凛太郎は生後3ヶ月を過ぎて、もう中学生くらいの少年になりました。このブログと、丁度テーマが合致してきたようです。まだまだ、幼い中学生ですが、文字通り、凛としてきました。


凛冽の汗

仲間そして親友

 二年十四組に担任は要らないと、どの先生からも言われた。実際ぼくら五人組は、いつも五人で集まって話し合い、五人でクラスの問題を解決し、五人でクラスを経営した。それぞれが個性豊かな、成績も優れた五人だった。ぼくがいちばん劣等生だったろう。国語と英語と体育だけが良くできて、後の教科は惨憺たるものだった。でも、ぼくはこの仲間の中で成長し、強くなっていった。いつだったか、長期欠席のクラスメイトを、五人で家まで行って、出てくるように説得したことがあった。一週間近くも、毎日訪ねて行って、かわるがわる励まして、それでも学校へ出て来てくれなかったクラスメイトのために、ぼくら五人は、泣きながら夜道を戻った。

 その五人のうちの西尾修一という少年が、ぼくと生涯を誓い合う親友となっていく。また高校生になってからの文章を引用する。何かしら酔ったような書きっぷりが、今はむしろ懐かしい気がする。


 西尾へ……実際、キルケゴールとレギーネの恋愛を思うに、君とぼくとはあまりに卑小であった。真摯な対話をしながら、その裏づけとなる君の、そしてぼくの心情は、虚偽が多く慣れ合い的で、盲愛のごとき友情でしかない。しかしぼくは、そのことは敢えて問題にしようとは思わない。何故なら、君とぼくはこのままで充分に理性的だからだ。いや、それもまた虚偽であろうか。

 中学生の頃、我々は討論し合ったじゃないか。あの夕映えの教室の中で。ぐったりとして、熱くなった頭、全身の脱力感。

「友情は大人になったらダメになる。」

長い髪の女の子がそう言ったのを覚えているかい。

「仮にそうだとしたら、ぼくには残された一言しかない。『悲しい』。」

ぼくは、その様に反論めいた言葉を教室の片隅へ吐き捨てた。覚えているだろう、あのいまわしい場面を。

 今、そうなのか?

そんな筈は……ない……、絶対にない。理屈なんてくそくらえだ。君とぼくは、お互いしっかり抱きしめ合える親友じゃないか。そのことの他に何が必要なんだ。思う、君はぼくのためにあるのだと。君が死ねば……恐らくぼくも死ぬだろう。尋ねてみたい。ぼくが君のためにあっていいのだろうか。


 西尾はぼくの習作(小説など)の賛美者となり、ぼくは彼の絵画の天分の理解者となった。ぼくらの対話にはいつも実践があった。即興の詩をつくってみたり、彼のデッサンを批評したり、ギターコードを教え合ったり、ボロディンやドボルザークの曲を感動しながら聴いたりしたものである。こんな関わりは、大学を卒業するまで続いていく。

 今、目を閉じると、やさしげに微笑んでいる彼の顔が浮かぶ。ぼくのギターで一緒に歌った、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」がぼくの全身を包んでいく。


 いいなぁ、と読み返してみて懐かしく思い出します。もう、このような日々は戻らないのですよね。そうなのですよ、凛太郎。ないたり唸ったり、のびのびと生きておくれと、心から思います。