今日は母の命日と日曜日が重なったので、シゲと凛太郎と私で墓参りに行きました。大谷さんへは凛太郎は2回目です。大勢の観光客の中を、凛太郎を連れたシゲが行く図は、何だか浮いていました。ともあれ、亡き母も喜んでくれているでしょう。
先日、長岡校から私立R高校へ入学した石川康生君からエアメールが届いた。夏休み前から、某支援組織の斡旋で、今アメリカ西海岸に留学しているのだという。今年の三月までというから、ほぼ十ヶ月に近いホーム・ステイということになる。長岡校特進のときに一年間向き合っただけの彼だが、小柄で童顔ながら、なかなかの硬派で、作文では身辺の不正や、社会の汚濁を指弾してやまなかった。けれど、先生には打ち解けてくれて、本来のやさしさや、繊細さを垣間見せてくれた彼であったと思う。
「先生、こちらのある州は、先日、未成年であっても子どもの犯した罪や、いたずらが高じて法を犯したものは、親が償わねばならないという法律が州議会を通過したんですよ。公共物の破損や落書きは、見つかると親が五万ドル(六百五十万円)払わなければなりません。先週その親が州から起訴されて、ぼくは日本とのあまりの違いに驚きました。」
書き出しの挨拶の後にすぐ、こんなことを書いている彼の手紙に先生も驚いた。その後、何行かに亙って綴ってあることを総合してみると、少なくともアメリカ社会では、子どもに対してとても厳しい。やったことに対して、必ずその責任を取らせる。能力のない場合は親にツケがまわる。その裏返しとして大人たちは、彼等を一個の人間として認め、権利や自由を保障する立場に立つ。未だに「おんなこども」という差別的言辞が市民権を持っている日本とは隔絶の感がある。
「高校入試のとき、ぼくもそのことを感じました。親のエゴみたいなものが、もろに、ぼくにからみついてくるようで、おまえは勉強さえしていればいいのよ、面倒なことはみなお母さんたちが始末するから、勉強がいちばん大事なのよ、みたいな言われ方に反撥を感じながら、親の期待とは無関係なところで、ぼくはぼくなりに勉強していましたが……」
一口に言えばやはり日本の社会は、欧米の何割増しかで、子どもを「子ども扱い」して恥じないようだ。従って、子どもは社会の共有すべきもの、未来への財産という見方よりも、「わたしの可愛い◯◯ちゃん」の域を出ない、自身の私有財産のように思い込んで気づかない母親たちが、日本には多いのも確かなようだ。
中学・高校……人の一生のうちで最も多感なとき。理念の釈然さは小学生のそれより格段に高い。その上で潔癖であり、純粋な彼らである。生涯の中で、その身も心もいちばん清い。凛とした相貌をして、すばらしい早さで成長していこうとする。そんな彼らを、いつまでも小学生の頃と変わらぬ扱いをしていたらどういうことになるか、既に毎日の新聞の三面記事で十分ご承知のはずである。
「中学校で耳にタコができるほど聞かされた義務とか責任ということばが、今ここにいるぼくたちには白々しく響きます。権利や自由をよこせというんじゃないんです。都合が悪くなるとぼくらを子ども扱いする教師、初めっから子ども扱いの母、そんな環境で育ったぼくらに、ほんとの義務や責任の取り方なんて身につくはずがありません。それに、ひょっとすると、教師や親たちの方がそんな傾向はもっとひどいと思います。」
ガンと一発、彼に頭をどやしつけられつつも、先生はどこか小気味よい思いであった。康生君のような少年がもっと多くなればと、胸が高鳴るほどだったのだ。
私たちは、そろそろ足元をみつめるべきではないだろうか。器ばかり立派な民主主義、蝋細工の中身の民主主義を、目をそむけずに直視すべきではなかろうか。市民社会と氏族社会、その来歴の根底的ちがいもさることながら、そんな理屈ではなく、まず日常の台所から、親子一緒に見つめ直してみるべきなのだと思う。
確かにこれは二十年以上も前の記事です。が、しかし、事情は今日も少しも変わっていませんね。人は、日本の社会がめまぐるしく進歩し、変貌しているように言いますが、実態は何も変わっていないのです。ね、そうですよね、凛太郎。おまえの何代も前の曾祖父さんの頃から、おまえたちの飼い主は、なーんにも変わっちゃいないんですよ。私も含めて愚かな日本人を、凛太郎はその唸り声で、笑いとばしているのかもしれません。
