夜遅く、例の身体拭きの後、口輪をはずして骨っこをやろうとしたら、シゲの手に噛み付きました。出血です。私は錯乱して本格的に虐待してしまいました。今は静かに反省のポーズですが、先が思いやられます。この憎たらしい顔を見てください。
前回より続いて……
作文も同じことだと思う。書くということを至上命令にして書いた作文が、人の心を打つはずがない。体裁よく書こう、上手に書こうとするあまり、盗作などという、かなしいルール違反を犯したりもする。そうではないのだ。先生は、君たちの作文のモチーフは、常に君自身でなければならないと思う。腹の立つこと、悲しいこと、うれしいこと、さまざまな喜怒哀楽は、誰のものでもない君だけのものなのだ。悲しみ方、喜びよう、みな一人ひとり違っている。君が書かなくて他の誰に書けるだろう。まず書き出しを、「ぼくは」「私は」で始める習慣をやめてみたまえ。君が書く作文は、そのように断らなくとも、全編これ君の思考であり、意志に充ちみちているはずなのだ。
自然のさまざまな風景や、人や物を、美しいと感動する。極端にいえば、その美は君の中にある。美しいと心打たれる君の魂こそ、そのとき何よりも美しいのだ。それだから先生は、声を高くして君たちに言おう。もっともっと、自分の感性に自信を持つべきだと。
悲しいこと、嬉しいこと、「こと」という体言に過ぎないそれら素材自体が重要なのではないのだ。この上なく大切なのは悲しいことに涙し、身をふるわせる君の感受性であり、喜びに躍動する生き生きとした君の魂なのだ。まさに、モチーフは君だ。君の内面こそが、常に「主題」なのだ。
台所の隅で、もう使われなくなって埃をかぶっている古い時代の道具、雑器たち。禁をおかして「たち」と接尾語をつけたくなるほど、彼らはかつて、人の手にしっくりと添い、まるで人体の一部ででもあるかのように、自在に動いて、祖母から母、母から娘へと、女たちの愛と温もりを伝えてきた。
作文もそうでありたい。それがたとえ無機物のことを描く内容であっても、まして出来事を報じる作文であるならば、ぜひとも「にんげん」を描いてほしいのだ。体育祭や文化祭の作文の多くが、スケジュール表であり、スコアブックなのを先生はかなしく思う。笑う顔、怒る声、胸をゆさぶる歓声がある。汗に光る美しい友のことばや心情があるはずだ。いつだって、どこだって、必ずそこにある作文の素材、それは君をも含めた「人間」なのだと、確信を持って先生は言おう。
次回からは、中学生たちの「悩み」を、シリーズで紹介していこうと思います。我が家にも、凛太郎という悩みが、凛太郎という真実があります。これをパソコンに打ち込んでいると、シゲが凛ちゃんを抱いて二階へ上がってきて、凛ちゃんと仲直りしたような口ぶりで、私に凛太郎を抱かせます。凛ちゃんは、ペロペロと私の口の辺りを舐めてくれます。もう、三ヶ月ほど辛抱してみます。凛太郎のオムツが取れるまで。
