今日は天皇誕生日です。昔の私なら、今日はアホタレの誕生日です、なんて言ってたでしょうね。今は丸くなってそんな口はききません。あ、そう言えば、凛太郎の昔と今と、写真で見てもらいましょうか。まずは、これ。
落書Ⅲ
一時間もすれば あきてしまう 自然を 賛美し 心もとなく 逃げこむように
居酒屋ののれんを くぐったりもする
涙は乾ききっているはずなのに わかりきった 映画に泣いたりして
恥ずかしいのか なつかしいのか 恥ずかしいのか なつかしいのか
受話器の向こうの人を愚弄するような笑い声、ガムや紙屑を床や机の中へ捨てる生徒、机がどう歪んでいようと平気で「勉強」だけをする者、弱い者と見るやいじめにかかる卑劣きわまりない者、それでいてチャイムが鳴ると即「勉強」を始められる幼い偽善者、等々…。彼等のみ責められまい。むしろその親たちこそ指弾されるべきであろう。そして他ならぬ先生も含めた社会こそ、厳しく糾弾されなければならない。
乃木は父兄懇談会において、次のような演説をした。大要を紹介しよう。
一、…躾け方の良し悪しは家庭の責任で、子供の行状の善悪によって、大抵その家庭の良・不良が推測される
ものである。
二、礼儀作法というものは、子供のときからよく教えておかなければならない。礼は酒掃応対に始まるといい、小
さいときから掃除をさせたり、家事を手伝わせたりして、自然に礼儀作法を教えることが大切である。しかるに
近頃の子供たちは飯の食いざまも知らぬほどで苦々しい限りである。これにはぜひとも家庭の注意が必要で
ある。
三、子供は質素に育てて贅沢をさせぬがよい。しかしそれも分相応ということを忘れてはならぬ。無闇に金銭を
有難がらせて貯蓄心を奨励するなどすることは、学習院ではさほど必要がなかろう。玩具一つ他人にやること
もできないような鄙吝な子供は、あまりほめたものではない。
おしまいの項目は多少問題があるが、むしろ現代日本のバブル経済とやらへの反省として読んでほしい。ともあれ、ようやく憤りがおさまってきたようだ。あの無礼な電話の主たちと、同窓会総会当日は、穏やかに、笑顔で語れそうな気がする。やはりみんな、大切な教え子たち……
野ざらしの駐車場
腰をおろした 切り株 小首かしげた 野うさぎ 久しぶりです あー ふるさと
砂ぼこり 砂ぼこり 野ざらしの駐車場 これも仕方のないことでしょうか
花櫛さした 少女を 追いかけていた あの日よ 久しぶりです あー ふるさと
砂ぼこり 砂ぼこり 野ざらしの駐車場 これが利口というものでしょうか
行き場なくして 風まで 吹き上げている 空まで 久しぶりです あー ふるさと
砂ぼこり 砂ぼこり 野ざらしの駐車場 だれを責めればいいものでしょうか
人を責めれば いつでも 自分を恥じるばかりで 季節なくした あー ふるさと
砂ぼこり 心まで 野ざらしの駐車場 もどるすべさえ ないのでしょうか
一人ひとりと話せば 皆んな いいこと言うのに すべてなくした あー ふるさと
砂ぼこり 心まで 野ざらしの駐車場 救いようなどないものでしょうか
※この歌と前掲の「落書」Ⅰ~Ⅲは、小椋 佳のアルバム「残された憧憬」よりの引用です。
また、乃木夫妻の記事は、渡辺淳一『静寂の声』上・下(文春文庫)より引用しました。
いかがですか。五ヶ月でこうなりました。五年後はどうなっているでしょうか。前回、前々回の写真のように、怪獣凛太郎ばかりになっていないことを願うばかりです。
