高山流には形を重視せず、常々戦場での戦いはどのような場面が想起するか読めないので、真向斬り・袈裟斬り・水平斬り・突きの四刀法が基本であって各人はこの四刀法を組み立てて使うと、高山先生は力説しているが、形が全く無い訳ではない。


二世である小山先生なども「形は歩行業だけで十分」とも言われている。

その中で、三世に伝わっているものの中で「実戦仕合口」なるものがある。

「実戦仕合口」即ち古流で云うところの組太刀に相当する。


昭和61年頃、千原剣師から三世が伝聞したもので、舞鶴の拱辰館道場の有志によって行われていたものと言う。

海軍軍刀術訓練の終了後の付け足しのような雰囲気の中で実施されたものらしく、先生によれば野外河川敷での異種試合で(刀対槍・刀対薙刀・刀対杖)あったと言う。

高山流流祖である高山政吉先生が、中国大陸の戦闘で槍・青竜刀などを携行していた中国兵を想定していたのではないかと思われ、より実戦的に指導していた。


千原剣師が昭和18年9月舞鶴海軍工廠から『海軍軍刀術』を発行した折、最後回に一例として「刀対刀 」を登載している。

恐らく実戦仕合として一度も演武された事はないだろうとの事。


古流の組太刀の場合は、打太刀と仕太刀に分かれるが高山流の場合は甲兵と乙兵と呼称する。

血振いや構えが高山流独特の動きが入り、四苦八苦であったが三世の指導の元なんとか形にはなってきた。

単独の形とは違い、相手との呼吸を合わせないといけないので阿吽の呼吸や気合いが重要となる。


野戦軍装の高山政吉先生
場所は南京城内か、撮影年月は昭和13年初旬頃。
目的は刀法の参考写真。実戦仕合口にも含まれる構えである。
高山筆
昭和12年12月に南京に入城し白兵抜刀術の草案を記述しており南京戦後の比較的手あきの時に数百枚の刀法写真を撮っているからその一部と考えられる。写真では見えないが腰に水筒・拳銃(14年式)をつけている。