アムステルダムで有名なもののひとつに飾り窓がある。

それを見学にいった。
あくまでも「見て学ぶ」為に、である。
あくまでも「見て学ぶ」為に、である。

大事なことなので2回言っておいた。


貴重品は宿のロッカーに入れ鍵を掛け、(低予算旅に南京錠は必須)手ぶら状態で街を歩く。
なんなら地元のニンゲンですよ、こちらに住んでもう長いッス感を出しながら。

これは私なりに編み出した強盗被害に遭い難い方法で、どこから見ても「お金が服を着て歩いている」状態には見せないようにする為である。
服装はほぼ部屋着にビーサン。
そして邦貨にして1000円ぐらいの現地通過をポケットに入れているだけであり、またそのくらいあれば何とかなるのだ。
(昔は)

ところで飾り窓とはなんであるか。

女性が我が身を商品にしているショーケースのことである。

建物の壁に大きなガラスが嵌め込まれたその内側に一坪ほどのスペースがあり、怪しげなピンクの灯りの元、春を売らんとする女性が、かなりきわどい格好のまま立ったり座ったりポーズを取ったりしていて、当時の私のイメージとしては "ザ・香港の夜" であった。
オランダなのに。

街娼と呼ばれる人達のスタイルはパリで言うと、サンドニ通りやムーラン・ルージュのある辺り、サンジェルマンの森やバルセロナなら観光客で溢れるランブラス通りから旧市街に抜ける道のように街の辻々に立っている場合と、アムステルダムのように建物の内側にいてガラス越しに、売り物としての我が身をディスプレイしているところがある。
またスイスにはドライブイン方式の施設があって、ガレージのように車1台分のスペースを区切り、そこに停車後交渉した後、設えた部屋でサービスを受ける形式のものもある。

オランダやスイスの場合、売春は国が認めた職業で、つまりは合法である。
セーフティーネットとして社会保障もある。

オランダは性に対してかなりオープンで、忌むべきものではないとのコンセンサスが広く社会を覆っている印象を強く受けた。

しかし当然ながら、春を売るという行為に対して意を唱える者もいる。
合法に反対する者もいる。
ジェンダーの観点から、また街の景観や、性産業で観光客を呼ぶことの躊躇いもあるだろう。

かつては韓国のソウルにも幾つか置屋と呼ばれる娼婦街があり、最も有名な清涼里と言われる地域にもアムステルダムのようにショーウィンドウ型のそれがあった。

煌々と照らされた部屋を持つ、安普請のプレハブが縦横に走る様は、ある意味壮観である。

大きなガラス戸の向こうに立ち、あるいは座りながら道ゆく男たちにアクションを起こしていた女性達は皆、なんと言えばいいのか「もの凄い」感じに溢れ、私と同じ地平に立っているとは思えない別世界の住人のように見えたものだ。

過去形で書くのは現在再開発の為に撤去されてしまったからである。

性売買特別法が施行され、売買春は違法であるとの姿勢を政府は強く打ち出した。
それまでも違法ではあったが、黙認されてきた歴史がある。

売春は違法である、無くすべきだとの意見は当然あるが、一方で当の自身を売る側の女性達から大きな反対の声が上がる。

金銭と引き換えることができる技術も能力も(そして学歴も)乏しい者にとって最も手っ取り早いのは自身の身体を売ることであるからだ。

春をひさぐことによって生活をしてきた彼女達にとってそれを違法とされるのは死活問題というわけだ。

歴史上、自尊も矜持も権利も搾取された後、またはされながらその仕事をしている女性も多くいたのは間違いないだろう。
また現在もいる可能性はある。

望んではいないのにそうさせられている人は別だが、しかし自身で希望してその職に就く人がいるのもまた事実であり、その後の生活が立ちゆかなくなることを考えると反対する立場も分かる。

勿論、女性を性的なモノとしか捉えない視点、性暴力、それを助長させるポルノ的表現等、性差別のありようの是正、また身を売らなくても生活して行けるよう雇用を増やし、経済を潤い続けられるような社会構造を作ることは大事だろう。

しかし明日の生活もままならない者にとってそんな綺麗事(と言って良いものか少し迷う)は吹き飛ぶし、だから結果として地下に潜る。
ここも依然として春を売る街である。

実際どこの国へ行ってもそのような行為でお金を得ている人々はいる。
史上最も古い職業と言われている所以かも知れない。


"春を売る街"とは「春を売る人がいる街」ということだが、同時に「春を買う人がいる街」でもある。

そこに買う者がいるから悪いのだという意見は半分正しい。
だがその側からしかものを見ていない。

少なくともオランダのように合法である場合、職業選択の権利を侵すなという意見もあるだろう。

しかし、私は思うのだが、自身の身体を売る行為が理由もなく「善いことではない」という社会的合意は人々の中にあるような気がする。

それは「何故人を殺してはいけないのか」という問いにも通じ、そんなものは誰しもが知っている、又は感じている「いけないものはいけないのだ」という社会の営みの中で醸成されたコンセンサスがあると思うのだ。

「何故」という言葉を付け、理由を考えなければいけないと思い込ませる、マジックのような問いで卑怯とすら感じる。
(勿論「身体を売る」と「人を殺める」は次元の違う話である。前者は合法下に於いては権利であり、後者はそもそも合法などないからだ。「戦争の場合、合法なのでは?」「死刑は?」という意見は今は触れない。)

しかし「善いことではない」と感覚は告げても、食うや食わずやの状況になれば (自分の肉体をお金に換えることぐらい)と考えてしまうのが人間なのかも知れない。
「人は腹が減れば交番の米も盗む」と言ったのは誰だったか。

誤解のないよう書き記すが私は売春についての是非を語っているのではない。
ただ、世界は未だにこのような状態である。

アムステルダムから始まった話がソウルを経由し、表題であるアムステルダムに戻ることもなく、行方知れずとなり、どう着地させたらいいのか全くわからなくなっている自分がいる。
ま、いつものことだが。

世の中は思いの外、春に溢れていて、豪雨をもたらせた厚い雲は去り、明るくなった雲の隙間から差し込む日差しが部屋に入り込んでいることに気付いた。


間もなく雨の季節だ。