George Harrison(ウイッキペディアより)
ジョージ・ハリスン (George Harrison、1943年2月25日 - 2001年11月29日) は、イギリスのミュージシャン。ビートルズのメンバー。2001年に肺癌と脳腫瘍のため死去。

1988年にビートルズのメンバーとして、2004年に個人としてロックの殿堂入りしている。現在、「Sir」の称号を故人として初めて授与するかどうか議論されている。

活動初期から中期においては、ソングライターとしては天才メロディーメーカー、レノン=マッカートニーの陰に隠れ目立たない存在であったが、中期に至って自作の「恋をするなら」「嘘つき女」がアルバム「ラバー・ソウル」に収録され、「タックスマン」がアルバム「リボルバー」の1曲目を飾るなど頭角を現し、後期になると「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」等の曲を完成させる。しかし、当時ビートルズ内でのジョージの評価は決して高くなく、1作のアルバムにつき2曲しか発表できない、自由にリードギターを弾かせてもらえないなどで不満を募らせる。この確執は「ゲット・バック・セッション」で顕在化し、彼はメンバーの中でも早くからソロ活動を志向するようになり、バンド解散の原因の一つともなった。ドキュメンタリー映画「レット・イット・ビー」の中で、ギターソロをめぐってポールと口論するシーンがカメラに収められている。一連のセッションについて、「最悪だったよ。地獄にいるみたいだった。世界一熱心なビートルズ・ファンでも、あの空気には耐えられないだろう」と語っている。

ビートルズ解散直後、最も活発に音楽活動を展開したのはハリスンであった。その活動の充実ぶりに、多くの評論家から「ビートルズを解散して最も得をした元ビートル」と評された。本格的な初のソロ・アルバムとなった『オール・シングス・マスト・パス』は、異例のLP3枚組として発売されたにも関わらず、全米/全英のアルバムチャートで7週連続1位となる大ヒットを収め、シングル「マイ・スウィート・ロード」も米英それぞれ4、5週連続No.1となっている。自作の曲を正当に評価されず発表の機会を得ることができなかった彼が、書きためていた曲を一気に放出した作品が多く含まれ、伝説のプロデューサー、フィル・スペクターの見事なプロデュースと相まって、その完成度の高さから、今もなお画期的なロックアルバムとして評価されている。
翌年8月には、シタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート(バングラデシュ・コンサート)を開催。エリック・クラプトンや、ボブ・ディラン、レオン・ラッセルなどが参加したイベントは大成功を収め、20世紀最大のロック・イベントとも称された。その模様を収めたライヴ盤は、1972年度グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝いた(全米・全英No.1)。
1973年に発売された2枚目の『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』も全英2位・全米で5週連続1位を記録。翌1974年にはA&Mレコード傘下に自らのレーベル「ダーク・ホースを立ち上げ、そこから彼自身が発掘しプロデュースを手がけた新人やラヴィ・シャンカールのアルバムなどを次々リリースする(彼自身はまだアップルとの契約が残っていたため、このあともしばらくはEMIからレコードを発売し続けた)。それに伴い同年秋にはビートルズ解散後初の大規模な北米ツアーをシャンカールとの連名で行うなど、積極的に活動を続けた。しかしツアー自体は、シャンカールのインド音楽のコーナーを中間に挟む構成や、多忙なスケジュールがもたらしたハリスンの声帯の不調などが原因で失敗に終わり、評論家の間では酷評されてしまった。喉の異常は当時のアルバムにも顕著に現れており、レコードセールスもこれ以降下降してゆくこととなる。同時期には「マイ・スウィート・ロード」にまつわる盗作問題で訴訟を起こされる(最終的に敗訴する)など、順風満帆に過ぎていたソロ活動はこの頃様々な不運によって精彩を欠いていた。
私生活では、親友であるエリック・クラプトンと交際するようになった妻のパティ・ボイドと離婚。仕事上で出会ったメキシコ系のアメリカ人女性オリヴィア・トリニアード・アリアス(勿論、後のオリヴィア・ハリスン)と1978年に再婚し、同年に一人息子のダーニ・ハリスン(父同様にミュージシャン)をもうけている。
1977年頃からは、音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事で大きな成功を収めることとなる。
副業の映画プロデューサーとして成功を収めた一方で、本業の音楽活動からは遠ざかるようになる。1980年に制作したアルバム『想いは果てなく~母なるイングランド』は「キャッチーな曲が少ない、内容が暗い」という理由からレコード会社に発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまう(ジョージ自身が製作したジャケットも気に入らないと要求された)。屈辱を味わいながらもレコーディングを再開した矢先に起こったのが、1980年12月8日のジョン・レノン射殺事件である。このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌81年から1982年にかけてはクイーンエルトン・ジョンなどによるレノンへの追悼歌が多数発表された。ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」はその代表的な例であり、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなった。リンゴ・スターに提供する予定だった曲の歌詞を書き換えて完成したこの曲は、スターがドラム、ウイングス(ポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼んだ。内容の差し替えを要求されたアルバムにはこの曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年にリリースされた。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができた。
1991年12月、日本だけでエリック・クラプトンのジョイント・ツアーが行われる。17年ぶりのコンサートツアーであり、25年ぶりの来日公演でもあった。当時、息子を事故で亡くした直後だったクラプトンによるハリスン本人への申し入れによって実現したもので、コンサートはクラプトンと彼のバンドによる全面的なバックアップのもとで行われた。1989年のスター、1990年のマッカートニーに次いで、元ビートルズが3年連続で来日したことになる。結局これが、ビートルズ解散後のハリスンの2度目で最後のライヴツアーとなる。クラプトンのコーナー以外のほぼ全容は、翌年発売の2枚組のライヴ盤『ライヴ・イン・ジャパン』に収められている。翌1992年春には、ほぼ同じ曲目と同じバンド(クラプトンは不参加)で自らが支持する政党の支援を目的としたコンサートを本国で行うが、これが彼にとっての生前最後のライヴ・パフォーマンスとなった。
1999年頃からは、自らが過去に発表したソロ・アルバムのリマスターの作業にもとりかかりはじめ、マイペースで新曲の制作も開始。21世紀に向けてミュージシャンとして再始動しようとしていたが、そんな矢先の1999年の晦日に自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、重傷を負ってしまう。幸い命に別状はなかったものの、世間に与えた衝撃は非常に大きかった。この話を聞いた多くの人が、1980年のジョン・レノン射殺を思い出して戦慄した。しかし、恐怖するファンを安心させるかのように、2001年、ジョージは自身の代表作である『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。そのプロモーション活動の中で、「新作についても完成が近い」ことを明かした。
この間に、かつてのビートルズのメンバーのピート・ベストと再会している。ジョージ曰く「僕はビートルズ時代にピートになにもしてあげられなかった。せめて、再び彼と会ってピートに当時のことを謝りたかったんだ」と長年の間ずっと、ピートのことを気懸かりに思っていたという。
しかし、今度は肺癌であったことが発覚、さらに脳腫瘍も併発していたことが判明。フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌ではハリスンの体調に関する様々な憶測が飛び交った。本人からは否定のコメントが出されたものの、秋に入ると報道は更に加熱。2001年11月には、各国の大衆紙で彼が危篤状態であることが報じられた。そしてそれから間もない同年の11月29日(日本時間11月30日早朝)、肺癌のため彼は滞在先のロサンゼルスで死去(58歳没)。なおビートルズ・ファンからの追悼の巡礼を逃れるためにオリヴィア夫人が虚偽の場所を死亡証明書に記載したため死亡した場所は明らかになっていない。

1975年発売の「ジョージ・ハリスン帝国」から「You(二人はアイラブユー)」を推薦します。
ビートルズ時代のジョージの名曲は「Something」でしょうが、ソロとなるとむつかしい。ソロになってからバラードというかゆったりした曲が多くヒットした一方で、明るく前向きでキャッチーな曲がこれ。シンプルな歌詞ですが、素晴らしいメロディです。