的場忠臣という50歳がらみのその名刺の主と、長岡市内の旅館の一室で対した橘は、半ば敬次への疑惑を捨てかけていた。的場は、
「全くお恥ずかしい話で」
と云いながら寝台車での出来事を語ったが、終始、敬次を褒めちぎり、とても人殺しの出来るような学生には見えなかったと云った。行為が終わったあと、「ありがとうございました」と深々と頭を下げ、名刺を渡すときも、それを押し戴くようにして、「ご丁寧に、どうも」と、大人でも云えない科白を云ったと感激していた。
 煙草を灰皿にもみ消して、
「いや、どうも」
と立ち上がりかけた橘に、的場は未だ話しかけていた。余程、話好きなのかもしれない。尋ねないことまで、べらべらと喋りまくっていた。
「あの学生さんの残り香が、今も鼻先でちらついてましてね、なんかこう、ライムのような匂いがしましてね。刑事さん、そんな匂いの化粧品でもおまんのやろか。あったら、嫁はんに降りかけて、あの学生さんや思て、そこらじゅうねぶり回すんやけどなあ…」
敬次が云うといやらしさがなく、爽やかに聞いていられた男同士の愛というものも、この男の口から出ると、この上なくおぞましく、不潔なものに感じられた。『何がライムの香りや』と思いながら、旅館の玄関を出ようとした橘は、急にはたと立ち止まった。一切の思考が一点に凝縮した。現場に立ったとき、鼻を突くガス臭の中で、被害者の冷たく硬直した躰の問題の箇所に付着していた、クリーム状のものに残っていた香りを橘は思い出していたのだ。相当する指紋もなく、血液型も決定的ではない、状況証拠だけしか固められていないが、橘には、岩城敬次を京都の本部へ連行する胆が決まった。
 橘がその旅館を出る頃、小出の敬次の実家では、白いジーンに白いジャンパーという、まるで死装束のような白づくめの服装をした敬次が、疲れきった躰に鞭打つような動作で、小さなリュックにノートや日記帳を詰め込んでいた。表情というものがなかった。もう世の中の全てを悟りきり、何もかも諦め、無欲この上ない自殺行へ旅立とうとする人の立ち居振る舞いであった。だが、しかし、彼の胸の裡では、騒々しい渦が幾重にも渦巻き、走馬灯のような追憶が去来していた。

凛太郎九州行写真、残り数枚です。
$凛冽の汗