日々は穏やかに過ぎていきますが、凛太郎はもうハチャメチャです。家の中のあらゆるものを、親の仇とばかりに噛みまくっています。バタバタバタと走り廻り、私たちにも遊んでほしくて噛み魔になります。猛獣を飼っているようで、癒しと同時に少しも目が離せません。
僕が高校三年生になった年、アメリカが全面的に介入したベトナム戦争は、どうにもならないほどに泥沼化していた。ベトナム人の血や髪の毛のこびりついた米軍のヘリコプターを、伊丹の新明和工業という会社が修理していた。その年のはじめ、僕は、その新明和工業への抗議デモに参加した。そこで僕は、機動隊というものを初めて見た。不気味だった。そして、直感的に憎悪した。そこから僕は、まるですべり落ちるようにして「政治少年」になっていった。
漱石の個人主義からニーチェやキルケゴールの実存哲学へ、そしてカント、ヘーゲル。それがどこへ辿り着いていくか、当時の日本社会を知っている人なら一目瞭然であろう。僕は小脇に哲学書を抱えて街を歩くようになり、「思想」や「主義」ということばに酔い始める。朝、僕は毎週一度、遅刻した。他の公立高校の校門でビラを配っていたのだ。昼、校舎の屋上で集まった。いつも非行少年たちと一緒だった。そして放課後、阿倍野(天王寺)の喫茶店に入り浸って、「革命」を論じ、反乱を、決起を計画した。
それが僕たちの時代であり、良心であった。感受性豊かな、心やさしい少年たちが髪ふり乱して、抑圧され、差別されている人々のために行動した。動かないのは一握りのエゴイストか、無気力、怠惰な者たちだけであった。
秋、僕は御堂筋デモに参加し、梅田の大阪駅コンコースで機動隊一個小隊に暴行された。頭から血を流した自分を公衆便所の鏡で見て、僕は憤怒の人となった。めくるめく日々が始まった。母と祖母だけの家を捨てるようにして、僕はひとかどの闘士になっていった。もちろん大学入試など眼中になかった。他者のために、大きなもののために、熱い血を滾らせる自分が居た。ヒロイズムに陶酔している自分には気づいてはいなかった。
一方で僕は、孤独な時間を愛した。天王寺の地下鉄のコインロッカーにカバンや制服を押し込んで、土曜日の午後、京都や奈良の古寺を彷徨した。大谷本廟から清水寺へ至る墓地の中の坂道が、僕は好きだった。五条バイパスがすぐそばにあるのに、そこは静かだった。糠雨の降る夕暮れどき、風景は一幅の墨絵になった。三年坂から二年坂、高台寺を経て円山公園へ出る。二十年前のその道は、僕の小心な独善をあおる人物もいなかった。
古いものが好きだった。高校生でありながら、骨董品の店先をあれこれと物色した。小遣いで買えそうもないものはためつすがめつ、いつまでも手にとって眺めたりした。もう動かない柱時計と、古九谷らしい十五センチほどの小さな壺が、今でも僕の手元に残っている。
和辻哲郎の『古寺巡礼』や、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』を手に、奈良の寺々を巡ったりもした。同行者はそれらの著作であり、僕はいつも独りで歩いた。二月堂から正倉院へ抜ける土塀に挟まれた坂道がお気に入りだったし、高畑の道も好きだった。以前紹介した「明宏君」によく似た僕だったわけだ。
めくるめく日々を送っている凛太郎も、今は静かに寝ています。凛太郎にもやはり、静と動があるのですね。
