日本映画『始まりも終わりもない』(製作・脚本・監督 伊藤俊也)を鑑賞した(2014年1月6日、東京 渋谷 シアター・イメージフォーラムにて)。

一年の映画鑑賞を何から始めるか、年の初めに観る映画を何にするのか、これはじつに悩ましい問題で、それは、その年の自分の、映画に向き合う姿勢が問われるように思うからだが、今年はこの作品にしてつくづくよかったと感じている。

伊藤俊也監督は昨年の沖島 勲監督(『WHO IS THAT MAN!? あの男は誰だ!?』)と同様、映画には無限の可能性があるということをあらためて教えてくださった。映画というものはいわば “なんでもあり” なのだと、力強く示してくださっている。

始まりも終わりもなく、ながい宇宙的時間のなかのほんの一瞬、気がつけばただそこにいるだけの、人間という存在、その一生、このじつにとらえどころのないものを、世界的舞踊家の田中泯が、無言で演じ、舞い、踊る、日本的無常観に満ちた前衛舞踏劇、映像詩だ。

映像で語るという、映画のそもそもの原初に立ち返り、しかもまるで 映画の遠い未来の最終到達点から いま現在の映画のありようを鋭く問うてきているような、これは、じつに恐るべき映画である。

宇宙の始まり、人類の誕生と歴史、人間の生と死、苦悩と喜び、さらには このまえの大戦、空襲、いくつかの大震災、そしてまた、いま この時点、リアルタイムの日本の社会の現実・・・と、さまざまに思いを巡らされる寓意に満ちているのだが、それはあくまでも私個人の印象や解釈であって、それら場面ごとや映画全体の意味が観客一人ひとりの自由な捉えかたに委ねられた、解釈を押しつけないつくりになっていることが、かぎりなく素晴らしい。

荒野と都市(丸の内! 新宿! 銀座!)で展開する圧倒的なイメージの噴出、衝突、止揚の、なんと刺激的、示唆的であることか。金井勝、足立正生、松本俊夫、寺山修司、大和屋竺といった、おなじように重要な前衛たちが現出させてきた迷宮世界にも通じる豊饒な味わいに嬉しくさせられるが、ここでは それらとはまた違った ひとつの大きな宇宙が起ちあがっている。

きわめて貴重で偉大な、映画の実験、冒険を観せていただいたのだったが、撮影が寺山修司監督の数々の実験映画を支えられた鈴木達夫さんであることや、大島ミチルさんの音楽、というよりも音響が、作品世界にしっかり寄り添って充実・成功されていることも、じつにまた喜ばしい。

田中泯さんの身体性の貢献度はもちろん大なのだが、俊也さんはただそれに乗っかっておられるわけではもちろんなく、いわば絶妙のコラボレーション、真剣勝負、ぎりぎりの対等の対決になっていて、そこがまたじつに素晴らしい。

映画『誘拐報道』などの正攻法でナラティブな語り口、わが映画監督協会製作映画『映画監督って何だ!』のメタ映画構造かつ情報ブリーフィング的話法とはまた打って変わって今度はこの新しい手法に挑まれる、作品のその都度ごとの適確な方法論に取り組もうとなさる、さらにこの映画では自主製作・セルフプロデュースという領域に踏み込んでおられる、この先達のご姿勢に圧倒され、あらためて畏敬の念を覚えたのだった。

『始まりも終わりもない』。いや、この映画が、すべての映画のあらためての始まりとなり、あらゆる映画の輝ける終わりとなるだろう。生まれた瞬間に古典となった映画、とでも言うべきだろうか。映画館での上映は終了してしまったが、なんとかして もういちどスクリーンで拝見したいと思っている。

(2014年1月23日・執筆)
(2020年2月18日・加筆)

映画『始まりも終わりもない』公式予告篇



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カナダ・スペイン合作映画『複製された男』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 原題 ”ENEMY" = 敵 )を鑑賞した。ノーベル文学賞作家、ジョゼ・サラマーゴの原作小説を映画化した不条理ミステリーである。

大学で歴史を教えるアダム(ジェイク・ギレンホール)は、ある日、自分そっくりの男と偶然出会う。それ以来、奇々怪々な出来事が立てつづけに起きて・・・。

真の映画とは、こういうもののことをいうのだろう。ほんとうの意味での「映画」だけが持つ、映画というものの “あるべき語り口” が、ここには一貫して、濃密に存在する。映像で語り、そのひとつひとつの映像の連鎖と蓄積、互いの衝突で、観る者の想像力を喚起し、次第にイメージを形成させていく。映画的興趣、映画的興奮とは、このことだろう。

とはいえ、ものたりなさや不満がないわけではなかった。「不親切な安部公房」あるいは「突っ込みの足りないデヴィッド・リンチ」と言えば、観終えたあとのこの奇妙な印象、読後感が おわかりいただけるだろうか。

鑑賞後5年が過ぎたいまあらためて振り返ってみると、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督がのちに手がけた作品たち、『メッセージ』(2016年)や『ブレードランナー 2049』(2017年)にも通じる「どうしても解明できない曖昧さ」が、そこにはあったように思う。

(2014年7月28日・執筆)
(2020年2月17日・加筆)


映画『複製された男』公式予告篇


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映画『ラ・ラ・ランド』(アメリカ映画 デイミアン・チャゼル 脚本・監督)を観た。あれれ、この違和感はなんだろう。ぼくはどうにもついていけなかった。『ラ・ラ・ランド』というよりも『レレレノレ・ランド』である。はげしく面食らってしまった。こんな気分になったのは ぼくだけだろうか?


「ミュージカル映画についての『批評映画』」の高みからつくられているところが、まずもって うっとうしい。ミュージカル映画から映画全般、さらにはジャズ音楽に対する過剰なこだわり、オマージュ、言及、蘊蓄、引用に うんざりさせられる。


ミュージカル映画の醍醐味は、物語が気持ちよく進行し、やがてドラマが生まれ、徐々に徐々にと盛りあがって、気がつけばセリフが歌になっている──その点にある。だからこそ、現実の社会生活のなかで言葉が歌に変わるなどという本来ありえないことが、観る者に自然に受け容れられるのだろう。ロマンチックかつムーディーに、いつのまにか歌になっていかなければならない。


ところがこの『レレレノレ・ランド』では、「はい、ここで歌を一発!」というように、なんとも機械的な感じで、突然 歌が始まるのである。ミュージカル映画の興趣に欠けること おびただしい。


ミュージカル映画のもうひとつの醍醐味は、歌の場面を、カットをきっちり割って、カッティング、モンタージュで縦横無尽に観せてもらうところにある。あの『ウエスト・サイド物語』や、近いところでは『レ・ミゼラブル』の、歌の最中で、キャメラが「寄り」から「引き」にドーンと切り替わる、あるいは切り返し、クローズアップや俯瞰、大ロングと、さまざまな画を計算して繰り出してくる、あのカット割りのダイナミズム、快感こそが、ミュージカル映画の命なのである。


しかしながらこの『レレレノレ・ランド』では、すべての歌場面が、いったいどういうつもりか、基本 ワンシーンワンカットの長回しになっている。毎回「どや、ここもワンカットで撮りきりましたでえ!」という監督の声が聴こえてくるようだ。だがそれはいけない。間違っている。ミュージカル映画の興趣を削ぐこと はなはだしい。


オープニングのシーンからしてそうなのだ。高速道路を借り切って、ほぼワンシーンワンカットの長回しで歌と群舞を延々見せてくれるのだが、しかし、退屈なこと このうえない。


このファースト・シーンには、べつの問題もあって、シーン全体にわたってえらく逆光ぎみで、演者たちの表情や踊る肢体の様子がよく見えない。キャメラが回り込んで逆に入っても、どういうわけか、その状態のままなのである。ミュージカル映画でそれは致命的だろう。パナビジョン社にあらたなレンズとアナモを特注して撮影にのぞんだとのことだが、このシーン、映像のキレが半端なく悪い。ミュージカル映画の興趣を損なうこと いちじるしい。


(2017年3月13日・記)


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映画『ピース・オブ・ケイク』(田口トモロヲ監督)を観ました。トモロヲさんって、監督としても一級ですね。まいりました。素晴らしい。25才女子の心の揺れ動きを絶妙にとらえている。深刻過ぎず、軽過ぎず、ちょうどいいトーン、タッチで。

向井康介さんの脚本も、主人公のモノローグをやたら繰り出してズルいなあと思いながら観ているうちに、やがて、あゝこれしかないんだ、これは考え抜かれた方法なんだと気づかされます。

鍋島淳裕さんの撮影も、おそろしく的確で素晴らしい。

そして多部未華子さん。ここまでうまいとは思わなかった。脱帽です。微妙な感情の変化を繊細に演じ分けている。

裏の主役たる あかり役の光宗薫も、たまらなくいい。個人的に苦手だった綾野剛さんも大好きになってしまいました。嫌いな役者や苦手な役者を好きにさせてくれる、それって いい映画なんです、ぼくにとっては。

あと松坂桃李のオカマの天ちゃんなんかはもう至芸の域に達してるし。菅田将暉も木村文乃も峯田和伸も、それから要所要所でぐいぐい攻めてくる柄本佑も、みんな適材適所の大好演で、その芝居合戦かつアンサンブルのなんと見事なことか。これほどの豪華布陣を采配して一人ひとりから名演技を存分に引き出してみせることができるのは、やはりトモロヲさん自身が名役者だからなんでしょうね。

ひとつだけ。松坂桃李のオカマの天ちゃんが「そんな男にかぎって、こんなもんなのよォ」と言ってみせるときの仕草の寄り (アップ) にどうして入らないんだろう。見せないので、そこがとても気になりますね。まあそれぐらいで、あとはすべて大満足でした。あ~、はやいうちにもういちど観たい!

(2015年10月6日・記)

映画『ピース・オブ・ケイク』公式予告篇



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映画『夏をゆく人々』を鑑賞して

「刹那」という言葉がある。この珠玉の名作を観てからというもの、その言葉が頭から離れない。

映画『夏をゆく人々』(イタリア・スイス・ドイツ 合作映画 監督・脚本 : アリーチェ・ロルヴァケル)。イタリア・トスカーナの田舎町に暮らす養蜂家の家族の、とくにその幼い娘たちのうえを風のように通り過ぎる、まるで淡い夢のような、一瞬の夏を描いた物語である。

ひと夏という かけがえのない時間、手のひらからこぼれ落ちる砂粒のようにけっして二度とは戻らない「刹那」を描いて、この映画は、はかなく、せつなく、美しい。

青い海にきらめく真夏の陽光。深い洞窟の壁に照らしだされる篝火のあかり。水たまりに映り、娘の足先と戯れる天空からの光──。そう、これは、私たちが生きるこの世界の、光と影をめぐる物語でもある。

つましい住まいに射し込む陽だまりのなかで、娘の一人が妹に、けだるく、ひとり言のように、こうささやいてみせる。「さあ、この光を飲み込んでごらんなさい」

ひと夏が、子どもでいられる時間が、そしてまた人生が、光と影が織りなすほんの一瞬、刹那にすぎぬということを、弱冠33才の女性監督アリーチェ・ロルヴァケルは知っている。

しかし、そのことを悲観や諦念としてではなく、この世と人の生のあるがままのありようとして、あるいはまた宇宙の摂理として自然に受け容れ、静かに向きあおうとしている。

映画は監督自身の少女期の実体験に基づいているという。監督のこの独特の、対象のとらえかた、見つめかたは、そこからきているのだろうか。

そのように監督が淡々と描く映画世界のなか、平凡に田舎町の夏をゆく人々のもとへ、ある日、遠くドイツから、テレビ・バラエティーの収録クルーが押しかけてくる。

未知の世界、異質なものとの出会い。都会の息吹き。きれいで洗練された大人の女性たちの、はじめて見るきらびやかな服装、華やかな化粧──。娘たちは、知らず知らずのうちに、しかし確実に、それらの影響を受けはじめる。そして、年ごろの彼女たちのなかで、なにかが次第に変わっていく。性に目覚め、大人への一歩を歩みだすのだ。

娘の一人は、その口の中にそっと含んでおいた蜜蜂を、まるでなにかの儀式のようにじわじわと這い出させ、それを身近な者にだけ秘めやかに披露する。不思議なエロティシズムを醸し出す秀逸な映像表現である。

はじめて外で一夜を明かして家に帰ってきたその娘(ジェルソミーナ!)が、大人の顔になっている(メイクによってではなく、芝居として大人の顔を表現している)ことにも感銘を受ける。

「家にはどこかに秘密を隠していいのよ」──終盤、母親が娘たちに、そんな、謎かけのような言葉を告げる。

そして、オープニングと対をなす、これもまた謎めいた味わいの不思議なエンディング。

これらの心憎い仕掛けによって、「刹那」というものがじつは「永遠」と同義であることを、わたしたちは思い知らされるのである。

2015年8月26日・記

映画『夏をゆく人々』公式予告篇



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映画『群青色の、とおり道』を鑑賞して

人はだれもいつかは自分のとおり道をとおって過去へと戻らねばならない。自らのこれまでと、そして今に向き合うために──。

映画『群青色の、とおり道』(佐々部清監督)を鑑賞した。音楽の道に進むことに反対され、勘当同然に群馬の家を飛び出した青年が、10年後に東京から故郷に戻り、家族、とくに父親、そして、高校時代の群青色のときの中に置き去りにしたガールフレンドや友人たちとの距離感、関係を見つめなおし、自分自身もあらたな成長を遂げていく、胸に迫る感動の物語である。

私の場合は映画だった。この作品の主人公と同じく高校生のとき、映画の道に進むことに、教育者の父は激しく反対した。東京の大学に進学するという形をとって、私は父と故郷から離れることにした。その、とおり道を何度も戻っては父と向き合い、自分がやろうとしていることを認めてもらうまでには、10年よりも長い歳月が、父と私のあいだを過ぎ去っていった。

そのことと重ね合わせることなくしてこの作品を鑑賞することは私にはできない。それゆえ、なおのこと、つよく共鳴し、深く感動し、激しく慟哭したのだった。

いや、これは私だけのことではないだろう。表現、芸術、ものをつくるということを志した者、あるいは、自分なりのなんらかの夢を抱いたことのある者には、きっと、この物語は、その心の琴線にふれることだろう。地方の小さな町のごくささやかな物語は、そのまま、いつの世にも、そして、どこに生きる者にも通じる、普遍の大きな物語となっている。

群馬県の太田市合併10周年記念映画として製作されたという。群馬の自然、群青色の田園風景が美しい。そこに暮らす人々の温かさ、優しさが胸に沁みる。佐々部清監督の練達の演出と、スタッフのたしかな技術、俳優陣一人ひとりの好演が、心に残る青春映画、人間ドラマとして見事に結実している。

人はだれもいつかは自分のとおり道をとおって未来へと進まねばならない。自らの今と、そしてこれからに立ち向かうために。

それを象徴するかのような、クライマックスの、これまで未完のままとなっていた曲の10年ぶりの完成と、地元に伝わるねぷた祭りの圧倒的な昂揚が印象的だ。そして、おもな登場人物が一堂に会するラスト・シーンが、観る者に救いと希望の思いをもたらし、忘れがたい余韻を残してくれている。

(2015年6月10日・記)

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映画『アメリカン・スナイパー』を鑑賞して

映画『アメリカン・スナイパー』を観た。タカ派で知られるクリント・イーストウッド監督だが、この映画がいくぶんヒロイックで戦争肯定的な仕上がりになっているのは、そうした彼の政治的信条の反映というよりも、現に実在する国家的「ヒーロー」の実話を基本に物語っていかなければならないことによるものだろう。

そのあたりをべつにすれば、この巨匠は、いつものように、そう、『父親たちの星条旗』や『硫黄島からの手紙』のときと同じように、「敵」や「味方」への分け隔てない公正で客観的な視座を、ここでも常に貫いている。大きく引いた、いわば神のような高い視点から、冷徹に、国家、集団、人々のあいだで起こりうる、戦争、闘い、争いというものの真実、本質に迫ろうとしている。それは、たとえばあのジョン・フォードでさえも到達しえなかった作家的境地、高みである。これこそ真の映画作家というべきだろう。

上映時間中、凄まじい戦闘と殺戮がたえず連続するのだが、映画全体の「読後感」としては、なにか、一幅の荘厳な宗教画を鑑賞したような、あるいはまたその一方で、きわめて精緻な静物画の小品に出会えたような、清廉で豊かな心持ちをもたらされる。

戦争の最前線で、戦闘行為の真っ最中に、故郷に残した妻と携帯電話で私語が交わせる国。戦争の現場と銃後が地続きの国。四六時中、世界のどこかで戦争をしている国。国民が自国のすべての戦争に等しく関わり、その病をもまた一様に背負う国──。政権中枢、軍部、民間、大人から子供に至るまで、アメリカという国に生きる者は、ただの一人も残さず、戦争加害者であると同時に戦争「被害者」でもあることを、あらためて強く思い知らされる。

映画の最後の最後で、その、数多く存在する自国内の「戦争『被害者』」の一人が唐突に登場し、この偉大な物語を突然終わらせる。主人公がアメリカ戦争史上最高の「ヒーロー」であるならば、こちらは負の「ヒーロー」、アメリカ戦争史上最悪の「ヒール」である。この、いわば、新大陸侵略開拓からカウボーイング、さらには「世界の警察」へと至る「アメリカ神話」そのものにも冷酷にエンディングを突きつける衝撃的で痛切なラストに、それまで鑑賞していて受けていた印象、感想とはまったく違った、次のようなあらたな思いを強烈に抱いたのだった。──アメリカは、クリント・イーストウッドは、まさにこの者をこそ描くべきではなかったか。

(2015年3月4日・記)

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公開中の映画『AI崩壊』(入江悠監督)をさきほど観終えた。

エンド・クレジットでは原作として「浜口倫太郎 講談社文庫」と表示されるが、これはあとから書かれたノベライズ版で、あくまでも入江さんの完全オリジナル脚本にもとづく作品であるとのこと。

その脚本が驚くほどよくできていて、人物や事物をたえず動的に配しつづける演出と相まって、最初から最後まで一切飽きさせることなく、観客をぐいぐい引っ張っていく。もうすでにおなじみになった、ワールドワイドのワーナーブラザーズによるドメスティック日本映画だが、これであれば、本家本元のアメリカから、ハリウッド・リメイクのオファーが来ても、なんら不思議ではないのではないか。

近未来の日本が舞台だが、現在の政権の危うさまでをも反映させていて、入江悠監督は、これもまた浜口倫太郎氏がノベライズした『22年目の告白 -私が殺人犯です-』と同様に、社会派の一面を見せ、たいそう気骨を示している。

ある登場人物の配役とそのキャラクターづくり、演技、芝居づけ、演出によって、話のウラと展開のすべてが、その人物の初出の瞬間に読めてしまい、そこがじつに残念だ。また、クライマックスが非常に日本的、情緒的なものになっていて、そこは若干興醒めするところではある。

ハリウッド・リメイク・オファーの際には、その2ヶ所の再考が求められるだろう。そしてそのハリウッド版は、ほかの監督ではなく入江さんご自身に、セルフ・リメイクとして仕上げていただきたいものである。この作品でハリウッド・デビューをぜひ果たしていただきたい。そんなことを思わされるほど、基本 大満足の、社会派パニックエンターテイメント映画鑑賞体験をさせていただいた、ということなのである。

映画『AI崩壊』公式予告篇



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2月8日 に投稿した記事「シナリオ『あなた買います』を読んで」に、それを拡散シェアしたリンク先のFacebookで、同業者の皆さんから うれしい反響をいただきました。いずれも一般公開のかたちでオープンに発信されたものばかりでしたので、こちらの元ブログのほうにも転載して差しつかえないと思います。非常に興味深いお話ばかりです、どうぞご覧ください。

そのまえに──

まずは、わたしのその投稿「シナリオ『あなた買います』を読んで」の採録から。

わたし
先日のシナリオ作家協会名作研究会『脚本で観る日本映画史』(1月27日投稿アメブロ記事「『相棒』脚本家 輿水泰弘さんの」をご参照)での研究対象シナリオ『あなた買います』(松山善三 脚本)を、遅まきながら拝読しました(月刊シナリオ 2020年2月号 所収)。なるほど、これは、シナリオのお手本、教科書ですね! とくに、研究会で話題になった、岸本(佐田啓二)が笛子(岸惠子)をダンスに誘う くだり、これは圧巻です。そこでの描写自体が、すでに最早、ひとつの映画を観るかのようです。「二人は、激しく見つめ合ったまま、フロアーの方へ歩む」。このト書を突きつけられて、二人のダンスの具体を実際に撮らないほうがおかしいでしょう。「二人は、二人だけしか存在しない愛情の中でステップをふむ」! これには おどろきました。なんと力強い、そして、なんと正確・精緻に書き手の意図・狙いを監督に伝えようとしているト書であることでしょうか。こんなト書は見たことがありません。ものすごく勉強になりました。松山善三さん、ありがとうございます、こんなすごい人だったとは。ほかのシナリオも読ませていただきますね。ただただ敬服の思いです。松山さん、あなた買います!

これに対して、以下、業界の仲間の皆さんから。

伴 一彦さん(脚本家  映画『デボラがライバル』 テレビ『パパはニュースキャスター』)
「私もそう思いました。手元には初稿?のシナリオ(キネマ旬報1956年8月増刊号掲載)があるのですが、栗田に球気の危篤を伝えに行くのが岸本ではなく笛子だったり、いろいろ違っていて 読み比べると面白いです」

わたし
「ありがとうございます。球気の危篤を笛子が栗田に伝えにいく??!!    するとずいぶん様相が違ってきますね。それもまた面白いです。そちらのほうも読んでみますね!」

伴 一彦さん
「そのキネ旬の作者ノートに、原作者と監督と三人で本作りをしたこと、まだ映画化が決定してないこと(あまりに特殊な世界、特殊な人物を扱っているという理由で)が書かれてました。映画化を実現するために必要な改訂だったのかもしれません」

渡辺善則さん(脚本家  映画『ある町の高い煙突』  テレビ『神谷玄次郎捕物控』)
「個人に向けたナレーションというよりモノローグが当時としては画期的では? 木下惠介さんは、新人はナレーションと回想はつかわないように指導していたそうです。テクニックよりも、ドラマを前に進める、ことに若い人は専念せよ、ということらしい。その木下学校の優等生である松山善三さんが、上司に向けたモノローグで話を進めているのは卒業宣言? のちに庄司薫的なモノローグでテレビドラマを変えた山田太一さんの先輩にふさわしい。前略おふくろ様で倉本聰さんが確立した技法の先駆者。小生も読んでみます」

わたし
「ええ、あの岸本の語りは、そこにはいない上司に向けて語っているような、あるいは、そういうふりをしながら自分の内面に向けて呟いているような、そして、もしかすると、そうした形をとりながら 結局は 監督が やはり観客に向けてそのつどの岸本の思いを説明しているような、とても不思議なテイストで、ものすごく興味深く、ずっと聞き耳を立てておりました。そうですね、当時としては画期的だったでしょうね。木下惠介監督が、新人には、ナレーションや回想は使わないようにと指導しておられたとのこと。それは素晴らしいお話ですね。ナレーションや回想はどうしても「逃げ」になりますからね。いいお話をお聴きしました。木下さんは脚本家としても一流だったのだと思い知りました」

伴 一彦さん
「キネ旬に掲載のシナリオにはナレーションは書かれてません。監督の要望で入れたと推察されますが、大いに賛同してなのか妥協してなのかは松山さんに聞いてみないと(無理ですが)。私は監督が伊藤雄之助に魅力を感じすぎて恋愛要素を薄めてしまったんじゃないかと思ってます」

わたし
「そうですね。とても興味深いナレーションですが、わたしも、こういうのは監督からの「外圧」によって生まれたんだろうなと思いながら観ていました。監督が恋愛要素を薄めた件。そうですね、伊藤雄之助への傾倒からでしょうね。あと、小林正樹監督の、もともとの、恋愛ものへの苦手もあるかと思いますね。のちに、恋愛を基本とする成人映画という存在を全否定なさったとのことですから。どんな監督にも『苦手』はあるものですね」

渡辺善則さん
「あの当時の伊藤雄之助さんは絶妙で、橋本忍さん脚本の『いろはにほへと』での捜査二課の刑事がスゴいです。汚職を追う家族の多い庶民刑事で初主演? 悪役で佐田さんが客演してました。確か、『きちがい部落』にも出ていたような。あなた買います、にも出ていた三井弘次さんや多々良純さんなど得難い役者さんがいましたね。最近は柄本明さんが一人で怪演を担当しているようで」

わたし
「伊藤雄之助、すごいですよね。あの芸風は、あとにもさきにも、唯一無二でしょうね。先日、正月2週目ぐらいにBSで『椿三十郎』を再見しましたが、最後の最後に登場して、ものの見事に映画全体を食ってしまう、あの名演に唸らされておりました。黒澤映画での伊藤雄之助といえば、『生きる』の悪魔的な小説家役も忘れがたいですね。三井弘次、多々良純! あと 藤原釜足、渡辺篤、山茶花究・・・! むかしは脇役怪優の幅が広かったですね!」

渡辺善則さん
「本当に凄かったですねぇ。柄本さん以外にも笹野さんや六平さんがいてくれるから、何とかやる気にはなりますが。彼らへの評価は人それぞれでしょうし。そういえば、『帰郷』という仲代達矢さん主演の映画で、脇に回った中村敦夫さんが怪演。同じく橋爪功さんが才気を抑え、見事に江戸家猫八さんになりきっていました。役者さんは舞台が作るのでしょうね。ナイスフォローありがとうございました」

林 弘樹さん(映画監督 映画『惑う〜After the Rain〜』『ふるさとがえり』)
「読んでみたいです!」

わたし
「ぜひに!」

いかがでしたでしょうか。脚本家や監督仲間との対話からは、じつに多くの刺激をいただきます。さあ、いい脚本を書かなければ。いい映画をつくらなければ!

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アカデミー賞の結果が出ましたね。韓国映画『パラサイト  半地下の家族』が 作品賞、監督賞、脚本賞、国際映画賞と最多の4冠を制覇とは、おどろきましたね。アカデミー賞はアメリカの資本が入った映画だけが対象だとばかり思っていました。つまり、アメリカ映画か、どこかの国とアメリカの合作映画にかぎると。しかしそうではなかったのですね。ポン・ジュノ監督の『パラサイト  半地下の家族』は純然たる韓国映画なのですから。外国語映画としても、アジア圏映画としても、史上初の快挙とのこと。しかしそれにしても、作品賞や監督賞、脚本賞といった目玉のものまで含めて一挙に4部門獲得を達成とは。同映画については、2月2日づけの投稿(→ 映画『パラサイト 半地下の家族』を鑑賞して で書きましたように、かならずしもポン・ジュノさんのベスト作品とは思いませんが(そしてまた、いまもその思いに変わりはありませんが)、それとはべつに、ポン・ジュノさんたちチームの今回の快挙には、心から祝福を申し上げたいと思います。みなさん、やりましたね! おめでとうございます!

◯2月2日 投稿記事


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