庭で過ごすことが多くなって、凛太郎がちょっと大人しくなりました。庭で寝ている姿はさみしげですが、家の中に入ってくると、以前よりも落ち着いているのです。時候が良くなって、ぽかぽか陽気が続きます。今がいちばん良い季節かもしれませんね。
進学歳時記 幾たりかのあたたかい膝や手が
およそ十年も以前から、くり返し引用し、紹介してきた石垣りんさんの詩です。心に沁みる詩です。便利さと引換えに現代の母親たちが売り渡してしまって「お母さんの原点」が、人が生きることの究極がうたい上げられています。
それはながい間/私たち女の前に/いつも置かれてあったもの、
自分の力にかなう/ほどよい大きさの鍋や/お米がぷつぷつとふくらんで/光り出すのに都合のいい釜や
劫初からうけつがれた火のほてりの前には/母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。
その人たちは/どれほどの愛や誠実の分量を/これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
ある時はそれが赤いにんじんだったり、/たたきつぶされた魚だったり
台所では/いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意の前にはいつも幾たりかの/あたたかい膝や手が並んでいた。
ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて/どうして女がいそいそと炊事など繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ/無意識なまでに日常化した奉仕の姿。
中略
……それはおごりや栄達のためでなく/全部が
人間のために供されるように/全部が
愛情の対象あって励むように
授業でこの詩の主題を問いました。末尾の理屈を答える者がほとんどで、じれったくなって言いつのります。「少なくとも君たちが生まれてからでも十五年、毎日毎日、朝晩のご飯の用意をお母さんはしてこられたんだよ。外食のぶんを差し引いたとしても、気の遠くなるほどの回数、くり返しくり返しお母さんはご飯をつくってこられたんだよ。そんな面倒なこと誰がしますか。何でするんですか、誰のためにするんですか」と。ようやく中学生たちの鉛筆が「幾たりかの膝や手」を黒く囲むようになります。
「その人のためになら自分の生涯を犠牲にしてもよいというほどに、誰かを愛した経験のまた持てない君たちですが、」と前置して、君たちもまたそのように生きるのだ、人はみなそのために生きていくのだ、そして今の君たちにも「幾たりかのあたたかい膝や手」が居るのだ、と強引にまとめます。受験を前にした中学三年生たちは、しんとして顔を伏せます。熱くなった私の胸に、彼らの人間としての合格が、確かな実感としてひしひしと拡がっていきます。
シゲが病院へ薬をもらいに行っているので、凛ちゃんと二人お留守番です。何ヶ月か前、そのシゲに抱かれた凛太郎です。何だか、別の犬みたいでしょ。
