今日、血統書が届きました。それによると凛太郎は福岡県大牟田市の生まれで、正確な誕生日は7月23日です。シゲが佐世保市ですので、シゲの方言はきっと、凛太郎には刷り込み済みなのではないかと思います。
「拝啓、春暖の候、児玉先生には、お変りなくお過ごしのことと存じます。僕も元気にやっておりますのでご安心ください。
さて、今日、三月に書いた『未来への手紙』が届きました。本当にありがとうございました。自分の書いた手紙ではありますが、封を切るとき、『なんだ、あれか。』と思いながら、読み返すうちにジーンとしたものがこみ上げて来て、自然に涙がポロッと落ちたかと思うと、まるでスクリーンに映すかのように鮮やかに、あの頃の自分が瞼の裏に写るのです。」
昨年六月、仙台からの第一信は、こんなふうに書き始められていた。宏知は、長岡校小学部に小五の七月から入園している。中学入試で涙をのみ、中一特進Aの生徒として私と出会った。それから二年間、彼はクラスの良心を代表する生徒であった。調べてみると、入園した小五のときからずっと、彼の作文が作文集に毎号掲載されている。小学生の頃の「努力」という作文に象徴される彼は、いわゆる心身ともに優等生である。それが中学生になると、さまざまに思い迷うようになり、周囲の友や仲間を強く意識するようになる。
「僕にとって、大きな岐路は三つありました。一つ目は、五年生の中頃ここにに入園したこと。二つ目は、洛星中学に落ちたこと、そして最後は、仙台へ帰ったこと(高校入試を断念したこと)です。
いつだったか、『真の友達と表面の友達』という作文を書きましたね。そして、結論として、『人間を信じること』というふうにしめくくりました。それから数ヶ月、怒りに拳を握りしめ、心こめて書いたその作文を無駄にしたくない、綺麗事にはすまいと思いながら、真の友達をつくろうと努力しました。だけど、一番信頼していた人に『お前が居なくなったら、みんな一番ずつ上がるしええなあ。』と言われたこともありました。
几帳面でひたむきで融通がきかず、潔癖で清廉であろうとするから、人の不正や卑劣さが許せない。おのずから、人とのかかわりようが不器用になる。この塾の中学生に多いそんな少年、少なくとも私には愛すべき凛とした少年のうちの彼もまた一人であった。
「ここは、僕にとって救世主でした。学校とは違った何か温かいものを先生方や友達に感じました。ここは、僕のすべてだったと言っても過言ではないでしょう。
けれどいつからか、冷たい何かを感じるようになったのです。気のせいだったのでしょうか。友情とかいう抽象的なものよりも、模擬テストのようなもののほうが大事にされていたと思うのです。『有名私立高校受験』という過酷なマラソンレースを棄権したから、第三者づらをしてそんなことが言えるのかもしれません。自分がこれからこの地方都市でどうなっていくのかという不安のようなものが、そういう幻覚を惹き起こしたのかもしれません。もし、そうだとしたら、僕の心の甘えです。弱虫で臆病者の僕ですから。きっと僕の偏見です。みんなやさしい心を持った、世界一すばらしいクラスでしたから。
こんな格好のいいことばかり言っていますが、やっぱり怖くて、悔しいのです。自分はおちぶれ、みんなはどんどん力をつけていくのが。そして、『お前が居なくなったら……』という言葉を、もし彼が本気で言ったのなら……。怒りと不安がたちこめます。『バカやろう。』と叫びたくなるとき、しかし、送別会に来てくれたみんなの笑顔が、脳裏を過ぎりました。みんなで歌いましたよね、『かたい絆に想いをよせて、語り尽くせぬ青春の日々、時には傷つき、時には喜び、肩を叩き合ったあの日……』」
こんな彼がどうなっていくのか、次回を楽しみにしてください。九州生まれの凛太郎も、もう寝てしまいました。師走の夜が森々と更けていきます。
