自分が大学にいたのが10年くらい前のことで、当時AIはSFとかの架空の創作物の世界の物という認識が多かった。

当時将棋ソフトボナンザが登場して将棋ソフトの棋力がプロ棋士並みに高まったけどその意味を理解しているのは当事者である開発の専門家やユーザーくらいだったと思う。

 

当時のAI技術に関与していない普通の人たちにこれから10年後にはスマートフォンを通して皆の様々な行動記録がビッグデータとして蓄積されて、そのデータによるビックデータ解析と、発達した演算能力を駆使してのディープラーニングによって貴方の行動が知らぬ間にAIによって最適化される世界になるよって伝えてもあまりピンとこないと思う。

 

皆いつでもどこでも世界中のあらゆる情報にアクセスできる世界になるよと言葉で伝えられてもピンとこない。国家的な権力が大きく衰退し、グローバルな大企業が世界中の人々の生活に大きな影響を及ぼし、公的な価値観が私的な価値観に比べて弱まると言っても想像がつかない。

 

社会が大きく激変するような時代に生まれた人は、自分が今、生きている時代が社会の変革期だという自覚を持っている人がほとんどいない。

 

株価とかもそうだけど、人の生活の中での時間スケール(24時間)より甚だしく大きい時間スケール(何十年単位)を持つ事象に関しては、その事象の変化が非常に大きなものであっても、人はその変化を自覚することが難しいのだと思う。

 

この10年を振り返るとサピエンス全史で明らかになったように社会はとても良いものになったと思う。特に北京五輪(2008)後の中国は急速に先進国に近づいた10年だったと思う。

 

一方で日本は最近になって本格的に国の弱体化が鮮明になってきて、色んな情報媒体でそのことが強調されるようになってきた。

インターネットや現実社会でも弱い人たちが急激に増えた10年だったと思う。世界中がかつてないほどより良いものになっているにも関らず日本社会の市民たちの特に心が弱くなったのは本当に悲しいことだと思う。俗っぽい言い方をすると貧乏臭くなった。生活の様式も心も貧しくなった気がする。

 

この10年間の自分個人の経験ではこの10年間の4年くらいは病気に振り回されていたことが最大の出来事で、そこから幸運にも立ち直れた今となっては、健康であることだけが重要なことで、そのほかの多種多様な悩みは実はとるに足らない悩みだったんだなということに気づいた。例えば学歴とか、恋愛とか、交友関係とか、自分の容姿、年収自分は他人からどう思われているのだろう?などなどそういった誰でも持つ悩み。これは当事者にとっては確かに大きな悩みなんだけど、一度、頸椎めまいや全身の倦怠感を味わうとそれらの悩みが実は些細なことだったのだとハッキリと実感できた。実感できるってことが大事で交友関係や恋愛で悩んでいる人に言葉で「そんな問題自分の健康が崩れることに比べたら何てことないぞ」って言葉で行ってもあまり意味がない。言葉でいってああそうか自分の悩みは大したことじゃなかったんだな。と思えるなら最初から誰も色んなことで悩んだりしない。ここが難しいところ。

 

人間はどんなことでも主観として捉えることしかできないから、真の意味での客観なんてものはあり得ないのかもしれない。

結局何かを知りたいと思ったら言葉による受動的な情報収集ではだめで自分から能動的に情報を使って検証してみたり、五感を研ぎ澄ませて匂い、音、内臓の動きとかにまで意識を集中させて物事を探求していくしかないんだと思う。

 

例えば、

設備が錆でどんどん老朽化していくのを五感を活かせば工場を一走りするだけで当たり前に気付くのに手元の資料ばかり読むから現場が見えなくなる。

 

街を歩けば遊んでいる子供の数がどんどん少なくなってお年寄りばかりが目に付くことにもっと切迫感を持って気づいたはずだ。

 

ネットの言葉による情報ではなく自分がバイトしているコンビニや研究室の留学生のことを考えるとこれらの国の人々が決して侮れないポテンシャルを持っていることにも気づけたはずだ。

 

自分の生活を守るだけの僅か100万、200万の小遣い稼ぎに走ったところで1000兆円の時価総額をもつ企業をつくることには結ばない。100万、200万ではなく当たり前の意識で1000兆円の企業を興す戦略家は1人も出てこなかった。

 

高齢者や障碍者、母子家庭、病人などを社会の足手纏い扱いし、見て見ぬふりをしてきた政府、企業、個人も高齢者の現役だった頃の姿や病気になる前の健康だった姿、うまくいかなかった夫婦など自分の周りの具体的な事例から感じていれば彼らをむしろ支援し、社会への復帰を促す方が効率的だということに気づけたはずだ。

 

生来、自分に備わっている感覚を研ぎ澄まして能動的に情報を受け取り、さらに問題への対策を出力することが出来ていたらこんなことにはならなかっただろうにと思うことが山ほどある。あらゆるところで溢れる荒唐無稽なデマも、信じず、疑わず、能動的に調べるということができるようになる。

 

これまでの10年はあまりにも知識の収集に偏っていたため、今後の10年は情報を得るにしても五感を通して能動的なインプットをしていこうと思う。またアウトプットこそが最大の学習だという姿勢で物事にあたっていきたい。

それに加え繰り返し何度でも言いたいことは結局健康だけが大事なことなのだということ。