今日は朝から私と凛太郎だけです。家で小物を洗濯をして、ドライクリーニングに毛布を洗いに行きました。待ち時間で、凛太郎のお散歩をいっぱいしました。一時間は歩いたと思います。帰宅すると、凛太郎は早速バタンキューです。その間にこれを書いています。
「自分が嫌だということがよくある。最近だんだんと自分を批判するようになってきた。人を平気で傷つけ、馬鹿にしている。楽な方へと進み、決して自分の利益にならないことはしない。そんな考えや行動の自分の心の中を、覗き込むようにしてみるが分からない。けじめもなし、Hな意識は一人前にあって、鞭で叩かれながら動く牛みたいな自分。自分が分かれば分かるほど、自分が情けなくなる。どうして俺はこんなになったのか? 自分も他人も短所だけが見えて長所なんて目に入らない。果たして自分に長所なんてあるのかと考えてしまう時もある。反省だけならサルでも出来ると言うが、いかにも反省だけなら何度もしてきた。けれど結果はいつもサルと同じ。己の欲望のままに生きているような自分を、どうすればいいのか分からない。
これからも僕は僕なりに生きていくのだが、一体どこで、自分の欠点の解決法を見つけられるのか、不安で仕方ない。これだけは自分の力で何とかしなければならないことであって、あまり他人の助けは借りないでおこうと思う。またいつか、こういうことを考えるのだろうが、その時はその時で自分を見つめ直せばいい。今は一生懸命『自分』を生きてゆくのがいちばんだと思う。」
角直◯君 (草津校中二)は、人のいい素直な少年である。きれいな瞳で体じゅうを耳にして聞く。普段は笑顔の絶えない明るい彼だからこそ、こんなにも真剣に自分の内側を見つめようとする。そして、そのことを作文に連綿と綴る。門亜◯子さん(草津校中二)は、また違った角度から自分を見つめている。
「……前に先生は、私と同じような(講師への注文ー作者注)作文のことを私たちに意見したけど、例えそれが(講師の批判ばかりでー作者注)自分についてちっとも語れていなかったとしても、もう少し温かい目でその人を見つめて欲しかったと思う。なぜならその人は、自分をじっくりと見つめられないほど興奮して、不満をそのままぶちまけけたと思うからだ。だから先生は『自分というものをちっとも語れていません』とか、『人に向けた指をそのまま自分にもあてなければいけません』で終わらずに、もう一歩踏み込んで考えなければならないのではないかと思う。
確かに作文は自分を語るものだろう。しかしまた、自分の言いたいことを書くものでもあるのだから、例え自分が語れていなくても、『作文になっていない』なんてことはないと思う。こうして書いているのは、私がその人と同じ立場にいたということで同情しているだけかもしれない。本当は先生のとらえ方のほうが普通なのだろう。けれど、『作文になっていない』は冷たいと思う。
先生ははっきりとものを言うし、自説を曲げずにそれに沿った考え方で私たちに話すけど、それはそれでいいのだけれど、自分の言動がその人や私たちにどういう影響を与えるのかを、もう少し考えたほうがいいと思う。もちろん、私も人のことは言えないが……。」
よく書いてくれた。真っ直ぐに正しい感性が伝わってくる。間違っていたとか、正しかったとかそんな議論をするつもりはない。「もう少し温かい目で……」その通りなのだ。異議を提議してくれるのは、門さんが先生にそんな先生であってほしいという、やさしい心配りなのだと思う。またしても、慙愧の思い。優しいしっぺ返し。ありがとう門さん。
凛太郎が襲いかかってきて、私の脚に噛みついた……のではありません。これは遊んでいるのです。数少ない団欒の時間なのです。この頃の少年や少女たちも同じでした。わたしにかみついてる訳ではなく、しっかりやれよとエールをおくってくれているのです。ありがとう、ほんとうにありがとう。君たちよ、そして凛太郎よ。
