今日はお休みです。家に居ると、とにかく至る所で、寸暇を惜しんで、べたー・ぐたーと寝ているのは凛太郎です。ぼちぼち半年になります。家の中で飼うのも思案中です。昨日はとにかく、滅茶苦茶にしていましたから。
四、五年前、読書作文委員会の仕事に就き、いろんなイベントのお手伝いをさせていただき、次々と塾全体に関わる仕事に忙殺されるようになって、私は、自分がいちばん大切にしていたものを忘れてしまっていたようだ。毎月の君たちの作文を心待ちにし、瞼を熱くして添削に努め、心こめて講評を綴った、あの心温まる日々を喪失してしまっていた私ではなかったか、いま、じっと思い返している。心の在り方こそが具現となって表れる。それも私の持論であったはずだ。たとえどんなに多忙であろうと、二百数十人の作文は短時日で添削・講評しなければならないとしても、私の心が君たちの方にしっかり向いていれば、あの愛おしい日々を喪失する恐れはないのだ。私にとって作文は「核」であり、「礎」であり、すべてであったはずなのだ。君たちの心の成長、人間的な成長こそが、君たちの学力も合格も保証していく。それも私の口癖だった。そして、作文はそのための最良のフォーマットなのだと、私は迷いもなく信じているはずなのだ。
弁当の時間に、ぱっと後ろを向くと、みんな二人、三人とグループで食べている。
この何年間か、ずっと一人で食ってたけど、いま気づいたさびしさ。
一年って三百六十五日もある。
でも、前を向いて、姿勢を直し、微笑んでふたを閉じるボクが、なぜだか、やっぱりあるんだ。
何でも、きれいきれいで、終わらせたいけど、やっぱりムリみたいだ。
いろんな人を助けてあげたいのは、やまやまだけど、すぐに他人を責めてしまう。
自分を叱るというよりは、助けてあげたいんだ。
最近、孤独を感じることがある。
女友達から、
「悩みあったら聞いてあげるで。」
って、やさしい言葉かけられて、ボクの内容のない笑みを見て、すっかり呆れ返ってしまった彼女……
オレがいちびりの最盛期は、小学校五年生。
一部の人はこれがどうもらしくってイジメられた。
でも、泣かなかった。泣けなかった。
その時、空しさなんか 分かんなかったから……
でも、先生が本気になってくれて
いま思うと、なんだか とっても嬉しいんだ。
それからの俺、べつに変わったことなんてなかった。
俺のこと、本気になってくれる奴なんていなかったし、ちょっとの間に 悲しいかなってことあったけど、
それも理由のない涙で、泣いちゃいけないって。
自分を出せないなんて、感じたことある?
つらい、とっても苦しい。でも、見えない部分見えてきたし……
ようやく現実近づいたけど、現実の厳しさに堪えていける強さが大人だって言うんなら、
オレはまだまだガキンチョだな。
今は、母さん喜ばすこと考えてる。相変わらずやんないんだけど。
とっても助けてやりたい 自分があるから、抑えきれない。
いま思うと、友達はとっても大事。
何でもない知り合いの、何でもない場面が、次々と 浮かんできて、話題のない自分を嫌っている。
でも、やっぱり人だから、ふつうの人だから、求めるものはやっぱり、友達なんだね。
潔癖じゃないからって、自分を責めることなんてない。
他人に嫌われてるからって、自分を抑えることなんてない。
中途半端だからって、これまでの生き方変えるの?
それじゃだめだよ。 生きてる自分が可哀相だよ。
それに、それ以上に、まわりの人たちが、悲しんでくれてるかもしれないよ。
いろんなことがあるさ。道がきまったわけじゃない。
自分で求めるのは道だけど、自分で決められない、先の見えないのもまた道さ。
さあ、前を向いて、もう一度 歩こう。
私がもう一度原点に戻ること。何よりも作文を大切にするということが、誰よりも君たちを大事にするということなのだ。逆に私が「君の心の中に入ってもいいかい」と尋ねずにおれない。この詩の作者の中三生も、詩の表題に「再出発」(たびだち)と書き添えてくれた。詩の体裁をとりながら、自分の内側をこうして綴り始めてくれた彼に、私は全力で向き合いたい。二人同行の君たちと私。幼い菩薩のために私は、いま己が身を捨てた修行僧になれるだろうか。いや、一段高い観覧席をきっぱりと拒否した、共にコートに立つコーチに戻れるだろうか。
不惑の頃であったでしょうか。身に纏いついてくる様々な役や職に、疑問を感じはじめた私でした。塾講師としての私が下降線を辿り始めた、慙愧の日々が蘇ってきます。ま、それはさておいて、こうして平穏な日々を迎えると、いよいよ、凛太郎が羨ましくなります。いいなぁ、こんなふうに生きたいなぁと、涙がこぼれそうになります。
