続き。笑

私たちが普通に思う一般的な「諦め」とは違い、
仏教が教える「あきらめ」とは、
思うがままにならいということを「はっきり」させる。

それが仏教でいう「あきらめ」らしい。

人間の思うがままになることか、ならないことかを
「明らかにしなさい」と。

だから「諦め」と書くよりは「明らめ」の方がいいかな?と。

仏教は我々にそのように忠告しているとのこと。

ただ、誤解しちゃいけないのが、前回の日記の雨の件でいうと、
雨が降ってても、思うがままにならないから、イヤだなぁと思うなと
書きましたが、それを「雨もまたいいなぁ」と思え!と言うのではないこと。

仏教が教える「あきらめ」は、雨もまたいいものだと思えではなく、
そうではなしに「いい/悪い」といった判断を超越しなさいということ。

「いい/悪い」というのを分別と言うのですが、
私たちの日常では、分別のあることはいいとされ、
反対に無分別はは良くないとされてるよね。

ただ、仏教では「分別するな」と教える。苦笑
・・・頭がゴチャゴチャしてきたぞ。笑

どうやら私たち人間がする分別は、非常にあやふやだから。

入学試験に合格することが「いい」
不合格は「悪い」

こんな感じの分別の仕方をする。

でも、入学した学校でイジメに合うかもしれないし、
勉強についていけずに退学するかもしれない。

逆に不合格となり、違う学校行ったら、
良き理解者に恵まれ、才能を発揮するかもしれないし、
素敵な女性と出会う可能性もある。

入試の際は落ちて「悪い」と思ったけど、
その後はハッピーだとしたら、結果的に「いい」

私たちの分別は、所詮はその程度のもの。

で、私たちがそのような分別をしていると、
実はホントは分別してはいけないものまで分別してしまう。

優等生/劣等生や
良い子/悪い子/普通の子といった分別など。
どうしても学校や社会は、そのような分別をしちゃう。

でも、私たち親は自分の子に、そのような分別をしてはいけない。
そうだよね、だってわが子はわが子なんだから。ニャハハ

世間の評価が低いからとか、障害があるからといって、
わが子を別の子と取り替えることはできないよね?

そんなことはできないんだから、分別なんかしないで、
わが子をそのまま肯定するのです。

それが仏教が教える「あきらめ」なんです。

続く。爆