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■中国人の気質

 

 

大和朝廷は、350年統一後、

 

400年代、新羅から秦氏一団の大群が来倭し、

日本列島に養蚕による生糸生産、織物生産、治水整地による水田稲作の拡大、祈祷神社の建立

秦氏の帰化を認め、大和王権の重要役職に置いた

 

これにより、大和時代は大和王権への上納は元より、国民全体が食糧を確保し、対外的な交易にもその製品クオリティーから事欠かない一大先進国となった

 

 

 

500年代、百済から仏教が伝来

 

そこで秦氏の尽力の前例があった事で目測を誤ったか、

迎えた百済の官僚は少し強引な気質で、大和王権は振り回されてしまう

 

蘇我氏を名乗り、仏教寺院を次々建て、

更に娘を王家(天皇家)の妃に出し繋がりを持つと、次々と強権を発動し、

 

それまで倭国で受け継がれた自然崇拝の祈祷祈念の石、木、その他を次々取り壊し、大和の一帯を寺社仏閣で埋め尽くしてしまった

 

遣隋でやたら高圧的に出て国交断絶となったのも、飛鳥政権の所以

本来の倭人にそのような対応をした者は居ない

 

百済から倭国実権を握った「百済新国」の大臣だから隋、続く唐に盾突いたと言える

 

 

大和王権の中心が飛鳥に移されたので、大和末期の590年代から120年間を飛鳥時代とも言う

 

 

その神道への壊滅政策を含めた日本伝統粛清と百済文化強要と反対者殺害の横暴に怒った物部、中臣氏が、蘇我氏をクーデターで殺害するに至った

 

 

また神道側も、仏教寺院に対し、社(やしろ)を建てる事で簡単に破壊されないように対抗したので、それが現在に至る厳かな境内のある神社としての造りとなった

 

 

 

しかし一方で、蘇我の飛鳥時代から奈良時代に成るまでの47〜65年間は、

 

白村江の戦いで敗れた日本が、突然に唐と同じ漢字を使い、唐と同じ律令を敷いた

 

 

唐の先進なる国家統制を取り入れ、軍備を強化し、世界の趨勢に対応したものとこれまで言われて来たが、

 

出雲天皇家の度重なる暗殺と出雲滅亡、

律令制施行からの藤原家の台頭と記紀編纂

 

 

蘇我氏の外来帰化の強調は、藤原が唐から日本の官僚に迎えられた、敗戦国の戦後処理の隠蔽及び正当化の雰囲気もある

 

 

以前から藤原の一派が、百済の王の帰化だという説がある

 

滅亡した百済の王族を、百済系蘇我氏の残党が亡命させ、藤原家として日本の重要役職に迎え入れたという事もあり、

 

592年から事実上の奈良時代だったとも言え、討たれた蘇我氏なので、勝ち残り勢力を拡大した中臣藤原に鞍替えしたという事も考えられる

 

 

また、白村江の戦い後の唐の書物(唐滅亡後に編纂)に、高句麗ー百済ー日本の連合性があり、そのまま置くと再び連合して勢力を拡大する危険性があり、

皇族兵を日本に置いたという記述がある

 

 

なので百済の王家をそのまま日本に亡命させ、権力を持たせるのを放置するというのは話が矛盾する

 

当時の高句麗は、騎馬民族の幾つかを配下に収めるほど中国北東部の脅威だったからだ

 

 

 

なので百済王は、本来敵対国要人・権力者に行なって来た、殺害や捕虜、遠方へ島流しをせず、

唐のスパイとして、日本の政治軍事情報を盗み取る為に日本亡命で生かしたのではないかという可能性が大いにある

 

しかもこの徹底したスパイと暗殺は、唐の兵法書に歴としてマニュアルの書き記された戦略だからである

 

 

日本は663年ごろの白村江の戦いから、あまりの急速に漢字、律令となり、

 

しかも神代文字の使用禁止とそれで書かれた書物や木簡の焚焼処分を強制し、

 

出雲の天皇家を次々暗殺して出雲を滅亡させて日本の紀元前からの伝統を消し、

 

更に出雲の存在を口にすると処刑する強権発動の情報操作を施す徹底ぶり

 

これで出雲には何もなかったと皆が口をつぐんで現代まで1300年を経過した

 

 

これだけの伝統消滅が、日本が近代化改革で、自主的に行われるはずがない

 

 

 

中臣から藤原姓を頂いた後、その藤原に入り込んだ百済王家とその一族は、

 

それを正当化する為に、中臣が古来日本の保守勢力で、外来の蘇我を討った事を強調したのではないか

 

記紀でも、欠史八代天皇だが、九州から出て何代も経て大和の地を治めた過程で、

 

出雲との関わりや出雲を大和連合にするに至る経緯が記されているので、

 

初代神武一代で奈良大和まで治めた事にして、途中の天皇を削除させたとすれば、全て話が繋がる

 

百済亡命王家の乗っ取り政権である飛鳥時代に滅亡させられた出雲王国だが、

 

明治維新なる英国スパイ軍隊によるクーデターながら、薩英戦争をした筋通しに拘る一本気な西郷隆盛は、

 

江戸へ向かう際、「出雲にはお伺い立てないのか」と言った話が残されている

 

 

つまり江戸時代の人は、大和天皇の一部が大陸・半島からの亡命帰化の出自隠しの為に、同じ紀伊半島の伊勢に神社を建てて始祖を名乗るが、

 

本来は出雲王国が紀元前から権限があり日本を護っていて、

大和末期の飛鳥政権に出雲天皇が次々暗殺され、天皇家が東日本各地に分住させられた話を知っていたのだ

 

 

 

 

 

 

まあ、それはそれとしてwww

 

 

中国語は母音が二重になっていて、イントネーションでそれぞれ別の言葉を示す

 

 

なので中国語は丁寧に正確に一語一語の発音を覚えないと、全く意味が通じない

 

 

 

しかしとある中国語講座で、俳優の中国人の読みが速く、日本人は正確に発音が覚えられないので、

 

ゆっくり発音したものを聴かせて欲しいと視聴者から要望があった際、

 

 

普通のスピードで挑戦しろと突っぱねた

 

 

 

 

ここに日本人と中国人の民族性の違いが出ている

 

 

日本人は聴き取り困難な発音だと、「相手」の手を煩わせ、迷惑を掛けてしまうので、

なるべく正確に覚えようとする

 

 

しかし中国人は、少しでも意味が通じれば良い、と基準が「自分」にしかない

 

 

中国も1986年頃に国民に義務教育を実施した事で、

現在は義務教育2世の世代で、経済も向上し、国際的感覚を持つ中国人が増えて来ているが、

 

中国国内で文化や価値観を踏襲した人には、未だ相手に気を遣う習慣が日本に比べて希薄なのだと改めて思わされた発言だった

 

 

日本で働く中国系(ハーフ)の美人さん、どうしても日本語の発音を流暢に矯正しようという気持ちが全くなく、

 

言葉は当然遜色なく通じるのにカタコトの喋りで笑われてしまうので、公式の場に招待出来ないという女性が複数居た

 

逆に日本人が海外で活躍出来るのは、この相手に合わせる気質の違いかなと

 

但し、反対に日本人は新しい事に失敗を恐れず飛び込んだり、自己主張すべき時に物を強く言えない欠点がある

 

 

日本の3大都市に大きな企業を運営しているヤリ手の妹さんや親戚の方と親しくした事があるが、

 

今、何がお金になるか、その嗅覚と、そのビジネスに入る行動の早さは日本人には無いもので、

 

優秀なサラリーマン、即ち会社に守られるのを前提にしか思考出来ない我々日本人に対し、

 

中国人は国民一人一人が商売人・経営者という決定的な違いがある

 

そりゃあ経営者なら、自分が流暢に話せなくとも、通訳を雇えば良いだけの話で、

語学に費やす時間を、別の事に遣える

 

 

 

 

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■弥生時代・大和時代

 

 

 

 

東急東横線(渋谷ー横浜方面)が、桜木町終点でなくなってから20年経つそうだ

 

 

その20年前に、虚偽の犯人通報され事件と全く無関係だと判っているのに、

 

未解決事件捜査をやってますアピールと予算達成に、今朝も20分ごとにヘリが

 

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と床から壁、天井まで揺れ、不整脈になりそうな振動を、

 

接近の2分、通過離去の2分の4分を、20分のうちの4分、1時間に12分間、延々と受け続け、

 

近隣のお宅は20軒引っ越し、また体調異変で、ヘリが来るようになってから何人も精神疾患が悪化し、そして亡くなった

 

昼間出ているので住んでいられるが、専業主婦や老夫婦はひとたまりもない

 

 

警察権力の横暴は今の時代も続いている

 

 

ただのマニュアル馬鹿なんだけどね

 

でもかれこれ20年だよ?

 

皆病気になるって

 

 

 

先月、出先にヘリ来たから、日没後で暗くなっていたので、携帯電話のビームでヘリを照らしたら

 

ヘリがバッシングして返した

 

自分たちが全く無意味な事をしている自覚はあるようだ

 

 

 

 

先日、雪の降る予報の前の夜、簡単な買い出しに出かけたら、

 

家を出て曲がった所で、向こうから人が歩いて来た

 

 

以前より視力は良くなっているので、見間違いは少ない

 

 

 

人が消える現象の起こる位置が、家から10分程度だったものが、

 

段々と近づいて、

 

遂に家から1分以内まで来たか

 

 

体型からは、過去に死んだ家族ではない、全くの他人

 

若そうで痩せていたので、今考えられるのは、その消えた男の子が歩いて来た先は、

 

今から20年ほど前に、小さな児童公園で自殺した中学生の事を思い出した

 

 

当時の駅からの近道で、その公園の脇を通っていたのだが、

 

当時、今までとは違う、異様な電磁波と雰囲気を感じ、

 

それとなく家族に軽く話したら

 

 

「え、知らないの?あそこでつい最近、中学生が首吊り自殺したんだよ?」

 

 

宅地化で、全然知らないお宅が増えてるから、地理的に地元でも、全く地元の出来事に感じない

 

恐らくそのお宅もどこか引っ越してしまい、

しかし人は死んだ場所に電磁波残すから、念が中学校と往復し続けているのかな

 

中学校自体大きいから、誰かしら病気や事故で亡くなって来たけど、先ず知ってる子だった試しがない

 

 

 

 

出雲に秦の始皇帝の側近一団が来て入港断ったのが紀元前220年ごろ

 

後漢の成立直後、漢委奴国王の金印まで277年

 

明治維新に来たとしたら、現在から更に120年後という年数だよ?

 

 

秦から後漢までの間の記録無いのかよ

 

 

一応、中国大陸では、過去の王朝時代の歴史書を踏襲して加筆を続けている物があり、それだと紀元前千年クラスからの言い伝えが継続している事になるが

 

自国の前王朝の歴史は書き換えられやすいが、

海外の事に関しては、直接利害関係がないので、比較的そのまま書き残されていると思われる

 

 

ペルシャ方面の出自であると思われる秦の始皇帝及び徐福が

 

「中華の文明は、大陸に移り住んだ倭人が開いたもので、中華の王朝も倭人が建てたもの、そして我々(ペルシャ)の祖先も倭人が来たもので、我々はその末裔」

 

みたいに言っていたが、その意味が解ったのがつい最近ではないか

 

 

文明の共通性、遺伝子ゲノム解析、言語、様々な物が、物凄く進化して正確に測られるようになり、

 

どうも縄文時代に日本列島ないしその島に住んでいた高度文明の持ち主が、

 

超巨大噴火で、東日本や海外へ避難し、

その後日本列島では、日本海側の福岡、出雲に国が創られたと

 

徐福は富士山の麓の湖に、かつて高度な文明人が国を創っていた事を、書に記している

 

もちろん徐福が来た時点では水没して無くなっていたが、伝説や口伝などで代々の言い伝えがあり、

 

近年、それを裏付ける物が徐々に発見されつつある

 

 

神話や口伝は、伝統芸能の小説物語などではなく、

 

実際にあった話が、代々何千年、何万年と語り継がれる、爺さん婆さんの恐怖体験談なのであると判る

 

 

紙芝居の漫画作り話で育っている近現代の人は、

神話や口伝だと、それと同列に捉えてしまうが、

 

今になって世界中で古代遺跡の発見と解析で、

実話の言い伝えだったのだと次々証明され、

 

改めて古くから伝わる神話.口伝、宗教の序章の話などが注目されている

 

 

ピラミッドが、東方からやって来た人が、次々と建てて去っていったとする話もあれば、

 

刻まれた文字の削り方から、音波による振動と同類と判り、

 

超音波で石を割ったり削り、超音波で石を空中に浮かせる事が物理的に可能である所まで研究で判明しているそうだ

 

 

 

飛んで大和時代(古墳時代とは使いたくない)の後期

 

次々と海外から官僚を招き、文化を取り入れた大和朝廷が、

 

538年ごろ、百済から仏教を取り入れた

 

 

 

 

 

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歴代天皇を親子で継承したとすると、初代神武は西暦1世紀となる

 

 

漢委奴国王なる金印を授かったのが西暦57年

 

倭国大乱が西暦80年ごろから

 

倭国の王・帥升が後漢に奴隷を160人差し出し朝貢したのが西暦107年

 

 

卑弥呼の平定が238年前後

 

大和に入り全国統一に着手した崇神天皇が、崩御したのが西暦257年ごろ

 

 

 

 

 

大隅諸島ヤマトから熊本山都〜宮崎の山へと移り住んだ大王一族

 

 

日向の国からの分派とも目されるが、

後漢に後見してもらう事で、九州倭国の最高位を名乗り、各地の中心地に役人を派遣した事から、

 

各国で怒りを買い、武力支配を示唆した役人と取り巻きを、殺害してまで抵抗した話が、古代の国府神社に遺されている

 

 

上記の生口160人納めた帥升は、スサノオの当て字という説もあるし、

 

神武が天皇を名乗り、各国の大元の血統であることを、大陸亡命民族の末裔が理解出来ず、反乱が起きて、

 

神武一行が九州から一旦離れ、そして更に歴史を築いていた出雲からも避け、大阪湾を隔てた紀伊半島に逃れ、

 

更に大和に長髓彦が居たので、紀伊半島を回り込み、三重・志摩伊勢から大和入りし、

 

大和制圧及び武闘守衛軍団により戦乱鎮圧は十代崇神天皇とされ

 

統治王は必ず殺される時代だったので、祭祀王を表に奉り、統治王を伏せた過程で、居所を示さずに統一への武力行使警護を続けたものとも

 

 

350年頃の大和の統一なるものが、

 

本当の倭国全土統一なのか、出雲を除いた九州〜関東統一なのか不明

 

 

出雲国譲りの話が、350年大和統一の直前のものを指すのか、

律令による飛鳥・奈良時代の暗殺滅亡の事を指すのか、二つの解釈がある

 

 

大和王は周辺国から文化を積極的に取り入れ、

 

新羅のユダヤ系秦氏から治水による洪水対策及び水田への水路、養蚕による生糸及び織物製造

 

百済から仏教

 

官僚の帰化を認め、重要な役に就かせた

 

 

 

 

 

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■肉汁ハンバーグ(2016年2月5日投稿)

 

 

 

 

今の若い世代は可哀想で仕方がない。

肉汁たっぷりのふわふわジューシーハンバーグを、殆んどの人は食べた事がないからである。

 

 

(石川ワタル

「今の競馬ファンは可哀想である。テンポイントをリアルタイムで見られないからである」

の論調)

 




ファミレスの美味しかった時代って、
1970年代後半~80年代半ばかな?


それまではデパートなどのレストランで食べていた。


本当に美味しかった。


金額はそこそこ高いには高いのだが、

それに見合う味と歯応えがあり、

格別な満腹感があった。




しかし、



90年頃からか、


年々チェーン店が店舗を一気に増やすに連れ、

酷いステーキ、ハンバーグが出て来るようになった。





それまで、千円以上、二千円近く出せば、

それなりのモノが出て来たものが、


それ以上の金額を出しても、


ナイフ不用のインチキヒレ肉を本格ステーキと3千円、4千円払わされ、

おでんのつくねのような味も素っ気もない自称ハンバーグに千円、二千円払い、
不味くて泣きそうになりながら頑張って食べなければならなくなりました。




どんな有名店を探し歩いても、

スーパーで売ってる温めるだけ系ハンバーグ………





店はダメだ。









ハンバーグは、スーパーで売っている挽き肉を使い形を作り焼くでしょ。

しかし我々銀座専門店は、ドイツ直輸入で粗挽きを、

クリトリスの感度が爆発して腰が抜けて潮を噴くほどこねくり回して、

抜群の歯応えにするのです。

普通の粗挽き肉でも出来るはず。

挽き肉と違い、老婆のファンデーションのように形がボロボロ崩れます。

そこを本気でこねくり回さないと形が整いません。

KC4B0065.jpg


肉汁トロトロなハンバーグ



個人的にはチーズとクリーミーソース、


サイドに添える緑の野菜に命を掛けます。


甘く柔らかいニンジンと、

脇役に徹するホクホクポテトもポイントです。



手作りで数限定となりますが

 

 

 

 


 

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