二度ばかりの抱擁で、慶順はすっかり靖清に慣れてしまっていた。お互いの裸の膚が、吸い寄せ合うように密着した。
ーおまえ、その気(け)あったのか?
という問いに、慶順はあっさり首を横に振った。むしろ、ガールフレンドが多くて困ると、白い歯を見せて笑った。
ーじゃ何故怒らなかった。俺が抱いた時…
ー真剣だなって思ったんです、兄さんが。だから…
ーそうか、分かった。もういい。あまり深く拘泥らないように…ははっ…
茶化すように靖清は云った。
実際、深く拘泥されては困る。恐らくは慶順のそれは、この歳頃にありがちな一過性の傾きなのだ。時期が来れば醒める。が、それまでは失いたくない。得難い美少年なのだ。靖清の裡で、瞬時に勝手な計算が成された。
慶順は、白いブリーフひとつで畳に腹這っていた。
ーねっ、兄さんは京都の人なんですか?
ーどうして?
ーだって、壁にかかってる写真は、みんな京都のお寺だもん。
ーへえ、良く分かるな!
醍醐寺山門の写真があった。妙法寺門跡の枯山水のカラー写真もかかっている。伏見稲荷大社の蜿蜒と続く赤い鳥居や、光悦寺垣の妙なる垣文様を捉えた写真もあった。が、それらはすべて、お定まりの観光社寺とはほど遠い、一般には見慣れぬものばかりだ。慶順は、それが京の社寺仏閣であることを、一目で言い当てた。
ーだってぼく、一時、母と一緒に、京都じゅうを歩きまわってことがあるんです。
ーへえ、観光で?
ーううん、叔父さんの世話になった人が京都に居るらしいんです。それで…
ー叔父さんって、その焼肉屋をしてる…
ーいいえ、また別の。戦争中に強制連行された、ぼくの父の兄さんなんです。
強制連行と聴いて、左翼学生である靖清の眼がきつい輝きを見せた。
ーへえ、じゃ、慶は母さんと…
ーうん、十年前に日本へ来たんです。今の東京の叔父さんを頼って。…まだ、って言うより、もうずっと…永住申請の許可は下りないだろうけど。でも母さんは、日本の方がいいって。今の大統領の顔見ると虫酸が走るって言うんです。ぼくにはどうしてだか分からないけど…その母も死んで…
屈託なげに喋る慶順はあどけなかった。過去を知っている朝鮮の人々は、もっと日本を、日本人を憎んでいる筈なのだ。寛大な民族であろうと、よもやあの暴虐の過去を忘れはしまい。日本人を許しはすまい…
思いに沈む靖清の耳朶を、慶順の好奇に溢れた高い声が打った。
ーねっ、兄さん。あの押入の隅っこに覗いてるの、白磁じゃないんですか?
ーああ、あれ。祖父の代からの花瓶だよ。そう云えば李朝だよ、あれ。待ってろよ。
そう言いながら靖清は、埃塗れのその花瓶を引っ張り出した。紛うかたなき李朝白磁だった。赤黒い斑紋とは別に、何やら黒い汚れのようなものが表面に見られる。かつては、どうやら、意味を成す文字らしきものが書かれていたらしい。が、今は、それは、文字通り黒い汚れにしか見えなかった。
ーおまえ、その気(け)あったのか?
という問いに、慶順はあっさり首を横に振った。むしろ、ガールフレンドが多くて困ると、白い歯を見せて笑った。
ーじゃ何故怒らなかった。俺が抱いた時…
ー真剣だなって思ったんです、兄さんが。だから…
ーそうか、分かった。もういい。あまり深く拘泥らないように…ははっ…
茶化すように靖清は云った。
実際、深く拘泥されては困る。恐らくは慶順のそれは、この歳頃にありがちな一過性の傾きなのだ。時期が来れば醒める。が、それまでは失いたくない。得難い美少年なのだ。靖清の裡で、瞬時に勝手な計算が成された。
慶順は、白いブリーフひとつで畳に腹這っていた。
ーねっ、兄さんは京都の人なんですか?
ーどうして?
ーだって、壁にかかってる写真は、みんな京都のお寺だもん。
ーへえ、良く分かるな!
醍醐寺山門の写真があった。妙法寺門跡の枯山水のカラー写真もかかっている。伏見稲荷大社の蜿蜒と続く赤い鳥居や、光悦寺垣の妙なる垣文様を捉えた写真もあった。が、それらはすべて、お定まりの観光社寺とはほど遠い、一般には見慣れぬものばかりだ。慶順は、それが京の社寺仏閣であることを、一目で言い当てた。
ーだってぼく、一時、母と一緒に、京都じゅうを歩きまわってことがあるんです。
ーへえ、観光で?
ーううん、叔父さんの世話になった人が京都に居るらしいんです。それで…
ー叔父さんって、その焼肉屋をしてる…
ーいいえ、また別の。戦争中に強制連行された、ぼくの父の兄さんなんです。
強制連行と聴いて、左翼学生である靖清の眼がきつい輝きを見せた。
ーへえ、じゃ、慶は母さんと…
ーうん、十年前に日本へ来たんです。今の東京の叔父さんを頼って。…まだ、って言うより、もうずっと…永住申請の許可は下りないだろうけど。でも母さんは、日本の方がいいって。今の大統領の顔見ると虫酸が走るって言うんです。ぼくにはどうしてだか分からないけど…その母も死んで…
屈託なげに喋る慶順はあどけなかった。過去を知っている朝鮮の人々は、もっと日本を、日本人を憎んでいる筈なのだ。寛大な民族であろうと、よもやあの暴虐の過去を忘れはしまい。日本人を許しはすまい…
思いに沈む靖清の耳朶を、慶順の好奇に溢れた高い声が打った。
ーねっ、兄さん。あの押入の隅っこに覗いてるの、白磁じゃないんですか?
ーああ、あれ。祖父の代からの花瓶だよ。そう云えば李朝だよ、あれ。待ってろよ。
そう言いながら靖清は、埃塗れのその花瓶を引っ張り出した。紛うかたなき李朝白磁だった。赤黒い斑紋とは別に、何やら黒い汚れのようなものが表面に見られる。かつては、どうやら、意味を成す文字らしきものが書かれていたらしい。が、今は、それは、文字通り黒い汚れにしか見えなかった。