凛太郎は変わりました。大人というか、既に成犬の風貌になりました。まだ四か月にならないのですが、自分をしっかり主張し(唸りや動作で)、私たちに媚びることなく、さっさと自分のしたいことをするようになりました。
それから、秀◯は変わった。涙ぐみながら懸命に笑おうとするような、そんな作文を書くようになった。そういう笑顔で何でも私に打ち明けてくれる作文を、卒園まで欠かさず提出した。やがて、模試のベスト50に時々秀◯の名前をみつけるようになり、或る日、私は真剣に彼と話し合い、彼の洛星合格を誓い合った。秀◯が二年生の晩秋だった。
中三の一月、受験を間近に控えた頃、秀◯の作文は後輩への思いでいっぱいだった。
「思えば三年前、共に歩き出した足取りを、おぼろげながらも思い出すことができます。今、その三年前に書いた文字を何かの拍子にみつけたら、胸がしめつけられるような気がするにちがいありません。幼かった自分の掌が思いうかびます。あのわがもの顔の自分の輪郭の幼さを思うと、しかし、とても力が湧いてくるんです。とんでもない言葉を吐き、人を幾人傷つけたか。失った多くのもの。たくさんの人に謝らねばならないと思います。こわれかけたぼくを、ぼくの仲間をかばってくれた人、知らざるを知らずとなすように涙流してくれた人たちに恩返しをしなければならないのです。」
こんな謙虚なことばで始まる長文の手紙が私のもとへ届いたのは、まさに入試直前の二月初旬だった。秀◯は自らを子路に喩え、私を孔子に比喩して、中島敦の「弟子」の一節を引用していた。私は面映い思いで読み進める。
「自らの無知を知らず、高慢なままでは、いっこうに先は見えもしないでしょう。自らの無知であることを知り、それを愛すべき人の前で恥じ、心から悲しむこと。そんなことは未熟な自分にはできないでしょうが、それに近い行いはきっとできると信じているんです。」
秀◯はこの手紙を後輩のために書いている。私の手に託せば、後輩に伝わるものと信じて書いていた。特進クラスの仲間を描写する秀◯の瞼には、涙がにじんでいたに違いない。
「毎月かわる号令係のやさしさを見てください。毎月一位を取りながら、全く高慢になどならない前ちゃんを見てください。いやなことひとつ言わず、ニコニコみんなを見守ってくれる光洋くんの温かさを感じてください。逆境から正しいものを導き、涙拭って笑う力強い後ろ姿の杉ちゃんを知ってください。やさしい上にとても厳しい『おやじさん』という名の石野を尊んでください。明るさの中のあの紀生のさびしさが、苦しさが分かるでしょうか。そして先生の『君たちへ』のプリントを握りしめ、眼鏡をはずして、しぎりに眼をこすっていたあの梅只のすばらしさ…。」
二月十六日、洛星高校合格発表の日、私は通用門の東にあるうどん屋の軒下で、散らつき始めた粉雪を避けて、迫り来る瞬間を待っていた。様々なことが、ひとつひとつの情景が、脳裏を去来していた。幼い秀◯の顔、雨の中の「すみません……」という秀◯の声、ノート点検をやった喫茶店のコーヒーの味、紀生や石野も誘って泳ぎに行った伏見のプールの広々とした人工芝、そして毎週の授業でのみんなの顔、顔、顔。長かったな、そう思ってふと顔を上げると、大勢の人が洛星高校の方へ歩いていく。ああ、いよいよなんだと私も通用門を入った。秀◯はお母さんと二人で来ていた。発表のボードが二階の窓から降ろされる。歓声が湧き、溜息が洩れる。振り向くと秀◯が目にいっぱい涙を溜めている。無言だった。近づいていく私。「先生、おかげさまで……」とお母さんの涙声。そして秀◯は、私の腕の中へ倒れ込んできた。すべてがスローモーションフィルムのような、秀◯の洛星高校合格の瞬間であった。
公立中学に勤めていたとき、陸上部の顧問をしていました。国立競技場の階段席で、負けて慟哭する生徒の肩を抱いて共に泣いたことがありました。それ以来の、激情だったでしょうか。そのときの秀〇の身体の温もりが今、小さな凛太郎の温もりとつながっているようで、うれしいのです。やがて、凛太郎も遠く離れていくことでしょう。しかし、今は、確かに私のこの手の中で、生きているのです。存在してくれているのです。
