10月11日 淡路島伊弉諾(いざなぎ)神宮に銅像建立

ソ連の北海道侵攻阻止 樋口中将の功績、未来へ 淡路島で銅像除幕式  』

『先の大戦の終戦時、旧日本陸軍の第5方面軍司令官としてソ連の北海道侵攻を阻止したことで知られる樋口季一郎中将(1888~1970年)の功績を伝える銅像が、出身地・淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮(兵庫県淡路市)に建立され、樋口中将の命日に当たる11日、除幕式が行われた。▼樋口中将は淡路島内にある現在の同県南あわじ市出身。旧満州国のハルビン特務機関長時代には、ソ連やナチス・ドイツの迫害から逃れた約2万人のユダヤ難民を受け入れた脱出ルートは後に「ヒグチルート」と呼ばれた。終戦時は北海道や千島列島などの防衛担当司令官。昭和20年8月15日以降も侵攻するソ連軍に自衛戦で挑み、独裁者・スターリンに北海道占領を断念させた。』と産経新聞にある。▼この二月のロシア軍ウクライナ侵攻を念頭に考えてみます。

 ここでの「8月15日以降も進行するソ連軍」とは、8月18日の占守島上陸(地図にある千島列島最北端・占守島)を指す。スターリン・ソ連軍は、下図の北海道北半分軍事占領と並行して東北地方までの日本列島北半分の割譲を要求していた。その第一歩が占守島上陸、この時北海道軍司令官樋口中将は自衛にための断固反撃を指示し上陸ソ連軍を撃破スターリン軍の出鼻を食い止め北海道侵攻を断念させる結果に。

 もう一つの「約2万人のユダヤ難民を受け入れた脱出ルート」とは、旧満州国のハルビン特務機関長樋口大佐(当時)がソ満国境オトポールに足止めされたユダヤ難民を受け入れ日本軍満州鉄道の連携で下図のように上海を経てアメリカへと救出したことを指す。後日譚に『樋口中将はソ連軍北海道侵攻を阻止を理由にソ連から戦犯に指名されます。アメリカに脱出したユダヤ人が総力を挙げて樋口保護に動き、戦犯指名は立ち消えに。』とあります。

 

 ここで、知られざる英雄と、この度顕彰され軍服姿の軍人全身像が建立された樋口中将の功績と今日的意義に触れてみましょう。

 「北海道と日本列島をソ連から救ったこと」「約二万人のユダヤ人難民救出」の二つの功績が挙げられます。

 大東亜戦争終結と並行して始まったスターリンソ連軍の北海道侵攻、その第一歩目が主戦直後の8月18日の占守島上陸です。全陸海軍司令官が戦闘停止を命令する中、国民を守るためと自衛戦闘を指揮命令した陸軍司令官が二人いました。

 根本博北支軍司令官と樋口季一郎北海道軍司令官です。先に述べた通り樋口は「断固反撃」を命令します。占守島には最も勇猛な戦車部隊長と精強な戦車部隊が事前に配置されていたとのこと。「有備無患」と北海道樋口季一郎中将記念館(下記写真)にあり、精強勇猛な日本陸軍がソ連上陸部隊を撃退し、千島列島最北端の占守島にスターリンソ連軍を足止めにして北海道を救いました。(根本陸軍中将のついては、別途紹介します)

 

 昭和13年のユダヤ難民救出は、人道上の問題であり「断固救出」と樋口季一郎ハルビン特務機関長が指揮、松岡 洋右満鉄総裁総裁の協力で実現します。その後のナチスドイツ政府からの厳重抗議に対し、東条英機関東軍参謀長は樋口季一郎大佐の指揮を「人道上の配慮による処置」と支持しています。当時の日本陸軍も日本政府もナチスドイツのユダヤ人政策に人道問題として反対していたのです。(習近平チャイナ共産党のチベットウイグル人政策に人道問題として反対しない現在の日本政府/キシダ,リン政権は、昭和13年より退歩し劣化しているようです)

(今日的意義は、明日に続きを)