朝の六時まで眠ることができず、ぼーっとものを考えながらベットでゴロゴロしていたら、授業を二つ逃した。最近はずっとこんな感じだ。哲学は一年生入門編だから数歩先の知識を身につけている自分にしてみれば聞かなくてもいい代物なので講義にもチュートリアルにも出たいと思わない。もちろん自惚れているつもりもないし、西田幾多郎を言語で解説することができない以上、私は全くのど素人であり、まだまだ未熟である。だが「臓器を市場で売買することが倫理的に正しいか」というディスカッションで「かわいそうだからだめ」だとか「ボーダラインを儲けたらいいと思う」などと意見が飛び交う中、「そもそもなんで僕らは目に見えない『市場』というものが明確に存在するという前提で話を進めているんだ?」とぽろっと言ったら議論がピタリと止まってしまうような連中は、ただ酒に酔った時にする「答えがあるのに答えがないように議論する明白な道徳問題」の小競り合いと同等のことをしていることに何故気づかないのだろうか。何故授業で与えられたソースを鵜呑みにし、否定したり検証したりすることをしないのだろうか。これが日本のFラン大学ならまだ納得できる。しかし残念ながらここは西洋諸国でもトップクラスの大学であり、哲学や人文学などはいつも最先端を行くような場所だ。それがこの有様である。「日本に帰って清水先生や上妻氏から教わった方が何倍も有効ではないか」という疑念が日に日に大きくなってきているが、まだ私はこの大学の大本命である哲学者アンディ・クラーク氏に直接お会いできていないので、そんないっときの気の迷いをその出会いが吹き飛ばしてくれることを祈る。

さてこんな陰気臭い愚痴を書いていては気分もあまり晴れないので、今日終わらせた事の感想でも書き記しておこうと思う。一つは「化物語」を見終えた事、そして落合陽一氏の「デジタルネイチャー」を読了した事。どちらも作家希望としてモチベーションをあげてくれるとても有意義な作品であった。「デジタルネイチャーなんか難しくてよくわかんないけどすご〜い」などと自分の無能さを平気でtwitterに晒す馬鹿どもには心底あきれ返るが、なるほど確かにIT用語が多く、あまり造詣の深くない私も掴みきれていないところは多数あるが、それでも「よくわかんない」で済ませるのはただのミーハーのエセ信者であり、人気が出たからと言ってファンになったエセカープ女子とやっていることは変わらない。衣笠祥雄氏も知らないくせにカープファンを名乗るのと同様、西田幾多郎哲学も知らないくせに読むんじゃないと言ってやりたいところだが、そんな文句を言ったところで読者諸君には関係ない話だ。ちなみに逆説的に言ってしまえば、西田幾多郎さえわかってしまえば「脱近代」とはいかなるものなのか、「デジタルネイチャー」とはいかなるものかを簡単に把握できてしまう。手始めに「善の研究」ではなく「絶対自己同一性矛盾」を一読すると良いだろう。

兎にも角にも、これは決して落合氏の信者やカープ女子に限ったことではないのだが、何かにしがみつき安定を目指そうとする行為は、昨日も言ったように、「不安定」な世の中では不可能な行為なのである。誰かの真似をすることと、誰かから教わることは違う。渡辺直美氏に憧れて本人に自分を近づけようとしていた若い芸能人を彷彿させるが、本人は一生「本物」になることのない「偽物」として生きていくのだろうか。「本物」は「やはり俺の青春ラブコメは間違っている」を、「偽物」は「偽物語」を思い出させるが、どちらにせよ、誰かの生き方にとやかく言うのは間違っているとは思う。何故ならヴィトゲンシュタイン曰く「言語の限界は世界の限界」であり、私が他人の世界を、ましてや他人の存在を証明することは不可能だからだ。だから私は遠い目で彼らを見つめるだろう。「滑稽だな、僕はあんな生き方はしないだろうな」と。彼らの生き方を私が否定できないように、彼らもまた、私の否定を否定できないはずだ。「これが正しいって、言える勇気があればいい」と言うウルトラマンネクサスのオープニングテーマの歌詞を思い出すが、確かに「正しい」と言えればそれでいいのではないかと思えてくる。先ほどから曖昧に貶し、曖昧に擁護しているのはしかし、この「勇気」がないからではない。世界とは結局「善・悪」「男・女」「人間・機械」と二極に分けることのできない「絶対自己同一性矛盾」的な空間だからだ。そう、もうすでにこの文章が読者に読まれている時点で私の唯我論的詭弁は否定されつつ、私と言う人間がそれを結局肯定しつつ...ともはや単純な説明では説明しきれないような世界が、我々の眼前に待ち受けているのだ。「近代の超克」とは、まさに万物すべての「境」がなくなり、流動的にそれがインターラクトしあう関係なのだ。否定も肯定も、自由も束縛も、生も死も、個人も社会も、全てが矛盾的に存在しながら混ざりあい、反発し、弾け、新しい世界を作り上げ、古い世界を再構築し、作り上げた世界を否定し、古き世界も同時に否定され、再生し、破壊し、創造し、破壊し、ビルス様が破壊し、ウイスさんが創造し...そうしたプロセスの中で、我々は生きているのだ。そう、「生きていかなければならない」ではない。「生きている」のだ。もはや我々の外在的空間で、世界はそう言う風に回り続けていたのだ。そして西洋的観念や固定観念を取っ払ってしまえば、我々の世界は「諸行無常」「事事無碍」的な場所であることはもう明白なのだ。

さて、「人のことをとやかく言う奴は、まずは自分でやれ」と人は正義の味方気取りで愚痴ばかり言う人間に誇らしげに語る。だが「人の文句」を言うのは、決して彼らを貶すためにいうものではない。彼らのネガティブポイントを自ら分析し、それを自分に当てはめ、「ああならないようにしよう」と自らを戒めているに過ぎないのだ。そこに誰が悪い、誰が悪くないなどという「責任」の押し付けないは本来存在しない。「自由は責任を伴う」とサルトルは言ったが、不必要な自由は不必要に責任を負わせるだけだ。声に出すことによってより自分に言い聞かせ、人の欠点を自分の欠点と照らし合わせ、自分の同じ過ちを犯さないようにする。「自分でやる」のはその後だ。「ミメーシス」、イデアの模倣とプラトンは言ったが、その模倣は単に人を真似るものではなく自分の中に吸収し、「学習」するのだ。「学習」して、人は強くなれる。そこにとやかくいう連中はまずは自分でやってほしい。もちろんこれも矛盾であり、正であり誤でもある。

この「不安定」な世界と向き合っていく方法。それ結局「学習」することのように思える。だがただ何かを学習し続けるだけでは、「本を読むだけの人」というカントが最も嫌った人間になってしまう。学ぶ。考える。身体に落とし込む。築く。学ぶ。考える...このサイクルこそが何を隠そう「フォーミング」であり、学習とはすなわち「フォーミング」に他ならないのだ。だから私は言い続けるのだ。「脱近代」を生き延びる方法。来るべき時代に備えるために行うべき行動は「フォーミング」だと。「制作」へ人が傾いていけば、新しい時代は万人に住みよい世界になるだろう。だがその住みよい世界で暮らしたいかは、結局自分自身の判断なのだ。

結論、唯我論は半分正しく、半分間違っている。ただ唯我論は「哲学の自慰」などと抜かしていたあのばかは、まずはヴィトゲンシュタインの「哲学論考」でも読んでから出直してきてほしいものだ。私も読んでいる最中なのだが。