些細な事だった。自分の受け持ちのクラスだった。沖田は机間巡視をしていた。ふと一人の女生徒に目がとまった。彼女は、机の上に教科書もノートも出していなかった。沖田は背後に立って、肩に手を載せ、やさしく促した。
「さわらないで」
激しい拒絶と共に、彼女は沖田の手を邪険に振り払った。呆然としながらも沖田は、再度彼女に向かおうとした。その時だった。
「おっさん、触るなって云ってるだろ!」
中学生のくせに、ヤニ臭い息で、ドスの効いた声が沖田の背後からかかった。山崎卓司だった。沖田のクラスのボスだ。何かあれば、必ずこいつが首謀者だ。沖田も腹に据えかねていた。皮肉なことに愛すべき弘三に似た美少年ではある。が、今はその端正な容貌が醜く歪んでいる。
「おまえは黙ってろ!」
そう云って沖田は山崎を押しやった。
「何っ!」
そう反応すると同時に、山崎の手が腰の鉄パイプに伸び、高々とそれを掲げた。充分に訓練された兵団のように、教室内の生徒が一斉に立ち上がり、鉄パイプや自転車のチェーンをまさぐり始めた。
「やめろ、座れ、元に戻るんだ!」
沖田は悲痛な叫びを放った。しかし、生徒らは、逆に一団になって沖田に迫ってくる。誰も喋らない。その沈黙が不気味である。彼らは一様に殺気を孕んだ双眸で沖田を見据えている。眼の端に堀弘三の姿があった。弘三だけは醒めているらしい。教室の後ろで、壁に凭れてこちらを見つめている。腕を組み、謎めいた微笑を洩らしている。沖田は、縋るような視線を弘三に向けた。その瞬間、弘三は、悲しげな眼をして首を左右に振った。沖田の中であきらめに似たものが支配し始めた。自分一人では、もはやどうにもならなかった。緊急通報用の小型無線機のスイッチを入れた。別棟の職員室で鳴り響く、けたたましいブザーがそこまで聴こえた。30秒と経たないうちに、小型拳銃を手にした生徒指導の教諭がとびこんで来た。その時だった。先頭に居た上背のある生徒が、狂ったように沖田に向かって鉄パイプを振り上げたのだ。悪夢の始まりだった。教諭の手にした45口径のオートマチックが火を吹いた。