凛太郎の悩みは、夢中になっているときに「ウー」と唸ることを、ダマやシゲが理解してくれないことです。ぼくは熱中しているのに、態度が偉そうだと怒るのです。もうちょっと大きくなって、大人になったらやめようと思っているから、長い目で見てほしいです……なんて、凛ちゃんが言ってるようですので、そういうことにしておきましょう。



凛冽の汗

 悩みの相談室を始めるわけではない。君たちの誰をもモルモットになどしたくはない。一緒に考えてみたいのだ。先生もまた中学生、高校生に戻って、君たちの友となり、友として助言したい。ここでは先生も教壇から下りて、君たちよりほんの少し長く、人生をいきているだけのおじさんとして。

 「今だからこそ、僕は両足に体全体の重さをかけ、腕を力いっぱい拡げて、嵐の中へ、一歩一歩、着実に、慎重に進んでいかなければならない。/近頃の僕は大変高慢になってきている。何をするにも、何を頼まれてもそうだ。やはり夏休みの影響だろうか。殊に学校ではうまくいかない。勉強にせよ、友達づき合いにせよ、毎年このシーズンはこうだった。つい友達に言ってはならないことを言ってしまっても、何も気付かない鈍感な自分を思い出す。恥ずかしく、悲しくなる。それが何日か後に怒りの球となって返ってきて、僕自身を苦しめ、そして友達をも傷つけていたことが、今となってようやくわかる。友達には本当に悪いことをしてきた。やさしい目を怒りの目に、この僕が変えてしまっていたのだから。今年は絶対にそんなことにならないように努力し、自分を抑えながら歩くつもりだ。友達の怒りの目は決して見たくない。ずっと優しい目で、心でいて欲しい。/入試前の不安とあせりに苦しんでいる自分を恥ずかしく思う。何のために先生の話を聞いているのかと思うと、ふと、一筋の光が少しずつ導いてくれているような気がして、胸の中が温かくなる。今が一番急な坂道なんだ。少しの炎さえあれば舞い上がる不死鳥のように、凛として誇らしげに、光のもとへ歩んで行かなければ。/「信じること」を忘れずに。」

 いかにも繊細な幸治君の、少し気取った作文だ。でも中三生の彼が、受験を前にいかに苦しんでいるかはわかる。表現はそれぞれ違っても、いま、中三生の作文には、自らの人生への真剣な凝視があり、呻吟と雄叫びが交錯している。大人たちは小学生や中学生を子どもとしか見ようとしない。物事の道理など分からない、単純な思考しか持っていないと思っているようだ。しかし決してそうでないことは、君たちがいちばんよく知っている。

 大人たちより君たちのほうがずっと繊細な感受性を持ち、ずっと複雑な思索に苦しんでいることを、他ならぬ君たち自身が知っている。

 間近に迫った入試という不可避の現実に直面して、殊に中三生の不安と焦燥は想像を絶するものがあろう。中学入試の小六生とは違うのだ。より多くの社会の現実を知り、自立と脱皮に身もだえする君たちだ。君たち以上に不安と焦燥に取り乱すお母さんの干渉を、荒っぽい言葉で拒絶しながらも、十分に感謝の念で受け止めているにちがいない。

 思うにそれは、自立しつつある一個の自我にとって、初めて直面する辛酸であろう。自分の眼、自分の頭脳、自分の感受性が、他者の思惑に左右されず、他ならぬ自らの意志で向き合う初めての試練なのだ。ならば当然、それまでに、あるいは並行して、辛酸を経験して苦労の何たるかを知っている者こそ強靭である。苦労を日常として受けとめられる厳しい意志の主体こそが勝利者たり得る。しかし、すべてが金銭と安逸に流れる現代社会では、辛酸と呼べるほどの苦労など体験すること自体が困難である。せいぜい、失恋の傷心に涙するか、精神をハングリーな状態に仮想するくらいが関の山であろう。しかし、それにしても、君とお母さんがいさかいをしたとき、腹を立てたお母さんの口からとび出す絶叫は不可解ではないか。

「何が不満やの」

「何の不足があるの」

というその言葉は、大人社会の愚かな誤謬を露呈して余りある。


 我が家の場合、君たちにあたるのが凛太郎であり、大人たちに相当するのがダマとシゲですね。とすればこれはもう、凛ちゃんの方に軍配があがります……