今日でお休みもおしまいです。一日早く、母のお墓参りに行きました。大谷さんはまだ正月気分の大勢の人でした。凛太郎は、元気いっぱいに坂道を駆け上がって、母の墓の前で、小さな両の手を合わせてきました。


凛冽の汗
君たちの作文から シリーズ4 ②

 「『A君て、すごくきたないねえ。』という噂が立ち始めました。本当にそうだったのかどうか、僕には分かりませんでしたが、みんながA君を避けるので、僕もついついA君を避けてしまいました。僕たちはだんだん日がたつにつれて、前よりもひどくA君を避けるようになりました。僕はそんなとき、『もう、そんなこと、やめといたれや。』と言うことができませんでした。他にもそんなことを思っていた人がいたかもしれませんが、もしA君をかばってあげれば、今度は自分がいじめられるかもしれないと思っていたのかもしれません。しかし、いくら心の中で思っていても、実際に行動しなければ、何の意味もなかったと思います。そして、直接はA君をいじめていなくても、こんなこと僕は知らん、一切関係ないと思っている人も、いじめているのとあまり変わりがなかったと思います。」

 勝田◯介君の心の中にも、「大蛇」がいたらしい。恐怖という名の大蛇が自分に卑怯な態度を取らせてしまうが、その「大蛇」を、自分の中の「弱虫」を退治しないと、期せずして人を傷つけてしまうのだと篤義が教えてくれる。篤義とは、小説の中の主人公である。

 『四万十川ーあつよしの夏』(笹山久三・講談社文庫)という小説がある。先生が十三歳のとき、つまり中学一年のときに魅せられた『しろばんば』以来の秀作だと思う。三十年近く経って、同じような魅力を持った本に出会えるとは思わなかった。ともあれ、小学校四年生の篤義を主人公に、さまざまな出来事と清冽な山村の風光が織りなすひと夏の物語は、篤義の心の成長の記録でもある。「いじめ」もまた、重要なモチーフとして描かれていて、そこに篤義の中の「大蛇」が登場する。貧しい家庭の少女、千代子を庇おうと、タチの悪い級友と喧嘩する篤義。無口で繊細な、臆病ですらあった篤義が、自分の中の卑怯な心である「大蛇」を退治していく過程を、笹山氏はみごとに綴り上げている。事の真相を見極めて篤義にやさしく対した担任の先生に、篤義が書いた手紙がある。その一節を繋いでみる。

 ……「はじめ、ちよこがとったと言われたとき、とめりゃよかったがです。けんどこわかったがです。ぼくはじっとしていました。」ー「あのとき、ぼくは『オラがとった』言いました。それがちよこをきずつけたが思います。」ー「じぶんがとった言うたら、ケンカせんでもやめてもらえると思ったがす。ケンカするががこわかったです。…じゃけん、じぶんのせいにしたがです。こすいかんがえじゃ思います。けんど先生、ぼくは、どうしても、ちよこたすけたかったがです。よわむしのかんがえでたすけたけん、あんなことになったがおもいます。」ー「先生。うばん谷の大じゃの話、しってるか。ぼくは見たことがあります。ずっと小さいときです。ぼくは、そのとき足がうごかんほどこわかったがです。こないだまで、きょうしつの中にもおったがです。」ー「もうきょうしつには出てこんが思います。先生。ぼくは、こんどのことで、よわむししよったら、そのことで人をきずつけることがあるががわかりました。もうよわむしはやりません。」

 いま先生は、無性に篤義と会いたい。こんなにも清冽な心の、こんなにもやさしい少年に会えたら……あと半日の辛抱である。明日、夕刻になれば、何十人もの篤義に会える。


 もちろん私が凛太郎の両手を持って、マンマンちゃん・アン、とさせたわけですが、凛太郎はそのとき神妙に頭を垂れて、目を閉じていました。と言えば嘘っぽく聞こえるでしょうか。凛太郎もまた、清冽な心の、腕白な柴犬なのです。