今日は、凛太郎の2回目のワクチン注射に行ってきました。獣医さんに行くと、借りてきた猫みたいにおとなしく、注射をお尻にぶすっと……フィラリアのお薬ももらって、無事帰りました。よかったね、凛太郎。
はじめに興福寺の宝物館だったね。そこで、明宏の仏像への姿勢がわかった。十分も二十分も同じ仏と向き合っている明宏を、先生はだから、なるぺく独りにしておこうと思った。先生は先生で、阿修羅に会いに来たのだ。が、今日の阿修羅は、なぜか心に寄り添ってくる感じがない。他人のような白々しい表情をしていた。どうしてだったのか、未だにわからない。むしろ、二躰隣の「サカラ」の童顔に惹かれた。サカラが明宏に似ているような気がした。少なくとも明宏は阿修羅ではないと思った。試練のときが過ぎた初夏の今、もう明宏は、阿修羅のような哀しい表情ではない。だから今日の明宏は、少しのこだわりもなく先生の心の中に入ってきた。饒舌に話さないことで、寡黙な同行者として了解することで、明宏をみつめる先生の視線に揺らぎがなくなった。その傷心を、哀しみを、不器用に慰めることなどもうしなくてよいのだ。冷んやりとした宝物館の空気の中で、明宏はピタッと静止した。
高畑の道はそこここが雨に濡れて、大きな構えの家々の佇まいが、それぞれに風情たっぷりだったね。志賀直哉旧宅は、雨天にもかかわらず人が多かった。二人だけならよかったのにね。あんなに大勢の人が居る所で志賀の文学について話したりしたら、嫌味で気障だものね。妙なこだわりかもしれない。が、やはり作家の旧宅などというのは、訪れる者をもインテリぶった嫌な奴にするものなのかもしれない。
その意味では、お寺は誰をも衆生として心安く迎えてくれるのだろうか。新薬師寺では人の大勢居ることが気にならなかった。寺域は小じんまりとして、いかにも俗っぽくて、西の京の薬師寺のような権威臭がなく、また巨額の金銭をつぎこんで修理したらしい堂宇もなかった。親しみの持てる、庶民のお寺だという感じがした。伐折羅をはじめとする十二神将を、懐中電灯で照らして拝観するという無礼なふるまいを、サラっとさせてしまう俗っぽさはこの寺のものなのか、先生の側にあるものなのか、今、反省しきり……。しかし、薬師信仰とはまさに現世利益。俗臭ふんぷんとしているほうが本筋なのかもしれないなと思い直してみたりもする。
凛太郎はすっかり大きくなりました。身体も、態度も。阿修羅のような繊細さは……もう、ありません。いや、今もその心の中に秘めているのでしょうか。それにしても、ピタッと静止してみろよぉぉ……。
