ドラマ『ねらわれた少女』

〇フィルモグラフィーを更新しました

長篇大河連続ドラマ
『ねらわれた少女』

出演:レモンエンジェル
  (絵本美希、島えりか、桜井智)

脚本・監督:旦   雄二

あぶないビデオTV   1988年
フジテレビ   創映新社
プルミエ・インターナショナル

こちらから↓ご覧いただけます。ニコニコ動画にアップされていた、突っ込みコメントつきバージョンではありますが(笑)

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(5分48秒)


映画監督・旦(だん)雄二のブログ

映画『真っ赤な星』を鑑賞して

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日本映画『真っ赤な星』(脚本・監督:井樫 彩)を試写で観た。


いずれも生きづらさを抱えて生きる14才の少女と27才の元看護婦の、交流と、愛と、しかしどうしようもなく越えがたい溝を描く物語である。


ストーリー展開も画づくりも役者の芝居や所作もすべてが美しく静謐なのに、おそろしいほどの緊張感に充ち満ちている。


そして、弱冠22歳の井樫彩監督の、人間を見つめる、その、なんと老成した深いまなざしであることか。


観終えて井樫さんにただひとこと、「まいりました」とだけお伝えした。


12月1日の本公開で再見するのが、いまからたのしみである。


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映画『M/村西とおる狂熱の日々』を鑑賞して

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ドキュメンタリー映画『M/村西とおる狂熱の日々』(片嶋一貴監督)のプレミア上映会に、主役の村西とおるさんからお招きいただき、鑑賞した。昭和のAV王といわれた村西とおる監督を、1990年代末の彼の撮影現場での厖大な記録映像と、いま現在の本人や、彼を知る各界著名人(本橋信宏、玉袋筋太郎、西原理恵子、高須克弥、松原隆一郎、宮台真司、片岡鶴太郎)へのインタビューによって、あざやかにあぶりだし、徹底的に、裸の帝王・村西とおるを裸にする。

べらぼうに面白い。ぐいぐい引っ張っていかれる。あっという間の109分だった。いわば、ジェットコースター・ドキュメンタリーである。自分が望む映像をそのとおり撮ることに取り憑かれた男と、次々に巻き起こってはそれを阻むアクシデントやトラブルの数々。男はその一つひとつに全身で怒り、対決し、乗り越え、またふたたび鼻歌を歌いながら、確信犯的に撮影を推し進めていく。「日本のラリー・フリントもしくは和製エド・ウッド、驚愕の撮影内幕!」の趣なのである。

村西とおるという、戦後東北の貧困が生み出した、もう一人の若松孝二の、しかし若松孝二にはなれなかった、若松孝二とは対極の映像人生を生きた単純で複雑な存在を立体的に浮き彫りにしてみせた、片嶋一貴監督(映画『いぬむこいり』『アジアの純真』『たとえば檸檬』)の見事な演出と編集の勝利というわけだが、これには、22年前の過酷なロケ現場で、逃げ出そうとする女優たちや役を降ろされた男優に突撃インタビューを敢行しつづけた、メイキング・ディレクターとして参加の清水大敬監督による貢献が、きわめて大きいだろう。

彼が渾身の力を込めて演出、撮影、インタビューした貴重で厖大な映像著作を、片嶋さんが監督を引き継いで一本の映画にまとめるにあたって、両者のあいだでどのような話し合いが行なわれたのだろう。はなはだ興味深いところである。上映直前にばったりお会いした大敬さんにそのあたりをお訊ねしようとしたときには、彼は早々に会場をあとにしていて、その機会を逸し、残念だったのだが。

それにつけても、人物ドキュメンタリーのあらたな傑作をいちはやく鑑賞できて、ほんとうによかった。個人的には、奥出哲雄(上映作品に主要人物として登場)、代々木忠(上映後の舞台にゲスト登壇)という、わが映画人生における二人の恩人とのまさかの再会にも、じつに感慨深いものがあった。

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若松孝二監督のこと (10月17日 記事)

若松孝二監督のこと

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若松孝二監督の映画をはじめて観たのは、故郷・大阪のキリスト教系男子高校時代、同じ敷地のなかにあった、系列姉妹校にあたる大学の構内でだった。


その大学は、のちに京都大学とともに赤軍派発祥の地となるほど先鋭化をきわめていて、学生によるバリケード封鎖と自主管理が、ながく続いていた。そしてその構内では、いわゆる「空気入れ」、つまり「景気づけ」のために、殴り込みでクライマックスを迎える構造のいわゆる任侠映画や、小川プロなどのいわば「戦意高揚」ドキュメンタリー映画が、たえず上映されていた。


私は高校一年のときから自治会執行委員長(生徒会長)をつとめていたので、そのバリケードのなかには顔パスで入れ、それらさまざまな映画を日々、浴びるように観ることができた。


そんなある日、のちに大島渚さんによる命名だと知ることになる強烈で絶妙なタイトルの『処女ゲバゲバ』という映画に出会ったのだった。一面の荒野で繰り広げられる、権力と反抗、裏切りと報復、純愛と非情をめぐっての、壮絶かつシュールな物語だ。中学時代に007や東宝娯楽映画にハマって映画監督になることを目指しはじめた自分だったが、それは、それまで観てきた映画とは決定的に違う、まったく新しい、衝撃的なものだった。


こんな映画をつくる人がいるのだ。映画はかぎりなく自由なのだ。なにをやってもいいのだ。こういう映画をつくりたい!  ── そう思わせてもらえた。若松孝二というその監督の名が、しっかりと頭に刻み込まれた。


以来、スポーツ新聞の映画欄をチェックしては京阪神の場末の小屋を遠征してまわる、「若松孝二追っかけ」の日々がはじまった。若松さんの新旧の映画を観てまわったのだった。


大学進学で東京に移ってからは、おもに、アートシアター新宿文化劇場と、その地下にあった、『蠍座』という名の不思議な、サロンのようなミニシアターで、若松さんと若松プロの映画を観まくることとなった。


長じて映画の世界に飛び込み、のちにCMに転向してからその映画時代の助監督経験をもとに書いたシナリオが城戸賞を受賞し、そのなかに登場させた暴力監督の役名を「若林」としていたため、世間ではこれはきっと若松さんのことなのだろうと喧伝されるようになった。実際には、これは、CMの世界ではよく知られている巨匠監督(ディレクター)Sさんの破天荒な生きざまと壮絶な現場をおもなモデルにしていたのだが、若松さんもやはりこれは自分のことだと思って気にしておられたらしく(「俺はそんな、下駄の歯で助監督の額を割るようなことだけはしない!」と怒っておられたと、のちに周囲から聞かされた)、それを知った毎日新聞映画記者・松島利行さんの粋な計らいで、助監督時代ですらかなわなかった、「若松孝二」に直接お目にかかるという、まさかの機会を得ることができた。


新宿の酒場。若松さんはすでに相当飲んでおられるご様子だった。「若松さん、こちらが、あの『助監督』というシナリオを書いた人ですよ」。松島さんのその言葉を受けて、若松さんは、酔いにすわった目で私を睨みつけるようにしながら、ぬうっと立ち上がった。殴られる!  瞬間そう思い身構えたが、驚いたことに若松さんは、頭を下げ、「若松です。キネマ旬報で読ませていただきました」とおっしゃったのだった。── なんていい人なんだろう!  ますます好きになり、やはりこの人についていこうと、思いをあらたにした。以後、監督協会や映像塾(私のかつての師匠で、若松さんからは孫弟子にあたる人物が立ち上げた映像教育私塾。むかし助監督だった縁で、私が運営補佐をつとめた。若松さんには深作欣二監督とともに顧問をお願いした)でご一緒するようになってからも、つねに、なにかと気にかけていただくこととなった。


そのように長いおつきあいの時を経た、2000年代はじめのある日、事務所にあそびにうかがった私に、若松さんは「おみぃ(おまえ)、いま何やってんだ?」とお尋ねになり、私は「つい最近起きた、少年が母親を殺して北へ自転車で向かった事件を映画にしようと思っています」とお答えした。すると若松さんはニヤリと笑って、「俺もあれ、やるんだ。もうホンもできてる。もうすぐ撮影だよ」とおっしゃった。おどろいた。つい最近の出来事だというのに。若松さん、あなたは近松かよ!  ── 自分の構想は白紙に戻し、ほかの実話も交えて、まったくべつの、あらたな物語をいちから書くことにした。


若松さんの企画は映画『17歳の風景  少年は何を見たのか』となり、私の企画は映画『少年』として結実した。若松さんには、企画を練り直して熟考する機会を与えていただいたことになり、その意味でも深く感謝している。だから、若松さんには、だれよりも、いちばんはやく観ていただきたかったのだ。


映画少年のころから観つづけてきた若松映画と、若松さんからいただいたさまざまなお言葉は、いまも、私の骨格そのものとなっている。


〇きょう10月17日は、若松孝二監督のご命日にあたります。若松さん、ありがとうございました。あらためてご冥福をお祈りいたします。どうぞ安らかにお眠りください。



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プロフィール写真を統一しました

Twitterの私のプロフィール写真のことを「怒っている猿みたいだ」と、未知のかたにツイートされてしまいましたので(涙)、高校時代から敬愛してやまない超美人の、映画評論家でもある詩人のかたより「ええっ、こんなにダンディーなかただったのですか!」とのお言葉を頂戴したこの写真を ( ↑ ) 、統一プロフィール写真とすることにいたしました。

いかがでしょうか。これなら「怒っている猿」とはいわれないと思うのですが・・・。

ちなみにこの写真 ↑ が「怒っている猿」だそうで・・・


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渡辺護監督と冷麺の思い出

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渡辺護監督と冷麺の思い出

さきの南北首脳会談の実況中継を見ていて冷麺の話題が飛び出したときすぐに頭に浮かんだのは、いまはなき師、渡辺護監督のことだった。

助監督についていた1970年代のある日、あれは何の打ち合わせの途中だっただろうか、都心の繁華街を二人で歩いていて、昼食にしようということになった。そして、昔のデパートの大食堂のように和洋中なんでも揃っている大衆食堂に入り、メニューを一瞥したとたん、護さんは即座にこうおっしゃったのだった。

── 俺、冷麺!

1970年代当時の日本で、昼食に韓国冷麺という発想はなかなかないように私などは思っていたので、なにか意表を突かれる思いがして、絶句した。そのことをいまもはっきりと覚えている。

そして、以来、それまでいちど口にしただけで苦手に思っていた冷麺に関心を抱くようになり、いまでは、それを日本流にアレンジした東北名物・盛岡冷麺などは、昼食にいただく、好きな食べ物のひとつとなっている。


きょうのお昼ごはん
@新宿 歌舞伎町
中華食堂一番館
盛岡冷麺 大盛 660円


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演劇『浅草アリス IN WONDERLAND』を鑑賞して

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劇団ドガドガプラス第26回公演『浅草アリス IN WONDERLAND』(作・演出:望月六郎)を観た。

バスに轢かれたバスガイド(!)が臨死状態でさまよう彼岸のワンダーランドはそのまま望月六郎の脳内妄想暴走世界になっていて、終わっての飲み会で六さんご本人に「あんたのアタマの中はどうなってんのよ?」と呆れてみせたほど、あれよあれよのノンストップびっくりオモチャ玉手箱で、上演時間2時間強を一気に駆け抜けてみせてくれる。大満足、大満腹なこと、このうえない。

わたしたちが生きるこの世をつかさどるあらゆる「物語」の基本的原型ともいうべき「お伽噺」への大いなる批評、読み返し、再構築、融合にもなっていて、だから、これを観る者一人ひとりが、その場で、おのれの人生を生きなおすことになるのだ。

自己表出──観ているあいだ頭に浮かびつづけていたのは、この言葉だった。生きづらさから解き放たれ、おのれを100パーセント表現し、全的に生きること。これは、それを伝えようとしている芝居なのだと。舞台を飛びまわる登場人物の一人ひとりが、それを演じる役者たち本人の一人ひとりが、そしてまた、客席からコールをかけながらそれを見まもる観客の一人ひとりが、いま、それぞれ、自己表出し、おのれを全的に生きている!

パンフレットに「今回のテーマは『変態』」とあり、たしかに歌って踊って芝居するにぎやかな『変態』たちのオンパレードでありつつも、観進めるうちに、この『変態』にはもうひとつの意味があったことに思いを致し、ひとりニヤリとしたのだった。芋虫が蝶に変わる──変態。そう、やはりこれは、人が変身することについての、人がおのれを生きなおすことについての、切実で真剣な物語なのである。

役者の充実ぶりも素晴らしい。歌って踊って芝居ができる粒の揃った役者を、劇団員も客演演者も含め、これほどまでに集めることができる望月六さんの人望と組織力の凄さを、いまあらためて思う。

2006年真冬のこと、中村幻児組兄弟弟子筋にあたる望月六郎が満を持して劇団を旗揚げしたとあっては観ないわけにはいかないと、その第一回公演の記念すべき初日に勝手に押しかけて以来、このドガドガプラスという劇団は、つねに気になる存在だった。その看板女優がなんとわが旧友の愛娘であったというまさかの偶然も、うれしい驚きだった。

ひさしぶりに拝見したそのドガドガプラスの最新公演『浅草アリス IN WONDERLAND』。観てよかった。傑作だった。大満足だった。

望月六郎とドガドガプラスからは、まだまだ目が離せない。

(8月24日 観劇)

〇同公演は、きょう27日 19時が最終回。浅草東洋館劇場にて
同公演詳細情報サイト

作・演出の、映画監督でもある望月六郎


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映画『焼肉ドラゴン』を鑑賞して ⑴

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公開中の日本映画『焼肉ドラゴン』(原作・脚本・監督:鄭義信  チョン ウィシン)を観た。万博に沸く1970年前後の大阪で、高度成長に取り残されながらもたくましく生きる在日コリアン一族の喜怒哀楽の物語。

家長の金田龍吉とその妻を、さすが本物のリアリズムで渋く造型してみせた、韓国映画界からの客演、キム・サンホ(『ありふれた悪事』)とイ・ジョンウン(『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』)。

その金田家の長女と次女のあいだで、そしてまた「日本」と「北」のあいだで、おなじように、日々揺れ動く優柔不断で悩み多き二枚目半を、これ以上ないほどまでに絶妙に演じきった大泉洋。

長女が抱える屈折と哀しみに捨て身で取り組み、見事にそれを体現してみせた真木よう子。

いずれをとっても素晴らしく、さながら演技合戦の趣なのだが、個人的にいちばん打たれたのは、井上真央の吹っ切れたぶっ飛び演技だった。気の強い、しかしじつは繊細で家族思いの次女を、複雑に、こまやかに、丁寧に表現していて、ああ、こんなに上手い役者だったのかと、うれしい驚きをいただいた。

その井上(神奈川県出身)や真木(千葉県出身)や大泉(北海道出身)をはじめ隅々にいたるまでの役者が、ほぼ完璧に大阪弁を操っていたことも、大阪出身者としては、まことに喜ばしい思いがした。まことしやかにデタラメな「大阪弁」が飛び交う「大阪もの映画」ほど、観ていてつらいものはないのだが、これは、みなさんネイティブ大阪人かと思うほど、方言指導が徹底的になされていた。いやもちろん役者の皆さんの才能と努力が基本にあってこそなのだろうが。

そのように、たいそう面白く、興味深く鑑賞したのだが、純粋に「映画としての」出来は、はたしてどうだっただろうか?

(つづく)

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津川雅彦さんご逝去を悼む

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日本映画の父・マキノ省三 直系の孫で、幼少時から活動写真(=映画)に子役として出演、長じて日本を代表する名優となり、その晩年まで終始一貫して第一線で活躍、つまり、日本映画史そのものを生涯にわたって背負いつづけた、俳優にして映画監督の津川雅彦さん(監督名は「マキノ雅彦」)が旅立たれました。

晩年のその時代逆行的なお考え、ご発言には大いに戸惑わされ、正直、ついてはいけなくなりましたが、私にとっては、やはり、永遠に「日本のヌーベルバーグの星としての津川雅彦」「怒れる若者たちの代表としての津川雅彦」です。

映画『狂った果実』(1956年  中平 康監督)で、青春の焦燥と葛藤、暴走と破滅を鮮烈に演じきった、いまだ16歳の、若き津川雅彦さん。


映画『日本の夜と霧』(1960年  大島 渚監督)で、霧深い夜の闇から、コートの襟を立てて幽鬼のごとく立ちあらわれ、かつての同志たちを激しく糾弾した、全学連活動家役の津川雅彦さん。

映画『ろくでなし』(1960年  吉田喜重監督)で、無為な日常を刹那的に狂乱と暴走のまま生きて破滅に至る青春群像の一翼を担い、強烈な存在感をみせつけてくれた津川雅彦さん。

すべてがいま鮮やかに脳裏によみがえります。

日本映画そのものであった津川雅彦さん。日本映画史そのものであった津川雅彦さん。ありがとうございました。つつしんでご冥福をお祈り申しあげます。


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前期の授業をふりかえって思うこと

朝日新聞『声』欄  日曜版の前回特集『外国人との共生』(7月29日)を読み返しながら、ちょうどその週に終わった、関係する映画専門学校の前期授業に思いを馳せている。

それは、担当する講座のひとつの『卒業制作シナリオ指導』なのだが、今年わたしが受け持つ生徒は27名で、しかしそのうち日本人は10名のみ、中国など中華圏からの留学生が総勢15名と最多を占め、あとはモンゴルとラオスからそれぞれ1名ずつ、というクラス編成になっている。だから休み時間の教室にはさまざまな言語が飛び交い、まことに賑わしい。そして、その多国籍感を、とても喜ばしく、うれしく思うのである。

そんな彼ら、他所の専門学校や大学でも急増しているという留学生諸君のほかにも、この国には、わたしたちとおなじアジア圏や欧米・中南米諸国から数多くの観光客が日々訪れ、国内各都市を賑わせている。そして、来日したまま残留する外国人と、それに従来の永住外国人を加えた数は、最新の統計によれば、じつに256万人を突破し、過去最高記録を更新したという。

某女性大作家がいうような「人種で分けて居住させるべき」といった問題ではなく、ことほどさように、日本はすでにさまざまな人種・民族が市民社会の隅々で混じり合い、融合しているのである。決定的に(いや、もともとそうであるわけだけれども)多民族国家となっているのだ。

わたしたちはこの現実にもっと真剣に向きあわなければならない。そんな大切な隣人たちに二度とつらい思いをさせてはならない。さきごろ燐光群の演劇『九月、東京の路上で』が提示した貴重なメッセージのように、彼らを排斥・迫害するようなことが二度とあってはならない。友好と共生の真に豊かな社会をわたしたちは築いていかなければならない。それが、これからの日本が進むべき道である。

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