ふと気づいた事がある。目の前のペットボトル入りの飲料水には500mlとラベリングされている。

 

でも実際は500mlではなく、500mlにとても近い別の量例えば499.87372843・・・といった量が入っている。

こういった巡回しないで延々と無限に続く値を無理数と呼ぶ。現実の世界で連続的な事物の数量はほぼすべて本当は無理数です。

 

身の周りの数を整数値、もっというならデジタル量で表現することで私たちは私たちの身の回りの物事を効率的に理解することができる。

 

逆に考えていくと厳密に500mlの水を目の前に実現することは出来ない。

 

連続的な数量を持つ物質に対してに物理的に厳密に整数値の量、あるいは指定した量を寸分の狂いもなくは計ったり分割することはできない。

 

この事実自体は中学生くらいの知識でなんとなく気づける。でも大したことじゃないと思って通り過ぎる人は多いのではないだろうか?

 

昨今、AIの発達、遺伝子治療薬、IT技術の飛躍的な進歩、など科学技術の華々しい成果物に囲まれている現代に生きる人々は、自分たちの得てしまった強大な力の前に、限界が無くどこまでも進歩したり幸福を追求し続ける道があると錯覚してしまいがちだ。もっとハッキリいうなら人間は神、万能者、超越者になれると思い込んでやしないだろうか?

 

しかし、ここで先ほどのペットボトルの水の話を思い出せば、実は神への道、万能者への道はその道程の初期段階で早々に挫折していることを認めなければならない。私たちは何を隠そう、500mLの水さへ生産することが出来ないのだ。(少し数学的な話をすると非可算無限量を数えることが出来ない)これは人間の努力不足や知能の低さが問題なのではなく、有限時間で(非可算)無限回の演算なり行動なりが不可能なことに起因している。

 

例えば膨大なコストをかけ極めて強力なエネルギーを生み出すことが出来る巨大な加速器を製造しこの世の物理空間上の最小構成要素たる何らかの素粒子が見つけることが本当にできるだろうか?苦労の果てに発見した素粒子が更に強力な加速器で衝突させたらさらに分割が可能であるかどうかなど判断できるだろうか?

 

現代に生きる私たちは上記のカントや釈迦などの哲学者やカントールやゲーデルら数学者が発見した「超越性」という概念にもう一度立ち返り、謙虚さと落ち着きを取り戻す必要があるのではないか?