・「なぜ喫煙者はコロナに感染しづらいのか」広島大学が発見した意外なメカニズム(PRESIDENT ONLINE 2021年10月28日)

谷本 圭司

※新型コロナをめぐっては、喫煙者は重症化リスクが高くなることが知られている。その一方で、喫煙者はコロナそのものには感染しづらいというデータもある。広島大学原爆放射線医科学研究所の谷本圭司准教授は「たばこは、感染後の重症化リスクを高めるが、感染するリスクを低下させる効果があるのではないか、という仮説を立てたところ、治療薬につながる意外なメカニズムがわかった」という――。

欧米で「新型コロナ感染者に喫煙者が少ない」報告

新型コロナウイルスが世界的に流行して1年以上になります。日本におけるワクチン接種率は全人口の6割を超え(2021年10月現在)、近いうちに国民の希望者全員が完了する見込みですが、治療薬についてはいまだ開発中です。

私は現在、広島大学で「低酸素応答機構」を研究しています。高山など、酸素濃度の低い環境に長期間身を置いていると身体がその環境に順応していきますが、このとき体内で起こる防御反応を遺伝子や分子のレベルで解き明かし、それをがんなどの疾患治療や創薬につなげようという研究が私のテーマです。

新型コロナウイルスによるパンデミックが世界中に拡大する中、私も研究者の一人として何か貢献できないか……。そんな思いから、ウイルス学にあかるい広島大学・坂口剛正教授、坊農秀雅特任教授、関西医科大学・廣田喜一教授の協力のもと、研究を始めました。

これまで、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の病態に、喫煙が悪影響を与えていることが多くの疫学調査から示唆されています。しかしその一方で、「新型コロナ感染者に喫煙者が少ない」「喫煙者の新型コロナウイルス陽性者が少ない」という報告が英、米、仏などの研究グループから複数報告されていることがわかりました。

非喫煙者は約21%に対して、喫煙者は約10%の陽性率

例えば、イギリスのオックスフォードロイヤルカレッジの研究で、『lancet infectious diseases』という権威ある医学誌に掲載された論文では、PCR検査を受けた3802人のうち、非喫煙者では17.5%、前喫煙者(以前は喫煙していたが現在は喫煙していない)では17.3%、現喫煙者では11.4%が陽性という結果が出ています。

また、アメリカ退役軍人医療システムの電子健康記録データでも、非喫煙者に占める陽性者の割合が20.7%、前喫煙者が20.3%なのに対して、現喫煙者が9.9%と、喫煙者の新型コロナウイルス陽性者が少ないという結果でした。

喫煙と新型コロナウイルス感染の関係について書かれた論文は数多く発表されていますが、中には、研究の組み立てとして質の悪いものも含まれています。そこで、549件の論文の中から質のいい87件だけを選び出しているものを見つけましたので、くわしく調べてみることにしました。すると、ほとんどの論文で、「現喫煙者は、非喫煙者と比べて新型コロナウイルス感染のリスクが低かった」という報告がなされているのです。

そこで私は、「たばこは、感染後の重症化リスクを高めるが、感染するリスクを低下させる効果があるのではないか」という仮説を立て、研究を始めました。

ウイルスが細胞に感染するための「ドア」

ここで、新型コロナウイルスが人体に感染するメカニズムを確認しておきましょう。

新型コロナウイルスがヒトの体内に入ると、表面にある突起状のトゲトゲ(スパイクたんぱく質)を、細胞膜の表面にある「ACE2受容体」にぴったりとくっつきます。これは、われわれの体内にウイルスが侵入するための“ドア”のようなものです。

そして、細胞膜にあるたんぱく質の分解酵素「TMPRSS2」が、ウイルスのスパイクたんぱく質を適切な位置で切断し、やがてウイルスと細胞が融合。私たちは“ウイルスに感染”した状態になります。その後ウイルスは細胞内に侵入し、自らの遺伝物質(RNA)を注入することで、私たちの細胞を「工場」としてウイルスを大量に自己複製するという仕組みです。

今回、研究の対象としたのは、この“感染のドア”となる「ACE2受容体」です。

たばこの煙成分が「ドア」を減らす

最初に、ACE2やTMPRSS2が、特にたばこの煙の成分によってどのように変化するのかを調べてみました。たばこの煙成分を抽出し、生理食塩水に溶かし込んだ液体をヒトの細胞にかけてみると、ACE2遺伝子の発現量がぐっと減ったのです。さらに煙成分の濃度を上げて観察してみると、濃度が高いほどACE2遺伝子の発現量が減っていくというデータが確認できました。この実験によって、たばこの煙に含まれる物質によりACE2、つまり「ドア」の発現を抑制することがわかりました。

次に、なぜ「ドア」の数を抑制できるのか、その仕組みを解明する実験を行いました。細胞内の約4万の遺伝子それぞれの増減を観察する「RNA-Seq(RNAシーケンス)」という方法を用いて遺伝子発現量の変化を確認したところ、たばこの煙成分が「AHR(芳香族炭化水素受容体)」を活性化させることによってACE2の発現を抑制していることがわかりました。

しかし、たばこの煙成分そのものを治療に応用することはできません。そこで、「AHRを活性化させる安全な化合物」がないかを探索したところ、ある2つのモノを発見したのです。

胃潰瘍の薬とブロッコリーなどに含まれる成分が効果を発揮

最初に思い浮かんだのは、胃潰瘍の治療薬として使われている「オメプラゾール」です。これは個人的なエピソードですが、私が1997年にスウェーデンに留学した初日に、担当教授が「最近、こんな論文を発表したんだ」と見せてくれたのが、「オメプラゾールという胃潰瘍の薬で、AHRが活性化する」という論文でした。

今回の研究でAHRという名称を見た瞬間に当時の記憶がよみがえり、「これは使えるんじゃないか」と考え、実験を実施。結果、「AHRという受容体を介して『ドア(ACE2)』の量を減らす」というところまでは確認できました。

他にもAHRを活性化させるものはないか、論文を調べたり実験を重ねたりしたところ、もうひとつの化合物を発見しました。それが、ブロッコリーなどに含まれる「トリプトファンの代謝物」です。

本当に、新型コロナ感染を抑制するのか

トリプトファンとは、必須アミノ酸(タンパク質を構成するアミノ酸のうち、体内で十分な量を合成できず栄養分として摂取しなければならないアミノ酸)の一種で、ブロッコリーをはじめ、豆や鶏卵などの食品にも含まれています。このトリプトファンが、体内で酵素や腸内細菌によって分解された結果として生じた化合物が「トリプトファン代謝物」で、これがAHRを活性化することが報告されています。

ここまでさまざまな研究を重ねてきましたが、「本当に新型コロナウイルスに感染しにくくなるのか?」という点を明らかにしなくてはなりません。そこで、オメプラゾールとトリプトファン代謝物を用いて、新型コロナウイルスが細胞に感染する(細胞に侵入する)量が抑制できるかどうかの実験を行いました。

実験では、ヒト細胞の培養液にAHRを活性化する化合物(オメプラゾールまたはトリプトファン代謝物)を加えた状態で、新型コロナウイルスを感染させた後、細胞内に入り込んだ(感染した)ウイルス量を比較しました。その結果、化合物の濃度が高くなればなるほど感染ウイルス量が低下することが確認できました。

「オメプラゾールやトリプトファン代謝物によってAHRが活性化することで、ウイルス受容体であるACE2発現量を抑制し、その結果としてウイルス感染量を減らすことができる」ことが証明されたのです。

これらの結果から、新型コロナウイルス治療薬としての可能性が示されました。今後は、今回の研究結果をさらに深化・発展させ、治療薬の開発に応用したいと考えています。

ウイルス変異株でも影響しない

現在、新型コロナウイルスに感染した患者の治療には、他の病気の薬で新型コロナへの効果が確認されたものなどが使われていますが、まだ特効薬はありません。また、国内外の製薬会社をはじめ、多くの新型コロナウイルス感染阻害薬の開発が行われていますが、いずれも治験段階です。

現在、開発が進められている治療薬は、「感染しにくくするための薬」と「感染後に重症化するのを防ぐ薬」の2つのタイプに分類できますが、私たちが目指す治療薬は前者のタイプで、「感染予防または感染初期の軽症患者に投与することで重症化を防ぐ薬」です。

最大の特徴は、新型コロナウイルスの感染受容体という「ドア」の数を減らすメカニズムを利用している点にあります。中和抗体など抗体を利用した薬の場合、特定のウイルスに対して効果を発揮するため、変異株などウイルス自体が変化してしまった場合、効果が低下する可能性があります。一方、この治療薬は、「ドア」自体を減らすため、たとえウイルスが変異しても対応することができるのです。

抗ウイルス薬との併用を想定

実際の使用にあたっては抗ウイルス薬との併用療法をイメージしています。「ドア」の数を減らすことでウイルス感染量は減らせても、感染してしまったウイルスの増幅は阻害できないからです。入ってくるウイルス量を減らせれば、抗ウイルス薬の投与量も減らせるため、副作用リスクの軽減が期待できます。

現在は、広島大学が主導する大規模な疫学研究プロジェクトにおいて、実際のコロナ患者で、胃潰瘍治療薬を使っている患者さんを対象に、感染率や重症化率の傾向、その他の有害事象などについて観察を行っています。今後は動物実験モデルなどを用いた評価を経て、臨床研究での効果評価へと進めたいと考えています。


---------- 谷本 圭司(たにもと・けいじ) 広島大学 原爆放射線医科学研究所 准教授 1970年広島県広島市生まれ。1994年広島大学歯学部卒業、1998年同大学大学院歯学研究科にて博士(歯学)取得。埼玉県立がんセンターに研究生として勤務後、スウェーデン王立カロリンスカ研究所ノーベル医学研究所へ留学し、日本学術振興会特別研究員を経て、現在の研究の基盤を作る。2020年より現職。低酸素環境下における防御反応の研究を行う。 ----------


以下「In Deep」様の姉妹ブログ「地球の記録」より転載

https://earthreview.net/cigarette-smoke-reduce-sars-cov-2-ability/

・タバコの煙の成分に「新型コロナのヒト細胞への感染を抑制」する効果があることを広島大学の研究チームが発見・証明

2021年9月14日

※最近、日本の広島大学の研究者たちが、

「タバコの煙の抽出成分が ACE2受容体へのコロナの感染を抑制する」

という研究を発表しました。


医学メディアの記事より

他のいくつかの報告では、喫煙が COVID の重症度を増加させることを示唆している中で、非喫煙者と比較して喫煙者の間で COVID 症例の数が少ないという潜在的な理由を日本の研究者たちは特定した。

研究者らは、タバコの煙に含まれる化学物質が哺乳類細胞の受容体に結合し、 ACE2 タンパク質の産生を阻害する効果を模倣する2つの薬剤を特定した。このプロセスは、SARS-CoV-2ウイルスが細胞に侵入する能力を低下させるようだ。(medicalxpress.com)


この研究は、「だからタバコを吸え」と言っているのではなく、それらのタバコの煙の成分の化合物等をコロナの治療薬として利用できる可能性についての話です。

ちなみに、これまで、フランス、イタリア、中国、米国、インドなどの研究で、コロナの重症者に喫煙者が少ないことはデータとしてわかっていたことが、過去に報じられていますが、このあたりは表面化しない報道とはなっています。

以下、広島大学のニュースリリースの「概要」をご紹介しておきます。


・【研究成果】胃潰瘍治療薬やタバコの煙から抽出した物質に意外な効果~新型コロナウイルスのヒト細胞への感染を抑制~

広島大学 2021年08月18日



本研究成果のポイント

・新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)がヒトに感染する際に利用する受容体の構成蛋白質の一つACE2量が芳香族炭化水容体(AHR)を介して低下する機構を明らかにしました。

・AHRを活性化する様々な化合物(薬)によるACE2発現抑制を確認しました。それら化合物の中で、食物などに含まれるトリプトファン代謝物や既存の胃潰瘍治療薬による細胞への新型コロナウイルス感染抑制効果を確認しました。

・新型コロナウイルス感染症治療への応用が期待されます。

概要

国立大学法人広島大学原爆放射線医科学研究所の谷本圭司准教授、大学院医系科学研究科の坂口剛正教授、大学院統合生命科学研究科の坊農秀雅特任教授、学校法人関西医科大学附属生命医学研究所の廣田喜一学長特命教授、松尾禎之講師らの研究グループは、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)がヒトに感染する際に利用する受容体の構成タンパク質の一つACE2量が低下する機構およびその機構に関与する化合物(薬)を明らかにしました。

一般的にタバコ煙成分は新型コロナウイルス感染症の病態を悪化させると考えられますが、タバコ煙中の一成分には逆の作用があることが明らかになりました。

タバコ煙成分をヒト細胞に処理する実験により、ACE2発現を抑制することを示しました。

網羅的な遺伝子発現解析から、タバコ煙成分は芳香族炭化水素受容体(AHR)の活性化を通じてACE2発現を抑制している可能性が示唆され、実験的にも証明しました。

さらに、AHRを活性化する化合物の中で、食物などに含まれるトリプトファンの代謝物や既存の胃潰瘍治療薬であるプロトンポンプ阻害薬により、ACE2発現量が抑制されることを明らかにし、細胞への新型コロナウイルス感染を阻害することを細胞感染モデルで証明しました。

研究グループでは、今回の研究成果をもとに、安全な治療薬による新型コロナウイルス感染阻害薬(治療薬)開発に応用したいと期待しています。


※ブログ主コメント:以下のように、煙草と医療には歴史的に関係があり、上記も不思議な話ではない。以下は無知ゆえの有害だったが、科学的に有益な成分を使用するのはよいだろう。


※タバコ浣腸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

タバコと医療

タバコは、アメリカからヨーロッパにもたらされて間もない頃から薬として扱われていた。タバコの煙はヨーロッパの医療従事者たちによって風邪や睡魔と戦う手段となった。

浣腸するという手法は北アメリカ大陸のインディアンの慣習をとりいれたものである。これは腹痛を和らげるだけでなく、溺れたひとを蘇生する試みにもよく用いられた。リキッド状のタバコの浣腸は、ヘルニアの症状を抑えるために頻用された。

西欧医学において、タバコは新大陸で発見された後にヨーロッパに輸入されるまで、未知の物質だった。しかしヨーロッパの人々は煙の効能について無知だったわけではない。香料は古代より用いられており、大麻の葉を燃やせば精神を活性化する効果のあることがスキタイ人やトラキア人には知られていた。古代ギリシアの医学者であるヒポクラテスも、咳に悩んでいた大プリニウスがそうしたように、煙を吸入することは「婦人病」によいと述べている。

ヨーロッパの探検家がタバコを学んだインディアンも、その葉を宗教行事などさまざな目的に使用していた。そしてヨーロッパ人はすぐにそこには医学的な使用法もあることに気がつくのである。

当時の西欧医学は四体液説に非常な重きをおいており、わずかな間ではあったが、タバコはまさに万能薬として扱われた。薬局方においては、特定の疾患からくる寒気や眠気に有効であると記され、それらがタバコのもつ水分を吸収する効能、身体を温める効能から説明されたが、これはつまり健康な人間にとってきわめて重要な要素である「調和」を保つものであったとされていたのである。感染を阻むために、タバコの煙は建物を燻すものとしても使われた。

タバコの煙が病気を防ぐことの有効性は20世紀にいたってもはっきりと信じられていたが、19世紀のはじめごろには、ベンジャミン・ブロディーの動物実験により、タバコの煙に含まれるニコチンの毒性が発見されており、この治療法(タバコ浣腸)も衰退した。


・水銀、アヘン、タバコ…治ることを売りにした最悪な治療法の歴史
『世にも危険な医療の世界史』(DIAMOND online 2019年6月14日)

冬木糸一:HONZ



『世にも危険な医療の世界史』 リディア ケイン著 福井久美子訳 文藝春秋刊

※現代でもインチキ医療、危険な医療はいくらでも見つけることができるが、過去の医療の多くは現代の比ではなく危険で、同時に無理解の上に成り立っていた! 

本書『世にも危険な医療の世界史』はそんな危険な医療史を、元素(水銀、ヒ素、金など)、植物と土(アヘン、タバコ、コカインなど)、器具(瀉血、ロボトミー、浣腸など)、動物(ヒル、食人、セックスなど)、神秘的な力(電気、動物磁気、ローヤルタッチ)の五種に分類して、語り倒した一冊である。

“実のところ、この本は何でも治ることを売りにした最悪の治療法の歴史を、簡潔にまとめたものだ。言うまでもなく、「最悪の治療法」は今後も生み出されるだろう。”

単なる事例集にすぎないともいえるのだが、それでダレるということもなく、出てくる例があまりにもトンデモでひどいことをやっているのでなんじゃこりゃ! と笑って驚いているうちにあっという間に読み終わってしまう。

たとえば、ペストを予防しようと土を食べたオスマン帝国の人々、梅毒の治療のために水銀の蒸し風呂に入るヴィクトリア朝時代の人間、剣闘士の血をすする古代ローマの癲癇患者たち──今から考えると彼らの行動は「ちゃんちゃらおかしい」のだが、彼らだってネタや冗談でやっていたわけではない。本気で治そう、治るんだと信じてやっていたのであって、そこには彼らなりの真剣さがあり、理屈が存在している。

そう、本書で紹介されている治療法にはどれも(結果は伴わないにしても)それっぽい理屈は通っていることが多いのである。だからこそ人々はそれを信じたし、我々は今でも似たような理屈や治療法を信じる可能性がある。かつてのトンデモ医療に驚くだけでなく、「今でも身の回りにこうした最悪の治療法は根付く可能性がある」と危機感と猜疑心の眼を育たせてくれる本なのだ。

ざっと紹介する。
 
というわけなので、本書でどのような危険な治療法が紹介されているか、いくつかピックアップして紹介してみよう。

最初は元素の章から「水銀」だ。『水銀製剤は、何百年もの間万能薬として利用されてきた。気分の落ち込み、便秘、梅毒、インフルエンザ、寄生虫など、どんな症状であれ、とりあえず水銀を飲めと言われた時代があったのだ』といい、ナポレオンもエドガー・アラン・ポーもリンカーンも水銀製剤を愛用、または一時期使用していたという。しかしなぜ水銀なんて愛用したのだろう? 身体に悪いことぐらい一瞬でわかりそうなものなのだが。

16世紀から19世紀初頭まで愛用されていたのはカロメルと呼ばれる水銀の塩化物のひとつだ。服用すると胃がムカつくことがあり、強力な下剤効果を発揮し、物凄い勢いで腸の中身がトイレに流れていく。それだけではなく、口からも大量の唾液が分泌される(水銀中毒の症状)。16世紀の著名な医学者パラケルススは、唾液が1.5リットル以上分泌された状態を水銀の適度な服用量とみなしていたという。現代的な感覚からすると完全にやべえじゃんと思ってしまうが、当時の人達は唾液に混じって大量の毒素が流れ出していると考えていたので、それが身体にいいと判断していた。また、便秘が病気を引き起こすと考えていたので、下剤的効用も歓迎されていたのだ。

続いて植物と土の章で紹介しておきたいのは「アヘン」。アヘンってドラッグだし、医療目的で使うのはありじゃない? と思うかもしれないが、長い期間にわたってその使われ方は雑であった。たとえば泣きやまない子どもにはケシとスズメバチの糞で静かにさせよと紀元前1550年の古代エジプトの医学文書に書いてある。古代の話でしょ? と思うかもしれないが、1400年代から20世紀まで、教科書にも子どもの夜泣きやぐずりにはアヘンとモルヒネの調合薬がきくと書いてあったという。そりゃ静かにはなるだろうが、それ死ぬよね(実際、死ぬ子も多かった)。

理屈の通っている治療法が多い中、完全に意味不明なものもある。タバコを用いた治療法の中でとりわけ不可思議なのがタバコ浣腸だ。タバコの煙をお尻の穴に注入するだけの治療だが、なぜか水難者の体にタバコ煙を注入すると、体を温めて呼吸器を刺激できると考えた人がおり、多くの人が実践したらしい。無論何の効果もないし、溺れて窒息している時にタバコの煙を尻から入れられて死んだら死にきれないだろう。これは18世紀頃に流行したものだという。

危険な医療といえば外せないのは「瀉血」だ。病を患った時、悪い血を抜くことで治そうとした治療法で、最初に行われたのは紀元前1500年頃のこと。なんの効果もないが、病が内側から起こっている以上、身体の中から何かを抜くという発想になるのは理屈としてはよくわかる(水銀の件もそうだ)。数千年にわたって、天然痘も癇癪もペストも失恋によるメンタルの不調まで全部瀉血で治そうとする人々がいたし、あまりに一般的だったので理髪師がサービスのひとつとして瀉血を行うこともあった(これは古代ローマでもあったし、中世ヨーロッパでもあったという)。

おそらく本書中もっともえぐいのが「ロボトミー」について語った章で、これは統合症失調患者や幻覚症状のある精神疾患患者の頭蓋骨を開き、前頭葉の一部を切り離す手術のことをいうが、無論治療効果はないどころか完全に害しかない。最初期はスプーンで何杯も大脳皮質を取り除いたという。一部の患者は確かにおとなしくなって幻覚を見なくなったが、多くの患者は死んだり障害に悩まされたりした。人類史の中でもトップレベルの悲劇というか愚かな治療法だ。

第四章、動物の中では「食人」がとりわけ印象に残る。ここでもパラケルススが出てくるが、彼は人体の一部が含まれた治療薬には魂やエッセンスが仕込まれており、その薬効で病が治ると考えた。また、これは今でも似たようなことをする人はいるとおもうが、元気な人間の血を飲むと健康が手に入るという考えが昔から根強く残っている。一世紀の頃、癲癇の患者たちは剣闘士の血を飲み干したし、17世紀でも罪人が斬首されると、壺を片手にかけよってそれをそそぎこみ、新鮮な血を浴びるようにして飲んだという。

おわりに
 
通して読んでいくと、「医療」や「治す」ことの難しさがわかってくる。何しろ、人間がかかる病の大半は放っておいても治ってしまうものなのだ。だからインチキ療法であっても、自然治癒してしまう可能性は高いし、「治療を受けたのだから」というプラシーボ効果が発揮されることもある。そうすると、インチキ療法と本当の治療の判断をするのは極端に難しくなるし、それは治療を受ける側だけでなく、施術する側もそうである。本書の中でも、結果的に最悪の治療法になったとはいえ、治療法考案者自身が本気で効果があると信じて行っていたものも多い。

たとえ効果がなかったとしても、時代を考えれば他の手段をとりようがないケースも多く、そうした時代においては治療を受けたという精神的な安定だけであっても意味のあるものだったのかもしれない。

依然として完全な治療が存在しない以上、人はこれからも「なんでも治してくれる、まだ見ぬ医療」を期待し続けるし、そうである以上それに応えようとする最悪の治療法も、著者がいうようになくなることはないのだろう。人の愚かさが克明に記されていると同時に、「それでも人類は少しずつ最悪な治療法を潰してきたんだな」と未来への希望が持てる一冊だ。