「空二モ書カン」祖国への祈り-桜のひと枝
歌われない歌詞

 昨晩は、学校の送別会「惜別の宴」だった。今朝、右

肩が痛むのでマッサージ機に横になると、桜のひと枝

のイラストが眼の前に昨晩の「惜別の宴」式次第のパ

ンフだ。校歌が三番まで書かれている、昨晩うたったう

ただ。


一、ああ黒潮の潮鳴なりと(後略)

二、垂穂の美田は我が家ぞ

石炭の宝庫は我が里ぞ

教えのままに身を立てて

我等報いん国の恩

三、朝夕(あしたゆうべ)に新たなる(後略)

と、ある。

 一,三番は、学校で日々耳にし、昨晩もうたった。二

番の歌詞はうたわれることがない、初めて目にする。

おそらく20数年前卒業した息子や娘も知らないだろ

う。その娘の長男、二番目の孫が、この四月静岡で小

学一年生になる。

 この「歌われない歌詞」、「なんと古臭い時代ばなれ

した」と思いながら、あわてて思った自分を恥じた。

「なんと古臭い」と思わせる感覚こそ、「敗戦後」が

古き良き習慣を奪い取り、私たちをダメにした「敗戦後

教育」そのものだと、思い出し反省しながら書く。


 この二番、なんとも意味深い歌詞でこの校歌の中核

を占めている。日々耳にする一、三番の校歌に、なん

と深みのないと疑問を抱いていた。やっと理解すると

ともに、限りない怒りを覚える。子供たちから宝物とも

言える「二番の歌詞」を奪ってしまった敗戦後教育。先

人の教えを消去してやまない学校教育。もうそろそろ

気づいて、「なんと古臭い」を消去し「古き良き習慣を

取り戻す」に切換えを、と思う。

  みなさんは??

島倉千代子:東京だよおっ母さん 

・・・NHKで歌えなかった歌謡曲

 紅白で歌われたことがない、靖国神社へのお参り

二番の歌詞が、「NHK的な慎重配慮」でと言われ

ている。

「戦後教科書から消された文部省唱歌」(心の歴史を

奪う権利は誰にもない)1997という本がある、図書

館から借りて読もうと思う。

続・歌われない歌詞

<仰げば尊し>

 一、あおげば とうとし、わが師の恩。

   教(おしえ)の庭にも、はや 幾年(いくとせ)。

   思えば いと疾(と)し、この年月(としつき)。

   今こそ 別れめ、いざさらば。

二、互(たがい)にむつみし、日ごろの恩。

    別るる後(のち)にも、やよ 忘るな。

    身をたて 名をあげ、やよ はげめよ。

    今こそ 別れめ、いざさらば。 

 三、朝夕 馴(なれ)にし、まなびの窓。

    螢のともし火、積む白雪。

    忘るる 間(ま)ぞなき、ゆく年月。

    今こそ 別れめ、いざさらば。

上記のうち、二番が歌われることは少ないようだ。

しかし、この三節のうたの核心は二番にある。冒頭の

「校歌」同様だ。「身を立て」「名をあげ」「励む」「報い

る」「国の恩」など、人間としての大事な部分に触れた

言葉が、まさに「言葉刈り」のように見事に刈り取られ

消去されている。


「空二モ書カン」祖国への祈り-「蛍の光」の碑

<蛍の光>の三番、四番

三、筑紫の極み、陸の奥、 海山遠く、隔つとも、

その眞心は、隔て無く、 一つに尽くせ、国の為。

四、千島の奥も、沖縄も、 八洲の内の、守りなり、

至らん国に、勲しく、 努めよ我が背、恙無く。

 この三,四番も、消されたように歌われない歌詞です。

これらは、遠く離れ離れになろうとも、また、それがたと

え辺境の地であろうとも、国のために心をひとつにして

それぞれの役割を果そうという意味で、万葉集の「防人

の歌」と共通する、国を守る歌です。

 

わが国は、記紀万葉の太古から国土防衛に心血を

注いできた歴史をあり、万葉集には、遠い関東から

九州へ赴いた防人たちの、家族への思いが切々と

歌われています。その防人の国家防衛への真情を

汲み取ることが歴史に学ぶということだと、わたしは

思います。   


日本語には霊が宿る「言霊」と言われています。

多くの人々に愛唱された歌は、「言霊」そのもの

ともいえます。その一部を消し去る行為は、言霊

をないがしろにする、無意識な反日であり、改め

たいものです。