大阪の商事会社に勤める後藤喜朗が、ほろ酔い機嫌で洗面所に立ったのは、列車が敦賀を過ぎて北陸トンネルを脱け出た頃だった。習慣になっている就寝前の歯磨きを思い立ったのだが、しかし、客車の扉を出た後藤は、一瞬ハッとして足を止めた。さらに近づいてみないことには良くは見えなかったが、洗面所のコンパートメントに立ち尽くして、じっと鏡の中の自分を凝視しているらしい青年が居たのだ。三面鏡の側鏡に映った青年の瞼の辺りが赤く腫れ上がっている。泣いていたのだ。そう合点した時、後藤は躊躇なく青年に近づいた。酔いも手伝っていたかも知れないが、むしろ、後藤は妻子がありながらも、若い男を愛する性癖を潜在的に持っていたのだ。青年時代に軍隊で重ねた異常な昂奮は、常に好機あらばと、後藤の胸の裡に埋もれ火のように巣食っていた。
 列車の振動が後藤の快楽の作業をやり易くしている。便器に跨って立った青年は全裸に近い格好をしていた。備え付けの夜着の下には、若さが成せる術か白いピッタリとした下着しか着けていない。適度に車内暖房が効いていると云っても、真冬の北陸本線を走る列車の中だ。むしろ、厚着の後藤の方がぶるぶると震えていた。
 下着の下から表れた青年のそれは、思ったより立派だった。未だ半ば包皮に包まれた先端に舌先をあてがうと、青年は、「クッ」と呻いて腰を引く。喘ぎつつも未だ悲しそうな目をしている青年の視線が、見上げた後藤の目と合った。『ああ、何と可愛いんや。何でこれほど愛おしいんや』。後藤の血は燃えたぎっていた。若い日の胸の滾りが、次々と打ち寄せる潮のように湧き上がってくる。「どうしたんや?」と肩に手を掛けた後藤のぎこちない誘惑を拒まなかったばかりか、今こうしてしゃがみ込んで下着に手を掛けるまで、狂ったように後藤にしがみついて、押し殺したような慟哭を繰り返した青年だった。何がしかの事情があるとは思いながらも、敢えて後藤は尋ねなかった。何も訊かずに、そうやって抱いてやるのが、50歳を越えている自分の貫禄の見せ所だと思ったのだ。しかし、後藤の口中深く躍っている青年のそれは、堅く漲ってはいるが、後藤の必死の愛撫にも拘らず、なかなか最後を迎えようとはしなかった。
 後藤はしかしもう、そんなことを気にかけてはいられなかった。激しい動きを繰り返しながら、間断なく青年の温もりのある尻や腿を撫でまわす。格好の対象物に恵まれて激しく促された後藤の欲情が、思いもかけぬほど、足早に攻めのぼってきたからだった。久しぶりの激情だった。一瞬、頭の中を訳の分からないものが旋回したかと思うと、快い解放感が下腹に拡がった。ひくひくと蠕動する自分の肛門が可笑しかった。何十年ぶりかなと後藤は思った。布団にくるまって下着の中で夢精していた幼い頃の夢が脳裡をよぎった。膝頭の辺りまで下着をずり下ろされたままの格好で、青年は未だ立ち尽くしている。放おっておけばいつまでも、そこにそうしたまま立っていそうだった。青年のつけているらしい仄かな香料の匂いを鼻孔に感じながら、後藤は立ち上がった。
「また会いたいな。今度はもっとゆっくり。」
感激してしまった後藤は、そう云って微笑んだ。今度逢う時は、青年の思い悩んでいるらしい心配事の相談にのってやろうと、そんな殊勝らしいことを考えた。別の号車に戻って行く青年を待たせて、後藤は自分の懐から名刺を引き抜いて渡した。
 寝床に横になってから、『子供みたいにはしゃいで、名刺なんかを渡したのは多少軽率やったかな』と思いながらも、後藤は、汚れたままの、冷たい下着の感触を楽しんでいる自分の、いつにない懐古的な気持ちに苦笑した。小さな覗き窓から、走り過ぎる夜を眺めた。そろそろ、金沢に着く頃だろうか、列車のスピードが徐々に落ちている。一面の闇の底の方が白くなっている。雪だった。「…信号所に汽車が停った。島村の前の娘が立ってきて…」後藤は何となく呟いた。そして自分で「フフッ」と小さく笑った。小窓に嵌め込まれた硝子に、幼い少年のようにキラキラと輝いた眼をして微笑んでいる自分を見て、後藤はまた、顔を歪めて苦笑した。そして、こうした苦笑を苦笑で済まさねばならない今の自分が、ふと悲しくなった。それに引き換え、さっきの青年などはまだまだこれからだなと、羨ましい想いが後藤の胸を占領していた。

凛太郎九州行写真です。
$凛冽の汗