そんなんじゃねえよ。仕事が辛くて泣いてんじゃねえんだ。強制連行されてきた俺だ。扱き使われるのは分かってらあ。じゃあ、何故かって?…照れ臭くって喋れたもんじゃねえけどよ、オモニのことなんだ。何かこう、オモニの顔が眼の裏に泛んできてよお、きゅーって胸が締めつけられるみたいなんだよお。
 桃の花が咲いてたっけ、俺んちの庭にさ。オモニは、その桃の木にしがみついてた。東洋鬼に小突かれて引き摺られてく俺の名を、必死に呼びながらしがみついてたっけ。それまでに何度も奴らに殴られたからさ、もう俺の体にはすがりつけねえんだ。かわりにだから、その木を抱いてたんだきっと。哀号、哀号って泣きながら、俺の名を呼んでた。何か知らえけど、俺の体が引き裂かれるような悲しい声だったぜ。村の入口の橋を渡るまで聞こえてたっけ。でもあとは、ひゅうひゅう鳴く風が、オモニのその声を掻き消してくれた。ほっとしたなあ、あん時は。仕方ねえんだ。俺ぐらいの年になりゃ、皆そうやって、「日本兵志願兵」として強制連行されるんだ。いくらオモニが髪振り乱して泣き叫んだって、取り消しなんかにゃなる筈もねえ。殴られて、蹴られて、荷物みたいに引き摺られてった、隣のヤン兄さん見てたもんな。覚悟は出来てたさ。でもこうやって離れちまうと、やっぱりいけねえんだ。オモニの泣顔がチラチラしやがる。
 十二歳の弟と七十歳のばあちゃん背負って、オモニは苦労してんだろうなあ。おやじかい。死んじまった。殺されちまったよ。抗日ゲリラの通信員なんて馬鹿なことやってたもんな。叶いっこねえのさ、憎い東洋鬼だけどさ。テンノーとか何とかいうのがいて、心の支えだってえじゃねえか。俺たちの国にはそんなもん無かった。しゃちこばった儒教とやらが、ずっと皆んなを縛りつけてただけさ。
 だからさ、此地へ来て、こんなふうにおまえと愛し合えるのが、俺、嬉しくてさあ。考えられなかったもんな、俺の国じゃあ。そうさ。獣以下に扱われる炭鉱の仕事は辛いけど、こうやってたまに、俺の心を慰めてくれるおまえが居りゃこそ、俺は堪えてんだ。言葉だって通じないけどよ、でも分かるんだ俺。おまえが俺のこと…照れ臭いけど…その…好いてくれてんのがよお。
 おかしな奴だぜ、おまえって。日本人は、勝手に俺たち引っ張って来といて、よってたかって小突きまわしちゃ毛嫌いすんのによお、おまえだけは別だもんな。そりゃ、やばいから態度は余所余所しいけど、おまえの眼見てりゃ分かるさ。何かこう優しくてよお、澄み切っててよ、いつも俺のこと心配して呉れてるみてえな…くっ…だめだよ。嬉しくてよ、嬉し過ぎて涙が出ちまあ。
 何でおまえは、俺にそんなにしてくれんだ。何でそんなに可愛いくてさ、弟みたいに俺のこと慕ってくれんだ。勉強なんて大嫌いだった俺だから、世の中のことなんて何も分からねえ馬鹿みたいな兄貴だけど、けど、おまえが教えてくれたもんな。人を愛するってことをよお! やめた。気障っぽくていけねえよな。俺らしくもねえ。でもよ、清司って、おまえの名前だけは、もう言えるぜ、俺。