを洗えば(ヴァージョン2)」をリリースした。
久々に全曲国内レコーディングされた新作『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』は9月8日に発売された。
ベスト・オブ・くるり2(2011年)
2011年は、昨年より実施されていたワンマンツアーくるり ニューアルバム発売記念ツアー〜言葉にならしまへん、笑顔を見しとくれやしまへんやろか〜が引き続き実施され、ツアーファイナルの3月7日には4度目となる武道館公演が行われた。
また、春には岸田が初めてソロ名義で劇中音楽を担当し、主題歌もくるりとして提供した映画『まほろ駅前多田便利軒』、劇中音楽に加えて挿入歌を含め2曲を提供した映画『奇跡』が相次いで公開。
そのうち『奇跡』の主題歌「奇跡」を、ワンコインシングル『奇跡』として2011年6月1日にリリース。
また6月29日には、5年ぶり2枚目となるベストアルバム『ベスト オブ くるり -TOWER OF MUSIC LOVER 2-』がリリースされた。
また同日、新たにギタリストの吉田省念、トランペット奏者のファンファン、ドラマーの田中佑司のバンド正式加入が発表された。
チケットの先行予約特典のスペシャルチケットに吉田戦車によるイラストが使用されている。
11月20日に高松琴平電気鉄道の仏生山工場でスペシャルライブを行った。
また、11月7日から12月8日まで、新体制になってから初めてのツアーくるりワンマンライブツアー2011~湯気湯気帝国~が実施された。
12月28日、田中が脱退を発表。
脱退の経緯は「メンバー・スタッフを含め何度も話し合い、お互いが更なる前進をして行く上で最良の選択であると判断した結果、なされたものです」と説明された。
坩堝の電圧(2012年)
2012年春には、石川さゆりからの依頼を受けて岸田が書き下ろした新曲「石巻復興節」をレコーディング(細野晴臣も演奏に参加)。
3月12日に石巻市内の提携ショップ、及びオンラインでの販売を開始した。
それに先立ち、サポートドラマーにあらきゆうこを迎えニューアルバムのレコーディングが2月末から韓国でスタート。
帰国後もレコーディングは続けられ、録音された新曲はいち早く5月28日から行われたくるりワンマンライブツアー2012~Clear Water Japones~で披露された。
8月1日には、発売が一週間延期となっていた先行シングル『everybody feels the same』がリリース。
ジャケットは、シングルとしては2004年の『ロックンロール』以来となる、メンバー全員が顔を見せるデザインとなった。
また、その前日には、実に2004年以来となるフリーライブ「QURULI FREE LIVE at YOYOGI 2012~everybody feels the same~」が開催された。
これらのレコーディングをまとめた、19曲入りのニューアルバム『坩堝の電圧』を9月19日に発売。
また11月1日からは、くるりワンマンライブツアー2012~国民の性欲が第一~も実施される予定である。
(ウイッキペディア)
では、もう1曲はスーパーカーの登場です。
衣装もグループサウンズっぽくいい感じじゃないですか?
SUPERCAR - Lucky
しかし、このグループは元電気グルーブのまりんちゃんがプロデュースということしかわかりません。
ごめんね。