突然の事であったが、三世からの申し付けで高山先生の故郷に当たる福岡県八女市立花町に出向く事となった。
高山先生が生まれ育ったこの地は、現在は高山先生の弟に当たる三男の高山惣五郎氏の娘千葉子がおり、孫の宗茂氏が当主をされ現在も高山家を守っておられる。
三世は調査と研究の為この地に出向き高山先生が所蔵されていた愛刀数十本や資料を譲って頂いた。
今回私が伺うことになった密命は、高山先生の内室である阿似の出生の調査であった。
阿似は気品があり言葉も綺麗で京都の芸鼓出身?だとかしか分からず謎であるからである。
また、私が同じ九州に居住しているので一度顔合わせをしておいた方が良いとの三世の配慮からであった。
宗茂氏とは初対面であったが八女市を案内して下さったり、大分久住の地での阿似の若かりし日の写真や祖父である惣五郎氏や兄の惣次郎氏の軍服姿の写真や勲章など見せて頂いた。
次男の惣次郎氏は、高山政吉先生の4歳年下の明治34年生まれで昭和12年の武徳会の名鑑に銃剣術錬士の名が残っている様に銃剣術に精通していた。姪に当たる千葉子氏も銃剣術ばかりやっていたと述べておられる。
千原先生の話では、戸山学校にいた頃舞鶴の拱辰館に何度か訪れてきたとの事であった。栗林忠道中将指揮の109師団歩兵145連隊第1大隊第3中隊長として出征。千葉子に「1番に斬り込むからラジオを聞いておれよ」と言う言葉を残して硫黄島で散華された。戦死後陸軍大尉。昭和29年に靖国神社に合祀。
宗茂氏の祖父である三男惣五郎氏は明治43年生まれで、高山政吉先生より11歳離れており歳の離れた弟と言う感じであっただろうと思われる。終戦時は熊本の師団司令部勤務で陸軍大尉であった。当時の軍人の慣習であった髭を生やし戦後も終生たくわえており戦後は実家に戻り家督を継いだ。高山先生が久住にて拱辰館を建設する際に多大な援助を惣五郎氏はしてきたとの事であった。
又宗茂氏によると、戦後剣道を指導しており厳しさで地域では有名だったとの事。武道一筋の血筋からか宗茂氏兄弟も剣道を学んでおり青少年の指導も行っていた。
最後に高山家の墓を案内してくださった。
高山家の墓は始めは正福寺にあったが、その後関係する墓を本宅近くの中世山城である兼松城の中腹にある地へと移した。
かなり勾配の強い斜面を軽トラックで一気に上がりきった所に高山家と惣次郎の墓、そして長女ミツエの嫁ぎ先である茨城県士族柏家の墓があった。
密命であった肝心な阿似氏の出生だが、結論から言うと初回伺った時は写真が宗茂氏の倉庫から出てきた久住での写真のみであったが、2回目伺った時に本籍が京都だと言うことが正式に判明した。
阿似氏はなかなかの気丈な方だったらしい。
三世の自衛隊時代の知り合いに頼み、久住に阿似氏との面会をしてもらいに行った時に、かなり煤けた家に住まわれ冬はあれだと寒かろうと話を聞いた三世は毛布と菓子折りを贈ったとのこと。
すると手紙とともに毛布が返却されて返ってきたらしい。今久住の山奥にて隠棲生活を送っているが元海軍少将の内室だと気概があったのだろうと三世が語られていた。
この八女市の訪問はかなり暑さの酷い時であったが、食事をご馳走して頂いたりあちこち汗だくになりながら八女市の観光案内をして頂いたり至れり尽くせりで深謝であった。















