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4月18日

倫理学では、倫理的判断を行い、それに従って生きる者を「自律的主体(=倫理的主体)」と呼び、倫理的判断を放棄し、制度や権威に従う者を「他律的主体」と呼びます。

では、ワクチンの有害事象が発覚したとき、医学における知識は一体、誰のために蓄積されるのでしょうか。

ここでは、この問いを「自律的主体」と「他律的主体」という対照的な二つの視点から捉えてみます。ここで言う「医学」とは、医師、製薬企業、政治家、規制当局といった医学界全体を含む制度的枠組みを指します。

まず、「自律的主体」とは、社会の手段となることを拒み、人間性を尊重する存在です。制度や権威に盲従することなく、自らの価値観と倫理的責任に基づいた選択を行うことで自己を確立します。

自律的主体は、尊厳や自律性、不可侵性といった原則を基盤に自ら考え、決断し、制度に対して問いを投げかけ続ける「批判的対話者」です。

一方、「他律的主体」は、社会の手段となることを受け入れ、人間性を軽視する存在です。制度や権威の命令に従い、その期待に応えることで自己を見出します。

他律的主体は、制度に方向付けられた選択を無自覚に繰り返し、責任主体性や自律性を欠いたまま制度の維持に加担する「再生産装置」として機能します。

他律的主体の背景には、集団への同調を求める圧力や逸脱することへの恐怖心が根底にあり、自ら思考することよりも命令に従うことで倫理的思考が抑圧された状態が存在します。

このように、他律的主体が制度の従属者であるのに対し、自律的主体は制度の外部から批判的に問いかける存在です。

ここまでの整理からも明らかなように、現実に存在する医学は、決して自律的主体の地平には立ってはいないのです。


改めて問います。ワクチンの有害事象が発覚したとき、医学における知識は一体、誰のために蓄積されるのでしょうか。

医学は、「害を与えてはならない」という理念と、「現実的には害を伴う」という宿命との間に根本的な対立を抱えています。害を認めることは加害を認めることに等しく、自己の正統性の否定につながります。

とりわけ、長い歴史の中で神聖視され、権威化されてきた医学にとって、自己の矛盾を直視することはその権威基盤を揺るがす行為であり、許されません。

そのため、医学は、制度と権威の内側に自己を埋没させ、正統性を主張し続けることによってしか自らの存在を正当化できません。医学は、このような構造の中で責任主体としての自律性を放棄せざるを得ない運命にあるのです。

この「他律的主体」に支配された医学構造の中では、医学者自身もまた制度に従属する存在へと変容します。

結果として、医学界全体が他律性に支配された自己強化的な螺旋構造へと陥り、自律的主体として振る舞おうとする異質な医学者の輪郭も、制度の圧力の中で次第に薄れていくのです。


たとえば、他律的主体が主導する医学では、公衆衛生の名のもとに「ワクチンは安全で効果的である」というスローガンが予め設定され、これが正統性の基盤として優先されます。

この前提が崩れない限り、有害事象が発覚したとしても、それは「許容可能なリスク」として再定義され、「安全性と有効性」という枠組みに吸収されていくのです。

つまり、医学において蓄積される知識とは、「有害である」という事実そのものではなく、「再解釈された有害事象の安全性」と、それを正当化するための「再解釈のテクニック」なのです。

予め設定されたスローガンは絶対的なものとされ、現実の有害性は再定義されることによって相対化され続けます。その結果、有害性は過小評価され、知識は「制度を防衛する手段」として動員されていきます。

医学における有害事象に関する知識は、「事実」を記録するものではなく、「リスク評価」の名のもとに数値化され、再定義可能な対象として扱われるのです。


これに対して、自律的主体が担う知識は、制度を正当化するための道具ではありません。それは「傷ついた人間の歴史」であり、「尊厳を取り戻すための記憶」です。

これは合理化や数値化に耐えるものではなく、むしろ制度が忘れようとする痛みを、語り継ぎ、問い続ける行為です。それは、人間の唯一無二の尊厳を理解し、過ちを繰り返さないために存在する知です。

自律的主体のもとでは、制度の正統性を揺るがすものであっても、有害性や不正義を正面から受け止め、個人の尊厳を守ろうとする意志が宿ります。

それ故に、有害性それ自体に向き合い、尊厳を守るための知識が「倫理的な記憶」として「人のため」に蓄積されていきます。


近年の医学論文には、その文脈とは無関係にワクチンやワクチン政策を称賛する不気味な信仰的記述(イデオロギー的記述)が頻繁に登場します。

これは、制度の要請を無自覚に繰り返す他律的主体たちが集団として存在していることを如実に示しています。

彼らは互いに手を取り合い、互いの知識を称賛し合うことによって自己強化的な信仰構造を築き上げているのです。現代医学が語る「都合のよい物語」は、このような他律的主体によって創作されているのです。

この現象は、医学そのものに対する著者の利益相反の問題にとどまらず、「医学の他律性」を前提とした「倫理バイアス」の存在を強く示唆するものです。ここで言う「倫理バイアス」とは、「医学は害を及ぼしてはならない」という信念そのものを前提とする構造的バイアスのことです。

医学論文における「再現性の危機」は、単なる科学的方法論の失敗ではなく、むしろそれは医学者の知が制度的イデオロギーに従属している結果ではないでしょうか。


このように、医学における「自律的主体」の「倫理的な記憶」と「他律的主体」の「知識の蓄積」とは、まったく異なる概念のもとに存在し、それらの違いは、「有害性にどう向き合うか」に集約されます。

「自律的主体」は、苦痛に寄り添い、過ちを記憶し続けることで尊厳を育む知を残します。

「他律的主体」は、痛みを見えなくし、責任を曖昧にし、制度を延命させる知を積み重ねます。

この違いは単なる価値観の差ではなく、我々がどのような未来を選ぶのかという倫理的な岐路を意味しています。

制度の延命は、人の命の延長や健康を意味するとは限りません。むしろそれは、病気の治療を目的とする限定的な営みから、健康を制度の管理下に置くという社会的・倫理的な変容を意味するのです。

これは、制度によって構築された「健康であるべき人間像」が個人に内面化されていく過程であり、「医学の進歩」と言う言葉に置き換えられます。

ここでの人間性は、主体的に自らの健康を選び取る自由な存在というよりも、「健康基準に従って行動することを期待された存在」として制度化された他律的主体になるのです。

尊厳を軸とした未来を選ぶのか、それとも制度への従属を容認する未来を選ぶのか。医学は、卑劣にも何も言わずにこの現実を我々に突きつけているのです。




ヒト@GVdFrnRWbN18944

歴史的資料。

ヒマな勤務医とかいうヤツにとって、ワクチンで生じる心筋炎は「許容される副反応」だそうだ。
この論法をさらに発展させると、ワクチンによる死亡でさえも許容されてしまうのだ。

医療行為を絶対的善とするカルト宗教「医学」の使者である医者にかかわるのは、非常に危険である。




ここからが重要。

「ワクチンによる心筋炎は許容される副反応」という狂気的発言は、「薬物には害もあるが益もある」という思考がベースとなっている。
この思考は、「ワクチンで助かった命もある」という発言にも繋がる。

医者・医学者の根底には、「害を許容する」という危険思想が鎮座している。