手塚治虫(前編) | いまのままぢゃダメだ! ・・たぶん。

手塚治虫(前編)

手塚治虫といえば巨匠、天才・・と。

誰もが認める日本を代表する漫画家でしょう。

また鉄腕アトムといえば、これまた彼の代表作であると共に、日本漫画の代表作でもあるでしょう。

その初期の作品はどのように創られていったのか。


すでに”神話”的な領域に入ってしまった感のある手塚治虫。

それでも、やはり人間くささっていうか、フツーじゃんってトコがあるんだよね。

当たり前だけど、ね。そういう部分、見つけるのって楽しい。

自分のレベルにひきずり落とす、という悪い方向ではなく

あの人でさえ、そのときそうだったのだから、自分だってこの先十分いける可能性があるゾ!

そんな前向きな気持ちになってくるから。

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それは、漫画の巨匠、手塚治虫にとって屈辱的な評価だったに違いない。1963年1月1日、国産初のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」がスタートした。既にアトムは雑誌連載で人気だった。「アニメを作るために、漫画を描いてきた」。手塚自身がそう語っていただけに、アニメ関係者の期待は高かった。
 ところが、多くの人はブラウン管に登場したアトムを見て愕然とする。
 絵が動いていない-
 少なくとも、プロの目にはそう見えた。当時、ディズニーなどのアニメは、1秒間に12枚の絵を使って、滑らかな動きを表現していた。アトムは明らかに絵が少なく、動作がぎこちない。
 アトムがパンチを繰り出す時は、腕から先だけが動く。そこしか描き足していないからだ。クルマは1枚の絵をずらすことで、走っているように見せる。アトムが驚いた表情は、アップの絵のまま数秒間も引っ張った。
 「最悪のアニメ」「電子紙芝居」
 非難と嘲笑にまみれたアトムー。
 放送回数を重ねると、さらに「手抜き」が見えてくる。前に見たアトムが、再び画面に登場する。描いた絵を使い回しているからだ。
 「新しい絵をほとんど描かず、使い回しで1回分を乗り切ったこともある」。制作した虫プロダクションの関係者は、舞台裏をこう明かす。
 「技量が足りないわけじゃない」
 演出を担当した山本は、同業者に「虫プロはその程度か」と笑われて、悔しさに震えた。
 当時の虫プロは、理想の作品を作れる環境ではなかった。低予算に喘ぎ、スタッフが著しく不足していた。「他社の作り方なら3000人以上のスタッフが必要だった」(山本)。ところが、アトムの制作陣はわずか50人。普通に考えれば、作れるはずがない。
 それでも、手塚はアトムをテレビに登場させた。
 「今、自分がアニメに乗り出さなければ、日本のアニメは10年遅れてしまう」。そんな思いに駆られて、温めていたある秘策を実行に移したのだ。
 「テレビアニメ構想」とでも言おうか。映画館と違って、テレビは画面が小さいため、絵があまり動かなくても気にならない。それよりも、手塚作品のストーリーや、そこに込められた世界観を伝える…。たとえ動きがぎこちなくても、漫画とは比べものにならないインパクトがあるはずだ、と。
 62年、虫プロを設立。そして、アトムの試作フィルムの制作に取りかかった。作業が最終段階に入ったのは、その年の夏。フィルムが完成した時、手塚の後ろで画面を見つめている男がいた。噂を聞きつけて飛んできたフジテレビジョン編成部員の白川文造(現ビーエスフジ取締役相談役)だ。
 「見ているうちに、興奮していって、終わった瞬間に、手塚さんと交渉を始めた。とりあえずフイルムを1日だけ貸してほしいと」(白川)
 フジテレビに戻って試写会を開くと、編成部の上司は感激のあまりに唸った。アトムには米国のアニメとは全く異なる魅力があった。科学が進歩した未来を描きながら、人間社会や文明へのシニカルな視点が貫かれている。
 国産初のアニメシリーズができる。しかも、従来の米国アニメをしのぐ人気番組になるかもしれない-。
 それはテレビ局の悲願でもあった。当時、テレビ各局は米国のテレビ映画に頼りきっていたからだ。事実、61年の視聴率ベスト10のうち、3つは米テレビ映画が占めていた。アニメも「ポパイ」など米国作品ばかりだった。
 アトムを突破口に、米国依存の編成から抜け出し、先発の日本テレビ放送網やTBSを追い上げる。開局4年目のフジテレビは勝負に出た。
 スポンサーとなった明治製菓も、同じ夢を見ていた。他の企業は、見たことのない国産アニメシリーズにカネを出そうとしない。その中で唯-、興味を示したのが明治製菓だった。
 同社は前年、マーブルチョコレートでヒットを飛ばしたが、森永製菓の類似商品に追い抜かれた。そこで、アトムに賭けた。アトムの人気に乗って、子供市場を奪い返すことが狙いだ。
 明治製菓にとって、ネックは制作費だった。アニメの30分番組を作るには150万円のカネがかかる。同じ30分のテレビ映画なら50万円でできる。
 そこで手塚が動いた。明治製菓に破格の条件を提示した。大赤字を覚悟で「55万円」という制作費を示したのだ。これを開いて、明治製菓の宣伝担当者は安堵の表情を浮かべた。その傍らで、手塚は「心で泣いた」という。1本作れば100万円の赤字…。身を削って作品を生み出すようなものだった。そして、制作現場は凄惨を極める。アニメーターは1班10人ほど。業界では、1人が1日に描ける絵は、5枚程度と言われていた。休みなく仕事をしても週400枚にも満たない計算になる。ディズニー映画のような動きを出すには2万枚近い絵が必要だった。
 絶望的な数字の開き。だから、絵を省くしかなかった。一度描いた絵は、キャラクターや場面ごとに整理して再利用した。「バンクシステム」と呼ばれたこの手法は以後、多くのテレビアニメで踏襲されることになる。

「アトムは産業革命」

 「30分のテレビアニメを2,000枚で作る」。虫プロの出した結論だ。それでもアニメーターには、通常の5倍を超える絵を描くことが求められた。
 「生きるか死ぬか、という雰囲気」
 アトムの脚本家だった辻真先は、当時の虫プロをそう表現する。そこで起きた悲劇が今も脳裏に焼きついている。アニメーターが仕事を終えて、倒れるように寝ていると、隣にいた赤ちやんが亡くなってしまう。ベッドの隙間に首が挟まるような格好で。
 誰のためにアニメを作っているのか-。葬儀場で、手塚は人目をはばからず号泣した。

<Nikkei Business 2006.1.23>

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