大きなケージが届きました。組み立ててみてびっくり。今までの4倍はあります。二日かけて、内側や周辺を整備して、凛太郎の新しいお家が完成です。とにかく広いので、凛太郎も気持良さそうです。狭い我が家の和室ですので、我々がケージに入れられているようです。
「気づくこと」とはつまり、「悟り」であり、思い込みの払拭であり、数学で言う「ひらめき」である。ドイツの教育学者ボルノーの説を借りれば、エデュケーションではなくエルツィーイング、すなわち陶冶ではなく実存。出会いや危機や覚醒という、自己体験こそ重要なのだということになる。前掲の作文には机の上のことは一切出てこない。すべてが筆者自身の自ずからなる体験の中の出来事である。学校や学習塾で教わったことは何も書かれていない。彼は学校で、彼だけの教育を受けている。自分にしかできない受け止め方で陶冶を実存に転化しているのだと思う。
「このあいだ、ちょっと聞いた話がある。学校の授業中に半分寝息をたてながら拝聴していたこともあって、少々間違っているかもしれないが、Aさんという人が京大進学率の高いごっつええ私立高校と、何や知らんけど公立高校と二つ受かった。そこで、どっちの高校へ行こうかと迷ったとき、たいがいの人はいい方(つまり前者)を選ぶ。Aさんの担任の先生も、将来のことを考えて私立の方へ行きなさいと勧めた。それでAさんは、そこからうまく京大へ行って、いい就職口に就いて、温和で安穏な後世を過ごしたと言う。
机にくたーと顔をくっつけながら、『そんなうまい話があったらええなぁ。』っていうような顔でみんな聞いていた。それから先生は、おしまいに、『ええか、人生二つ道があったら、苦しい方選びなさい。』と付け加えた。
苦しい? 僕はちょっと疑問に思った。何それ。苦しいんやったら行かへんかったらええやん。嫌やのに何でやらなあきまへんねん。何でや。こない言うたら、人生逃げてばっかりではあかんといつも怒るけど、あれは一体何やねん。逃げても自分で選んだ道を後悔するほどまだ日本人は廃れてなんかいません。薄汚れた日ノ本の御国で、空き缶道端にポイ捨てする大人どもがどんなに汚くても、子どもらがきれいやから僕はこの国におりましたんや。たとえ道が苦しくても後で楽しい事があるではいかんのよ。この道が好きやから、これからどんな苦しなっても頑張るぞっていかななりませんねん。後の楽しい事なんかあてにしてたら、いつまで経っても楽しい嬉しい事なんか絶対来ません。大人がそんなこと言うから、子どもは本気で好きな道を行けなくなったんです。表だけ堅い日本人ばっかり出来上がってきたんです。後で後悔する情けない人間が出来たんです。
初めから好きな道を行った奴が、今どれだけ辛い思いをしているでしょう。おまえは格好悪いとこばっかり見せやがってって、みんなに意地悪されているかも知れません。でも、彼らこそ、『おまえはあほか。』なんて言うと、『うん、俺はあほやねん、ごめんな。』と哀しく笑うのです。
だから先生、彼らが『俺はあほやなぁ。』って言ったときは、笑って『みんなあほやなぁ。』って言ってやってください。」
今回の末尾の記述には、何かしら胸に迫るようなものがあります。あのとき、中学生たちは、こんなにも哀感にみちた文章を書いてくれていたんだなぁと愛おしくなります。この作文の書き手は、さぶちゃんと言います。あと一回、彼の作文が続きます。凛太郎もそんなとこでべたーと寝てないで、心して読んでごらんよ。あれ、ピクピクと耳を動かしました。もしかして、エスパー犬? 凛太郎って。
