パリからの夜行列車でアムステルダムに着いた時は雲ひとつない快晴で、雨の気配など微塵もなかったが、何故か "雨のアムステルダム" という映画があったことを思い出していた。

東京駅がそのモデルにしたというだけあって赤煉瓦の瀟洒な造りが良く似ているアムステルダム中央駅。
いや良く似ているのは東京駅の方か。

駅前広場に出て、10時の方向へ進めば目的の安宿街である。

アムステルダムと言えばチューリップや風車でお馴染みのオランダの首都であり、どことなく華やかなイメージであったが、行くまでに色々な場所で旅人達から聞いたところ、治安の悪さに驚いたというような話ばかりだった記憶がある。
今はどうか分からないが当時は治安の悪い街として名を馳せていたのだ。

安宿街へ向かう途中、私を追い抜いていったガタイの良いお兄さんが、私を追い抜いた直後にポケットから何かを取り出し、手首を素早くクイっと動かすと「すちゃっ」の音と共に現れたのは飛び出しナイフであった。

(えっ⁉︎、ちょ・・まって)

その時は襲われることもなく、そのままスタスタと歩いていったお兄さんだが、思うに今着いたばかりの旅人に、「この街はこんな感じだかんね」とのからかいながらの洗礼だったのかもしれない。

朝到着の夜行列車で、太陽が暖め始めたばかりの街は、まだ目覚めていないような時間帯であったが、これが夜だとかなり気を付けなければいけない感じに溢れ、夜に到着するのは避けるべき街のにほひがプンプン漂っていた。

決めた宿は若いスタッフだらけで、空腹だった私は食堂に行くと、カウンターの内側にいるお兄さんは朝から葉っぱをお吸いになっているらしく、ニコニコご機嫌な笑顔で彼女らしき女性と戯れている。
(因みにオランダは大麻については違法だが、5g以下の所持、吸引は可能であり起訴はされない。)

ハムサンドと牛乳をオーダーし、外が見える窓際の席に座る。
暫く時間が過ぎたが、ハムもサンドも牛乳もやってくる気配すらない。

「ねぇ、ハムサンドと牛乳頼んだよね?」

すると忘れていたのだろう、「アウチ!」と言いながら自分のオデコをピシャリと叩く。

「すぐ作るよ」

ややあって持ってきたのはハムサンドのみ。

「あのさ、牛乳も頼んだよね?一緒に持ってきてよ」

するとまた同じように顰めっ面をした顔に向かって手のひらをピシャリ。
キッチンへ入っていくお兄さん。
しかしなかなか出てこない。

痺れを切らした私はカウンターへ。
奥を覗くと彼女と再びのイチャイチャタイム中。

「おーい。牛乳どうした?」

「あ、あのね、牛乳無くなっちゃったんだ。」

「・・・何があるの?オレンジジュース?じゃそれでいいわ。」

自由と寛容の国オランダである。
私も郷に入れば郷に従い、寛容でいよう。

アムステルダムと言えば、アンネフランクがナチスの迫害からその身を隠していた家が有名である。

今は博物館になっているその建物は本棚の裏に隠し部屋があり、ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に発見されるまでアンネの一家が約2年間生活していた空間に入ることができる。

木製の調度品が生々しくこちらに迫り、この狭い空間で2年間にも渡り水を流す音すら出せない隠遁生活を強いられていた彼女達8人の想いを感じることに、それほど逞しい想像力は必要ないだろう。

発見された後、ユダヤ人強制収容所であるビルケナウからベルゲン・ベルゼンへと移送され、16歳の誕生日まであと数ヶ月となったある日、病死する。

人類が起こし、または侵し、そして犯してきた過ちは数多あるだろうが、その傷痕が生々しい形で残る負の遺産のひとつがここアンネフランクの家だろう。

余談だが、民族そのものを根絶やしにしようとするホロコーストを経験し、生き延びたユダヤ人が第2次大戦後パレスチナの地でしてきたことを思うと人間の愚かさを感じずにはいられない。
ナチスとユダヤ人(というよりシオニスト)では目的は違うがしたことは同じようなものである。


またアムステルダムは飾り窓でも有名である。

そのことは次回書く。