映画『きみが死んだあとで』を鑑賞して
                                                 10月8日


10・8ショック という言葉がある。

ジュッパチ・ショック ── 

1967年の 今日この日 10月8日、佐藤栄作首相南ベトナム訪問反対闘争がくりひろげられた 東京 羽田 弁天橋で、学生たちと警察機動隊の攻防戦の最中 (さなか) に、京都大学一年生で18歳の山﨑博昭さんが亡くなった。警察発表では「ほかの学生が奪いとって走らせた装甲車に轢かれたため」とされたが、警察機動隊員からの暴行によるものとの疑いも色濃く、その死の衝撃は瞬く間に全国の同世代の若者たちのあいだを駆けめぐり、彼らをして一気に政治や社会問題に覚醒せしめることとなった。事件とそれが引き起こしたこの社会現象を人々は、マスコミも含め、「10・8ショック(ジュッパチ・ショック)」と呼び、それは当時、ひろく「時の言葉」となった。

高校に入学してまだ半年、形の上では自治会執行委員長(生徒会長)の座にまつりあげられながらも、政治など世の中のことは文字どおり「右も左も」わからなかった未熟者の私もまた、この「10・8ショック」の強烈な洗礼を全身に浴びた一人だった。──自分は生まれかわった。そう思った。この日を自分のあらためての、真の誕生日と思いさだめた。時を経て今にいたるも、自身のメールアドレスの一部に、この「あらたな誕生日」の日付を組み入れているほどに。

だから、そうであるがゆえに、この忘れがたき日と、その後の現在にいたるまでの長い歳月を主題にした長篇ドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』は、私にとっては まったく他人事 (ひとごと) ではなく、3時間20分の長尺を、まさに自分のことのように、のめり込むようにして、一気に鑑賞したのだった。この、「我々の世代」に永遠に課せられた「宿題」に、「我々」よりも10歳ほどお若い代島治彦監督が果敢に取り組まれたことに、心から敬意を表したい。

そう、「我々」にとっては「永遠の一日」ともいうべき 1967年10月8日──。この日に起きた衝撃的な出来事は、直後に小川紳介監督によって大問題作『現認報告書  羽田闘争の記録』として急遽 映画にまとめられ発表されたが、山﨑博昭さんの死の真相に迫ろうとした同作とは異なり、この『きみが死んだあとで』は、そこに主眼をおくのではなく(山﨑さんの肉親による「遺体に装甲車のタイヤ痕などはなかった」との証言や、医師による「脳が受けた衝撃が死因と思われる」との分析も登場するが)、むしろ、山﨑さんと深いつながりのあった人々が、彼の死とどう向きあい、受け入れ、「生き残った」者として、その後の長いながい歳月を自らはどのように生きたかを、内省し、語ろうとする、そのそれぞれの姿をじっと見つめることに重きをおいている。だからこそのタイトル、『きみが死んだあとで』なのであり、このタイトルが持つ意味はきわめて重い。

山﨑博昭さんの兄で、博昭さんの名を後世に伝えるプロジェクトを立ちあげた山﨑建夫さん。地元大阪の名門 大手前高校で山﨑さんと席を並べた同級生にして親友、長じて詩人になった佐々木幹郎さん。おなじく大手前高校の同窓生で友人、のちに芥川賞作家となった三田誠広さん。同高校の上級生先輩で、東大全共闘や全国全共闘の議長をつとめた山本義隆さん。彼らをはじめ総勢14人もの関係者が、山﨑博昭さんの死を振り返り、彼が死んだあとの己れの生を見つめなおす。「生き残った」者にとってそれはとてもつらい作業だが、彼らは逃げることなく誠実にそのことに向きあう。だから、彼らの語り、言葉の一つひとつが、つよい説得力をもって、こちらの胸に迫りくるのだ。

山﨑博昭さんは、大阪・大手前高校でも、京都大学でも、その学力・知力を、先生方から高く評価されていたという。もし彼がいまも生きていれば、なにをして、なにを語っただろうか。それを思うと、山﨑さんご本人やご遺族、友人・関係者の皆さんの無念が、こちらにもひしひしと伝わってくる。

10月8日。今年もまた、この日が巡りめぐってきた。山﨑博昭さんが、生き残ってしまった「我々」一人ひとりに、鋭くこう問いかけてくる。「ぼくが死んだあとで、君はいったいどう生きてきたのか?」と。


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卒酒しました

二回目接種の際に大事をとって前日からお酒を控えていたのですが、翌日の接種当日注射後もどういうわけかお酒を飲む気がまったく起きなくなり、気がつけば、以来 ほぼ一ヶ月のあいだ、お酒の類を一切摂取することなく過ごしてまいりました。まさか注射接種の副反応というわけでもないでしょうが、いまにいたるも、お酒を飲もうという気にならない、からだもこころもアルコールを必要としない、そんな状態がつづいております。これを機に、このまま、断酒・禁酒ならぬ、卒酒をすることにいたしました。

思えば、もともと、お酒を一切受けつけない、ほんの一滴も飲むことができない、「超」のつくほどの下戸でした。成人してからの、たとえば大学のコンパや飲み会などはもう本当に地獄で、せっかく注がれたビールを、飲むふりをしながらそっと床に垂らして捨てたりしていたものでした。お酒に対してなんとも失礼な話なのですが・・・。

社会人になってからもそんなありさまでしたので、次第に、こいつは酒の飲めない助監督だ、下戸のプロマネだ、ということがバレバレになり、それはすなわち、こいつはつまらないやつだ、つきあえない、という評価にただちに結びつき、お酒を中心に動いている映画映像業界で生きていくことのたいへんさをつくづく味わうこととなりました。

そんな下戸人生史上最大の転機は、CMの先輩で酒豪、いや大酒飲みの、屋宜 (やぎ) 博さん、市川 準さんからの呼びかけで、共同のCM企画演出事務所を立ちあげたことがきっかけで訪れました。連日のハードで濃密な、なおかつとびきり楽しく目一杯充実した企画会議。しかし日が暮れだすと、先輩二人は、なにやらそわそわしはじめます。そこで企画を切りあげ、三人 車座になり、"さあ、酒盛り宴会のはじまりだ!" ということになるのでした。飲めないわたしにとっても、連日連夜のここからの時間は、大好きな二人とじっくりたっぷり、映画談義をはじめさまざまな話題について語りあう、かけがえのないものでした。ウーロン茶を飲みながら、どこまでもつきあいました。

しかし、それをときどきチラッと見やる二人からの「君ねえ。ウーロン茶って、それ おかしいんじゃないの?」光線は、やはりハンパなものではありません。それではと、100mlちょっとしかないあの最小缶ビール1本だけをちびりちびりとやりながら、二人の底なしの飲みっぷりにつきあうことにしたのでした。ところが、それがきっかけで、やがて次第にお酒というものが美味しく感じられるようになり、飲む量もだんだん増えていくようになりまして・・・。そのようなわけで、まったくの下戸だったわたしは、このお二人のおかげで、鍛えられ、30歳になってから (!) 、よくもわるくも、お酒を飲むようになったのでした。

それ以来 40年間、たのしく、おいしく、連日連夜 お酒をいただいてまいりましたが、ここにきて、なにか、ごく自然に、あたらしいステージに移ったように思います。たとえば、病気のせいで「やめざるをえない」とか、年齢的に「やめたほうがいい」とか、なにかの反省やケジメのために「やめることにする」とかではなく、ふと気がつけば「いつのまにかやめている」道をたどっていた ── この選択肢を自然のうちに選びとっていた自分を褒めてやりたいし、その選択を大切にしたいと思っております。

わたしを特訓して "お酒が飲める人" にしてくださったお二人の、屋宜 博さんが そのお酒の飲み過ぎで亡くなった齢、市川 準さんが急逝した齢から10年の節目にあたる齢を、自分がまさにいま迎えてその真っ只中にいるという、ほかでもないこの年に、そのようなステージに自分が立つことになった巡り合わせにも、ふかい感慨とともに、いまあらためて、思いをいたします。── だん君、もう無理して俺たちにつきあうことはないよ。君はもともと飲めない人なんだから。── 二人がそう言っている声が聴こえてくるような気がします。

いま、飲めなかった、飲まなかった10代〜20代のころに戻ったような、とても不思議な感覚でおります。からだもこころも、どこか若返ったようです。

飲まなかった30年。大いに飲んだ40年。そしてこれからはまた、飲まずに覚醒した状態をたのしむ30年 (!) ── こうありたいと思っております。

(2021年8月1日・記)


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東京国立近代美術館フィルムセンター(注:現 国立映画アーカイブ)最後の企画展『ポスターでみる映画史  Part3   SF・怪獣映画 の世界』を鑑賞した。

そこでの最大の収穫は、会場で上映されていた『百年後の或る日』という11分の短篇映画だった。

切り絵による、丁寧に、端正につくられたSFアニメーション映画(9.5ミリフィルム、モノクロ、サイレント)で、監督の荻野茂二さんというかたは、不勉強で存じあげなかったが、日本の個人映画作家の先駆者であるという。1899年(明治32年)生まれの1991年(平成3年)没、20代後半の1928年ごろから8ミリや9.5ミリ、16ミリで実写映画や実験映画、アニメーション映画を製作し発表していたとは、たしかにこれはインディーズ・フィルムメーカーの先駆けといえるだろう。1928年ごろといえば、まだ『新版大岡政談』(マキノプロや東亜キネマ、日活のあいだの競作)など撮影所システムの黎明期だったのだから。本業(燃料店を経営していたという)のかたわら20代から80代にいたるまで製作しつづけたというのもおどろきである。

しかし、ほんとうの「おどろき」は、「1933年『百年後の或る日』」と断り書きのある上映ブースに入ってその映画を観はじめてから、襲ってきたのだった。

舞台は2032年の未来都市。ある広い部屋。ひとりの男(以後わかりやすく説明するために、仮に「A」とする)が、そこに設置された大きめの家具型マシンのボタンを押す。すると、そのマシンの中から別の男(「B」とする)があらわれる。

二人のやりとりが字幕で示される。

(B) じつに不思議だ。私はなんでここにいるのだろう。私は1942年の世界大戦争のときに死んだはずなのだが。
(A) そうです。1942年にあなたの肉体は消滅しました。しかし、あなたの霊は永久に存在しています。
(B) 失礼ですが、あなたはどなたですか。
(A) 私はあなたの子孫なのです。あなたは荻野茂二と申しましたね。今日はあなたの霊を科学の力でこの世に呼び戻し、2032年の文明をお目にかけたいと思ったのです。

そのように、この映画は、荻野茂二監督が、自分が製作時点から10年後に死ぬことにして、その霊を、製作時点から数えて100年後の子孫が彼らの時代に呼び寄せる、という設定でつくっているのだが、観ていて、なんとも不思議な感覚に襲われるのだ。つまり、ある、とても奇妙なことに気づくからである。

おわかりだろうか。1933年に完成した映画のなかで、荻野茂二監督は、まだ起きてもいない「1942年の世界大戦争」について語っているのである。

1942年の「世界大戦争」といえば、1939年に勃発し1945年までつづいた第二次世界大戦をおいてほかはない。1899年生まれの荻野茂二監督は、1914年から1918年までの第一次世界大戦はその青春期に体験しただろうが、第二次世界大戦に遭遇するのは、この映画『百年後の或る日』を完成させた1933年からさらに6年もあとの1939年のことなのである。しかし、おどろいたことに、荻野茂二というこの映画作家は、その映画の冒頭でいきなり「1942年の世界大戦争」と明言しているのだ。いったいどうして、未来の時点で起きる出来事をあらかじめ知っていたのだろうか?

あとあとのインサート・カットでは、

(A) 一九四二年の、あなたの肉体の消滅したときのことをお目にかけましょう。あの爆弾でやられたのですね。
(B) そうだ、じつに感慨無量だ!

と、その大戦の模様をリアルに描き出している。

おどろきはさらにつづく。

男Bを呼び寄せた家具型マシンについて、男Aが次のように説明する。

(A) これはテレビジョンの進歩したものでマジックテレビジョンというものです。過去のことでも未来のことでも何でもわかるものです。ひとつ実験してお目にかけましょう。一九三二年(注:この映画を製作中の時期をさすものと思われる)の今日のあなたはどんなことをしていましたかなあ。(注:すると、製作時の33才の荻野茂二監督自身が16ミリキャメラをかまえている姿が画面に映しだされる)だいぶパテー(注:そのキャメラのこと)に熱中していましたね。

そのように、これは、テレビジョンが進化した、過去や未来を見ることができる「マジックテレビジョン」であり、また、人や物を過去や未来から呼び寄せることができる「タイムマシン」でもあるというわけだが、おわかりだろうか、問題は、映画のなかで登場人物が「これはテレビジョンの進歩したもので」と明言しているその「テレビジョン」なるものが日本ではじめて開発されたのは、この映画の完成から6年を経た1939年になってからのことであるという点にあり、しかもそれは、世間の知るところではない、あくまでも内密の実験放送であったにすぎず(わたしなどもいまネットで調べてようやく知り得た程度の超極秘実験であった)、高価ながらも実用に耐える家庭用テレビジョンが売りだされてテレビ番組の放送も開始され、テレビジョンという存在が広く一般に知られるようになったのは、ずっとあとの、第二次世界大戦終結から8年が過ぎた1953年(昭和28年)だという点にあるのである。

欧米では1800年代の半ばから、日本でも1926年の高柳健次郎博士によるあの有名な「イ」の字のころから、おぼろげな像をかろうじて送受信するテレビジョン実験は行われてはいたが、1933年(昭和8年)という時点で、当時は存在しない、家庭の中で日常的に視聴を享受できるテレビジョンというものをすでにイメージしていた日本人がいたことは、たいへんなおどろきである。

しかも、荻野茂二監督が映画のなかで描いているそのテレビジョンは、この映画の製作時点からはるかのちの1970年代になってブラウン管の大型化に成功したことからようやく製造可能になり、一世を風靡して主流となった、あの立派で大きな「インテリア家具型テレビジョン」なのである。これはいったいどういうことなのだろうか。

不思議なことはさらにつづく。

(A) これは色彩機というものです。この中を覗いてごらんなさい。色彩機の光線をかければ着物は自分の好みの模様にすることができます。

これも、はるかのちにコンピュータ時代になってはじめて登場する、ファッションのためのパターンサンプル自動表示システムを予見しているように思える。

2032年のその男A(荻野茂二監督の子孫)は、先祖である男B(荻野茂二監督)を「JAPAN中央市」(旧・東京)へと高速電車で案内する。

(A) この飛行車は磁石応用のもので時速八〇〇哩の速度を出すことができます。

なんと、リニアモーターカーなのである。

時速八〇〇哩(800マイル)といえば、キロにして1287。近年2016年にアメリカで実現したという最高時速1018キロの成果と比べて大差はない。時速八〇〇哩という数字もけっして適当な思いつきではないように思える。

さらに──

工場はほとんどがロボット化し、

ロケットが火星と往来している。

しかも原子の爆発作用によって。

そう、この映画には、さりげなく、男A(子孫)の台詞として「原子の爆発」という言葉が登場する。しかし、その瞬間 こちらは、またしても 得体の知れない奇妙な感覚に襲われ、はげしく混乱させられるのだ。

お気づきだろうか。原子の爆発、つまり「核分裂」という現象は、この映画が完成した1933年の時点では、人類にまだ認識されてはいないのである。世界科学史上、原子核分裂の発見は、1938年になってからの、ドイツの化学者・物理学者 オットー・ハーンによるものとされているのだ。それに先立って理論的に原子核分裂の可能性に気づき論及した同じくドイツの女性化学者 イダ・ノダックの例も、ネットで調べたところ、あるようだが、それも1934年になってからのことなのだという。1933年に荻野茂二監督はどうして「原子の爆発」という概念を獲得しえたのだろうか。

そのように、1933年につくられたこの映画は、おどろくほど未来を予測、予知、予言している。とくに、冒頭で指摘した、製作時にはまだ起きてもいない第二次世界大戦について語っている点と、いま述べた、世界中の学者がまだ到達していなかった『原子の爆発』(核分裂)の「発見」を披露している点は衝撃である。じつは荻野茂二監督みずからマジックテレビジョン(タイムマシン)を発明し、それによって訪れることのできた未来社会でのさまざまな見聞をそのまま映画にしたのではないか、そう思えてしまうほどである。

いや、上映ブースの説明板やパンフレットにある「1933年」という表示自体が間違っているのではないか。1933年ではなくもっとあとにつくられたのではないか。あるいは、1933年につくられはじめたがずっとあとになって完成したのではないか──。そうも考えた。しかし、これは、荻野茂二監督のご遺族からのご寄贈を受けて、東京国立近代美術館フィルムセンターが管理・保存しているものである。映画アーカイブのエキスパートぞろいのフィルムセンターが、そんな誤った表記をしたりはしないだろう。しかし、そう思う一方で、こういう考えも頭に浮かぶのである。フィルムセンターは、所蔵・管理する作品の一つひとつを徹底的に調査・研究し、分析しているはずだ。ところがこの映画の不思議さにふれた解説コメントは一切見受けない。お気づきにならないのだろうか。それとも、この映画から奇異なものを感じるのは、たった一人、わたしだけなのだろうか──と。

(2018年3月29日・記)


映画『百年後の或る日』は 以下で無料鑑賞できます。

映画『百年後の或る日』フルムービー(11分)
(国立映画アーカイブ 公式サイト 日本アニメーション映画クラシックス)





こんな夢を見た


プロデューサーらしき男と一緒に、ある中小企業を訪ねている

そこの老社長直々のご案内で、社内のあちらこちらを取材してまわっている。

すると、社長が 突然 こう言いだした。

──そうだ、自慢の風呂を見てもらいましょう。

たしかに、そこには なぜか、キンキラキンに豪華な風呂場があり、あっけにとられる私たちのまえで、社長は いそいそと服を脱ぎはじめた。

気持ちよさそうに湯舟に浸かる社長のお顔を、私たちは延々拝見しつづける。

──お先に失礼しました。さ、どうぞ あなたがたも。

社長は上機嫌で風呂からあがると、すっぽんぽんのまま オフィスのほうへと出ていった。

言われるがまま 二人で湯舟に浸かりはじめる。

すると、老いたお掃除おばちゃんが突然入ってきて、そこらじゅうを黙々と掃除しはじめた。私たちは、気恥ずかしいやら 恐縮するやらで、湯舟に深く身を沈める。

風呂からあがった私たちは、オフィスで会社の組織図を見せていただく。そこには、部門ごとに社員各人の顔写真とお名前があった。「清掃」という部門もあり、さきほどのお掃除おばちゃんのお顔とお名前が確認できる。

社長とおなじ、比較的めずらしい苗字なので、やんわり社長に尋ねてみたところわかったのだが、お掃除おばちゃんは、社長の実の妹だった。

(2021年1月1日 夜 「鑑賞」)


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Amebaおみくじを引いてみました


さて、その結果は・・・


 

【Amebaおみくじ】2021年の運勢は...



・・・だそうです!

私はおみくじや占いは一切信じておりませんが、

いい結果のときには信じることにしております (笑)

2021年が みなさまにも いい年でありますように!




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新年元日の初詣は、ご近所にオープンしたばかりの『KADOKAWAところざわサクラタウン』へ。

その敷地内には『武蔵野坐令和神社(むさしのにますうるわしきやまとのみやしろ)』(通称『武蔵野令和神社』=むさしのれいわじんじゃ)という、しゃれたデザインの神社が建立されているのです(命名=国文学者・中西進 建築デザイン=隈研吾)

折しも、同神社の神使(しんし=神の使い)で、広い武蔵野全体の護り神でもある神狼(白狼)が、新年の到来を寿いで厄を祓う神楽舞の奉納儀式が、おごそかに執り行われていました。まことにもってありがたいことです。




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あけまして おめでとうございます
今年も よろしくお願いいたします




2021年『花』   書ⓒだんきょうこ



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KADOKAWA presents『五嶋龍 デビュー25周年 ヴァイオリン・リサイタル』を、妻とふたりで聴きにいってまいりました。先日わが町にグランドオープンした『角川ところざわサクラタウン』の中の『ジャパンパビリオン ホールA』にて。入手がなかなかむずかしい人気のチケットは、まさかの、「たまにはお二人でゆっくり音楽デートでも」との、わが家族からのうれしいサプライズプレゼントでした。

7歳でデビューした天才ヴァイオリニスト五嶋龍さんの選曲と演奏は、聴衆に媚びないといいますか、ご自分の意志をつらぬいておられるといいますか、比較的 聴衆受けする メロディアスなものや 感動的に盛りあがるようなものは一切排除して、純粋に、ご自分がいま人々のまえで奏でたいと思うもの、いま人々に聴いてほしいと思うもの、そこだけに絞っておられる、そこが素晴らしいと思いました。2時間たっぷり、至高のときをいただきました。

終わって灯りがつくと、わたしたちのすぐ近くの席には、KADOKAWA会長の角川歴彦さんや、角川ところざわサクラタウンの設計者である隈研吾さんのお姿も。KADOKAWAグループのこのイベント(今回は、前回への好評に応えての再演)への並々ならぬ力の入れようがうかがえます。

それにしても、東京に出ずして、わが家からゆっくり歩いてもせいぜい10分のところで、このような名コンサートに出会えるとは。今後の角川ところざわサクラタウンの展開が楽しみなところです。



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きょうのびっくり (25)


光るマンホール


わが町の駅前から『KADOKAWAところざわサクラタウン』へ向かう歩道上に、いくつか、夜になると光る (!) マンホールが出現しました。内側に光源が仕込んであるのでしょうか。いずれも角川さんゆかりのキャラクターが描かれています。これも、いわゆるひとつのKADOKAWAサクラタウン効果ということになりますでしょうか。所沢もいよいよおもしろくなってまいりました。



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映画『草原の実験』を鑑賞して
(2014年11月4日・記)


映画『草原の実験』(2014年  ロシア映画  アレクサンドル・コット脚本・監督)を観た。(10月30日、東京国際映画祭にて)

この映画の素晴らしさを、いったいどんな言葉で言いあらわせばいいのだろうか。

大自然とそこに暮らす人々の営み、思春期の少女のゆったりとした日常、彼女をめぐる微笑ましい恋模様が、淡々と描かれていく。

岩の隙間から滲みでて大地を這い、やがて堂々とした川の流れとなる一滴の湧水。家屋にそっと差し込み壁に映る柔らかな光たち。静かに吹く風に揺れる窓辺のつつましやかなカーテン・・・。すべてのカットをそのまま家に持ち帰っていつまでも抱きしめていたいほど、美しく、はかなく、それでいて力強く、それゆえたまらなく愛おしい映画である。

14才の素人だという、奇蹟のような美少女(エレーナ・アン)と、その表情をとらえる自然光撮影の、なんとまばゆく、輝かしいことか。

随所に的確に入る、いまではめずらしい堂々たる大ロングや大俯瞰の画も、ほれぼれするほど美しく、素晴らしい。

夢のような映画である。監督や撮影監督をはじめスタッフの、映画づくり、画づくりに対するゆるぎないポリシーに圧倒させられる。東京国際映画祭最優秀芸術貢献賞受賞(同・WOWOW賞とダブル受賞)も、むべなるかな、である。

全篇セリフを排して光と影だけで紡ぎだされる物語に身をゆだねるという、映画というものの原初の歓びにただただ酔いしれる。そして、最後の思いがけない展開によって、それまでそのようにして淡々と語られてきた、なにげない、つつましい、ごくありふれた日常が、じつは、かけがえのない、この世にふたつとない、とり戻しようのない大切なものであることを、強烈に思い知らされるのである。

ネタバレになるので詳しくは書けないが、この映画は、おなじ主題を扱った国内外の名作クラシック群の映画的構造に依拠しながらも、見事にオリジナルな映画的完成度に到達している。傑作というほかはない。

商業上映に向かないタイプの地味な映画ではあるが、第一回のWOWOW賞となったことでWOWOWが公開に動いてくれたりすれば、どんなにいいことだろう。できるだけ多くのかたにスクリーンでご覧いただきたい映画である。(採録註:その後、劇場公開され、DVDのセル&レンタルや、Amazonプライムビデオなどでの放映も実現しております)

(2014年11月4日・記)


映画『草原の実験』予告篇



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