今日はシゲも一緒に久しぶりの祭日でした。もちろん凛太郎も一緒に、近所のショッピングセンターなどへ買い物に行きました。凛太郎は一日いい子で、平和な秋の一日でした。
先生は大阪の町なかで生まれ育った。市立中学に入学したのは昭和三十七年。その頃の日本がどんなふうだったか調べてみてくれれば、これからの先生の話がよくわかってもらえると思う。テレビが初めて登場したが、物好きで経済的に豊かな人が据えつけるくらいで、現在の自家用車より高価なものという感じがあった。収入の割には家族の多かった先生の家には、それから四、五年経たないとテレビを買う余裕はなかった。内向的な性格の先生は、家の中で独り、本ばかり読んでいるような少年になっていった。中学校に入学してすぐに書かされた、「生い立ちの記」という作文がある。一切手を加えずに引用してみる。
生い立ちの記 一年十三組 児玉 隆
株式会社藤永田造船所の附属病院である鶴見橋の藤永田病院に、赤子の声が上がったのは、夏の残暑がまだとても酷しかった、昭和二十五年九月二十一日の夜中の事だった。
母はその会社へ勤め、その間、僕を産んだのだった。僕が生まれた時、母は安月給の会社を幾日も休まなければならなかった。それというのも、父が、母を装飾品にして、自分は、西成の飛田界隈で遊びまわっていたためであった。僕が生まれてからも父は相変わらずで、家を二日も三日も、時には一週間もあけた。
父は小さい頃、勉強も、スポーツもよくでき、大阪市から中学校へ行かせてもらえたほどだったそうだ。母も小学校の頃は、僕とは比較出来ないほどの優等生だったそうだ。その父がこのように遊びまわっているのは、真実に今考えても、情けなく思う。
母と僕が父の実家である「岡本」の家を出て、母の実家である「児玉」の家へ帰ったのが、僕が加賀幼稚園を経て、加賀屋小学校の二年の頃だった。話が余談になるが、僕の小学校一年生の頃の成績といえば、オール上だったそうだ。それが僕の努力不足のため、一年上がるごとに成績は、落ちて行く一方だった。
児玉の家へ帰ってからも、実際に実家には入らず、近所のアパートに、住む事になった。それからは苦しくても、僕と母の二人だけの楽しい日が続いた。楽しい生活は一年足らずで終わった。今度は、僕は何ともないが、母にとっては、気がねを実家にかけての間借りの生活だった。
しかし僕は岡本の家を出てからは、今中学三年の姉もいなくなり、一人っ子であったため、少し甘やかされて育ったようだった。母は僕に悪い所か多くあるように言った。一つは、すぐにあきる。一つは、おませだ。僕が、そんな色々の欠点にもまけず、ぐれもせずに、今日に至ったのは、やっぱり平凡に母のおかげだと思っている。僕が小さい時忘れないことの一つに、よく遠歩きをしたということがある。今でもそうだ。大人になってからも方ぼうへ行ってみたい。また小学校の時では、六年生が、最も有意義に過ごした学年だったと思う。
最後に、僕の一番悪い、人にも言いたくない欠点。それは、母のお金を千円も盗んだ事だ。これは小学校三年の頃だった。僕はこんな、過去の暗い影を早く忘れさりたい気持ちである。僕は将来に大きな夢をもっている。それでいて、僕には努力が不足している。母は努力家だった。努力を得たい。
なんと下手くそな作文ですね。こう、構えて書いているというのが見え見えです。いやな中学生だったようです。凛太郎の輝く瞳に、恥ずかしい思いでいっぱいです。
