竹の節についての文章を以前読んだことがあります。紹介します。
竹の節と節目についての
    ちょっと理屈っぽい考察


みなさんは竹の成長方法を知っていますか?
竹は、ひょろっと細長い独特の体形をしており、ちょっと変わった成長の仕方をします。

 

竹は、1日に1メートル以上成長することもある非常に成長の早い植物です。

 

しかし、ただ上へ上へと伸びただけでは自分自身を支えきれなくなってしまう。

 

そこで節と節の間には成長帯があり、ここでの成長が竹の幹(竹の場合「稈(かん)」という(茎のことです))を強固なものにしている。

 

このとき節は、その支えを強化する働きをするのだということです。

 

  この節ですが、実は、節は成長の過程で増えていくものではなく、筍の時代から完成しているものなのです。

 

そして、まるでたたんである提灯を引き伸ばすように、その節と節の間を伸ばすことで竹は成長します。 


 さて、「節目」という言葉があります。


これはもちろん竹の節からきた言葉で、辞書には「抽象的なものの区切りをなす(時)点」とあります。

 

「人生の節目を迎える」とか、「1つの節目を刻む」とかいう風に使って、なにかある種の「到達点」のように扱われる言葉です。

 

しかし、語源である節の性質からいって「節目=到達点」という発想は正しいのだろうか? 
 竹の節の性質と照らし合わせると、節が筍の時代から完成しているように、どんな人の人生にも節目は一定数存在する、ということにならないだろうか。

 

そして、「節目」が最初から用意されているならば、それを迎えるということよりも、やはり節と節の間の稈がどれだけしっかりと成長するか、つまり「節目と節目の間をどう生きて、その過程でどう自分を成長させるか」が重要なのだと思う。

 

確かに、節が竹の成長を強化するものであるように、「節目を迎える」こと自体も人生を強化するものなのだろうけれど。

 
 就職・進学は人生において1つの大きな節目ではあると思う。

 

でも、1つの節目を迎えたことで安心しきっていたら、次の節目までの自分を十分成長させることができない。 

 

次の、更に次の成長を支えるだけの稈が作れなければ、竹はぽっきりと折れてしまいます。

 

 「節目」は大事です。

 

けれど、決して「到達点」ではないと思う。

 

そんなことを心に留めつつ、生活してほしいものです。 


 さらにもっと理屈っぽい考察
「竹はなぜ丸いのか?」を考えてみたことがありますか。


竹が丸いのは当たり前と言えばそれまでであるが、それなりの理由があります。


そもそも丸い形を物理的にとらえると、あらゆる圧力に最大限に抵抗し得る無駄のない理想的な形と言える。


一般に、上からの力、つまり圧縮応力を受ける場合、それを受ける面がどんな形であろうと、それを受ける面では、その力は外側に大きく分布します。


例えば、棒状のものに上から力が加わると、棒のある面ではその力は中心から外側に大きくなります。


丸い棒状の断面では外側ほど大きな力が加わるという理屈になります。


したがって、竹が丸く、しかもパイプ状であると言うことは、上からの力が少なく掛かる中心部分を空っぽにして、出来るだけ少ない量の木質部で身体を支えている形なのです。


ところが、竹が生活するためには上からだけでなく、横からの力にも耐えねばならない。


むしろ、横から不規則に掛かる風雪などの力は上からの力よりも強力です。


したがって、竹が単なるパイプ状だけではねじれたり、割れたりして直立出来ない。


そこで存在するのが節です。


この節の存在はパイプを一定間隔に補強する役目になり、その結果あの素晴らしい弾力が生まれるのです。


言うまでもなく、植物は常にその環境に適応して進化してきました。


竹は元来他の樹木と共生して生活する植物です。


だから、もし竹の背が低かったなら、他の背の高い植物に光関係で負け、生き残れないでしょう。


そこで、竹類は身体を少ない木質部で背が高くなるパイプ状に、さらに節を付けることによってパイプを粘り強くして生活できるように進化してきた植物と考えられるます。


こうしてみると、竹にとって節はどのような苦労にも耐えながら生きていくための大切な存在なのであり、これが竹の「生きざま」なのです。
 
12月になりました。今年もあとわずかです。


4月の入学から、今まで悔いのない高校生活を送れたでしょうか。もうすぐ2学期も終わります。

 

これも一つの節目です。


要約すると
 「生徒の皆さん節目を大切にして生活し、自分の進路を決めてください 」   ということです。