今日は、年金の届け出に行ってきました。そのせいで、半日放置されて、凛太郎は拗ねてふて寝。日々大きくなるふてぶてしい態度で、ふて犬凛太郎の出来上がり。



凛冽の汗

 今日は喋りすぎたようだ。ごめんよ。仏と向き合うとき、明宏は独りなんだね。わかっているのにルールを破ってしまった。どんなに明宏が身近になっても、このルールは守らなければ。

 法起寺がよかった。やさしい感じの木立があって、池があって、その向こうに仰ぎ見なくとも視界に納まるつつましい塔があって、すべてが何かしらやさしかった。煙る霧雨のせいでもあったろうか、先生はそう感じた。ここならじっと座っていられる。秋篠寺でもそうだったが、中心になる健気な風情の建物を、穏やかに腰かけて眺められる絶好の場所に、東屋ふうの休憩所がしつらえてあったのにも心に添う思いがして、先生はとにかく、帰りぎわ、自ずから深々と寺の人に礼をしたように覚えている。いかめしさも何もない小さな門を出て、広がる水田を前に、さて法輪寺はどっちだろうと、明宏の顔を見たときの清々しい気持ちが今でも残っている。

 今日は篠つく雨で、かえってよかった。雨のヴェールに包まれて、畑中の道を行く。会う人もみな、やさしげな人に思えた。それで先生は心が躁の状態になっていて、適度な人出の法隆寺でそれがさらに高められて、少々はしゃいでしまった。お喋りになったのはそのせいだったようだ。

 法隆寺の印象は、これまでとはまるで違った。埃っぽく、白々とした記憶が、今日はすっかり塗り替えられてしまった。西円堂の印象がそうさせたのだと思う。忘れられたようにそこだけひっそりとして、番人の老婆はこちらを見もせず、俯いてしきりに何かを書いていた。小ぶりで形の良い十一面観音(?)を堂の暗がりに見つけて、惜しいなとやさしい思いになったとき、足元にすり寄ってきた首輪のないさびしげな犬、しかも足先にひどい怪我をしていた彼が、先生の心をさらにやさしげなものにしてくれた。小さな頭を撫でて首を抱いた先生を、明宏は少し驚いたように見ていたけれど、先生、犬は大好きなんだよ。そこまでだったかな、今日の良心は。やがて小旗を立てた観光バスの一団が、こちらに近づいてきた。

 どこへ行っても、人が多いと先生はすぐ不機嫌になる。確かに気にしすぎる。殊に教室で、一人ひとりの思いを気にしすぎて、結局自分をがんじがらめにし、何もできなくなる。言うべきことも言えなくなる。市井から遊離して生きられる人はそれでいい。が、そうでない場合は、気をつかいすぎることで却って互いの思いを気まずくしてしまう。相手が明宏であれば、明宏のような少年であれば、うまく噛み合うのだ。いや、先生が向き合っている生徒たちは、本質的にはみな明宏なのだ。先生が彼らの中から、一人でも多くの明宏を引き出さなければならないのだ。波長の合う人間とのみかかわっていけるわけではない。生きていくということは、もっと厳しいのだと思う。明宏は明宏であり続けよ。先生もまた先生であり続けようと思う。やさしい理想に生き、そして滅ぼされねばならなかった聖徳太子とその一族の寺で、そんなことを考えていたよ。


 二十年以上も前のこの記録にも、犬が出てきます。そう言えばたしかこの頃、チビという柴の雑種を飼っていた記憶があります。凛太郎はそれから三代目の飼い犬です。法隆寺で出会った犬のような、さびしげな犬には、凛太郎は決してしません。大切にします。ギュルル、ガルルと噛みついてくる凛太郎を抱き締めながら、そんなふうにふと思いました。